第五話「ロール」(前)
午前授業のある土曜日。フィーナはいつものように僕を起こしには来なかった。朝からどこかに出かけているらしい。
「アカちゃんは相変わらず一人じゃ起きられないのねぇ」
決して悪気はないであろう母さんの言葉が、少しカチンときた。
フィーナと出会ってから、何度目かの<舞台>。もうここから飛び降りる人間は見かけなくなった。
まるで、嵐の前の静けさだ。いや、今週の月曜日には確かに大勢の建築物と人が消えた。だが、それらは全て、僕との関係が薄かったせいか、それほど大きな危機感を僕に与えなかった。
日野出学園の門前に立った時、いつも見ているはずの光景に違和感を覚えた。何も違っていない。いつもと違っているのは、僕の気持ちの方だ。この中に、ガモーネがいる。フィーナは無理に探す必要はないと言っていたが、何もしないで待つ方が辛いこともある。
「どうしたの、遅刻するよ?」
門前で呆然と立っている僕の袖を引いたのは堺だった。彼女はガモーネやロールについての新しい情報を一切知らされていない。神器を封じられ、今は普通の人間と何も変わらないから、フィーナは彼女を放置している。彼女が期待した、ガモーネからの接触は、これまで一度も試みられなかった。もう、フィーナの中でのチカは用済みに近い状態にあるとさえ思う。
「ああ、そうだね。行こうか」
こういったタイミングで僕の肩を叩くのが日課になっている京太は、案の定、期待した位置に現れた。
「よっ、朝からお盛んだね!」
こういう時は「お熱いね」が常套句だと思うのだが、確信犯を諭すような言葉はない。
「いやぁ、それにしても平和だねぇ。明日が休みだというのは、月曜日にも見習ってもらいたいもんだ」
「あぁ、本当に。月曜日にも見習ってもらいたいもんだよ。平和ってのに……」
フィーナと出会ってから、日曜と月曜にろくな目に遭っていない僕は、京太とは違う意味で嘆いた。
ホームルームに現れたのは、ナ先生ではなく、教師橘だった。
「えぇ、ナ先生は風邪でお休みなので、今日は臨時に私が担任となる」
誰ともなく「えぇー?」と言った声。だが、橘は気にも留めない。
「それでは出欠とるぞ。相原恵子……」
朝から嫌な顔を見ることになった。京太の方を見ると、彼も同じことを感じたらしく、苦いものでも噛んだ様な表情で返した。
「功刀明……いないのか? 功刀!」
「あ、はい!」
チッ――と舌打ちが聞こえた。橘の悪い癖だ。
それから橘は数人の名前を読み上げていき、京太の番になった。
「……火乃」
「ふわぁい」
あくびをしながら、明らかにやる気のない態度で京太が答えると、橘は口元にいやらしい笑みを浮かべた。
「……そういえば、昨日何者かが校舎に侵入して理科室の備品を壊したそうだが、お前じゃないだろうな?」
「先生、証拠の提出を求めます。じゃないとメーヨキソンです」
橘は鼻で笑うと、次の名前を読み上げた。犬猿の仲とは彼らのことだが、ただ単に橘の嫌われようが酷いだけだろう。
昼休みに窓から外を眺めていると、一台のボロいワゴンが校舎の横に止まった。中から出てきたのは――
「親父?」
どういうことだろう。親父を呼びつけられるような事件を起こした憶えは――あるにはあるのだが、それでも僕の耳に何も入らないのはおかしい。
「ああ、親父さん、また来てるの?」
京太が横から首を突っ込んできた。
「えっ、功刀君のお父さん? えっ、ちょっとカッコいい……」
ついでに堺も便乗してきた。これ以上話が拡大するのは困るのだが。
「どうしたんだろう?」
「えっ、知らないのか、明? お前の親父さん、結構学園に来てるぞ」
「へ?」
「うちの図書館の蔵書の多さでは結構有名だから、多分、資料漁りに来てるんだよ」
確かに我が学園の図書館は、図書室という呼称では収まりきらない。体育館と同じ広さの建物に、何十万冊という本が並べられている。図書委員に課される労働の過酷さは、まるで鉱山送りになった罪人にも似ている。しかし、一つ屋根の下に住んでいながら、僕はこの事実を今の今まで知らなかった。
「資料? 学者さんなの?」
京太が変なことを言ったせいで、僕はついに堺にも父の正体を明かすはめになった。この時の彼女の喜びようは、改めて言う必要はないだろう。
放課後、僕は運の悪いことに、橘から図書館への備品の移動を命じられた。ちなみに京太も一緒だ。不要になった机を九つ抱えてゆけとのことだが、何となく彼の悪意を感じる。
運良く親父には出くわさなかった。最後の一つは二十回戦にも及ぶジャンケン勝負の末、京太が運ぶことになった。
僕は一足先に教室に戻ることになった。
(あっ、そういえばカバンは下に置いてたな)
作業を終わらせたらとっとと帰るつもりだったので、カバンは下駄箱の上に放り投げていたのを思い出し、僕は身を翻した。
その時――
「あんた、ダメダメじゃん。結局まだやめられなかったのね」
「ねぇねぇ瑞奈、ちょっと見てみたくない?」
「あたしも見たいな」
「何をよ?」
「実際にこれやってるところよ。これ全部打ったらどんなになるのかな? 映画みたいになるのかな? 死に掛けのカエルみたいに白眼剥いてさぁ」
この声は、あの三人だ。
嫌な予感。もう、僕なんかとは全く縁のなくなった、低レベルな争い。命のやり取りを覚えた人間にとっては、児戯にも似た下衆な遊び――その声が、僕が背を向けたばかりの教室から聞こえる。
「でも大丈夫? 誰か来ない?」
物部小織の声だ。
「大丈夫よ。カバンなんて一つも残ってないし。みんな下校したわ。教師も今は会議中よ」
これは物部優子。
「堺さん、あたしさぁ、功刀君と約束したの。あなたのことはもういじめないって。だから、あなたの喜ぶことをいっぱいやってあげるね。フフ……」
これは――信じたくはないが、この声は、瑞奈春過だ。
「さあ、右手つかんで」
「や……やめ……!」
「口押さえときなさいよ」
(やめろ……喋るな。瑞奈)
「ん――! んむ――!」
「うっさいわね。瑞奈、やっちゃってよ」
「それーー!」
(畜生! 僕は馬鹿だ! 騙されるまで怒らない馬鹿だ!)
僕は、教室に歩み寄ると、思い切り扉を開けた。
「えっ、功刀? ヤバッ!」
親衛隊の二人が同時に声を上げる。
「何やってるんだ?」
少し声が上ずったようだが、気に留めているような余裕はない。
「あら、功刀君。どうしたの? あなたも混ざりたくなった? いいわよ。こっちに来れば?」
瑞奈の手には小さな注射器。そしてその下には、ぐったりと横たわる堺の姿があった。
「やめろ」
「やめる? 何を? あたしたち、堺さんに何か悪いことした?」
「ほざけ……」
「訊いてみれば?」
瑞奈は堺の左腕をつかむと、無造作に引き起こした。
堺は、少しまどろんだ目で僕を見ている。
「無理よねぇ、堺さん? 功刀君に助けてなんて、死んでも言えないわねぇ? だって、彼、あなたのこと知ってて助けなかったんだし。あたし、彼に教えたのよ。あなたが悪いことしてるって。でも彼、あなたにそれをやめさせるために何かした? しなかったんでしょう? そんな人に助けてなんて、死んでも言えないわねぇ……」
瑞奈の余裕に勇気付けられたのか、親衛隊の二人は先ほどまでの戸惑いを捨て去って、僕を嘲笑し始めた。
堺は、僕を見ている。ただ、じっと僕を見ている。そこには何の感情もこもっていなかった。まるで教室の備品を見るかのような、無感動な眼差しが、僕にとっては苦痛だった。
「<竜の翼>で……<竜の翼>で引き裂けばいいのに……」
僕は、心の底からそう思った。今、堺は神器をフィーナに封じられている。もしそうでなかったなら、迷わず使うべきだと、そう思った。
「何言ってんのこいつ?」
「ははは、アニメのセリフ? 功刀って実はオタクぅ?」
「うるさいッ!」
どうやら僕にも他人を威嚇するだけの力量はあったらしい。親衛隊の二人を黙らせる程度には、それは役に立った。
「うるさいのはあなたよ、功刀君」
瑞奈は僕の心を見透かしたような口ぶりで言う。
「約束を破ったな、瑞奈!」
「いいえ、破ってないわ」
「うるさい! どうして堺に当り散らすんだ! 猫にだってそうするのか?」
「邪魔なのよ、こいつ。本っ当にムカつくの。それにあたしの可愛いアゴチンとこんなクズ女を一緒にしないでくれる?」
「クズはお前だ!」
僕は目の前の邪魔な机を蹴り飛ばして四人の前に飛び出した。
拳を振り上げた。このまま瑞奈を殴ってもいい。僕の中のほとんどの細胞がそれにゴーサインを出していた。だが、その衝動が沸き起こる度に、僕の心の底――いや、表層にあるにある何かが、それを塞き止める。
「どうするの? 殴るの? 女の子に手を出すの? 最低ね、功刀君!」
殴れない。できるわけがない。僕にできるのは、彼女から堺を取り上げること。それで満足するしかない。だが、それでも瑞奈に何の罰も与えられないというのは我慢がならない。
すぅ――と、眼下で空気を吸い込む音が鳴った。
「いいえ、死ぬのよ」
僕と瑞奈が同時に堺に視線を移した時だった。
黒い何かが、瑞奈の顔面に直撃した。
「――ッァ! ――ッ! ――ッ! ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
野獣のものではないかと思うような醜い悲鳴に、全身が総毛立った。
瑞奈が抑える左目に、黒く細長い何かが突き刺さっている。
ボールペンだ。何処にでも売っているような、安いボールペン。それが、瑞奈の左目に突き刺さっている。
「あぁぁぁぁ! ――ーーッ! ぁぁあぁ!」
激しく体を痙攣させて、瑞奈は仰向けに倒れた。
「ねぇ……これヤバくない? 先生が来たら……」
「あたし、知らない。ホラ、行こ!」
親衛隊の二人は、目の前の光景に怖気づいたのか、敬愛する瑞奈を見捨てて教室から走り去った。
僕はただ、眼前の地獄のような光景に、血の気が引き、戦慄していた。
ゆらりと立ち上がった堺は、倒れた瑞奈の顔を覗き込むと、
「クズ女に殺されるあなたは一体何なのかしら?」
といって、床に散らばった注射器の一つをつかみ、瑞奈の喉元目掛けて振り下ろした。
「やめろ! 堺、もうやめろッ!」
僕は反射的に堺の右手をつかんだ。殺せと言ったのと同じ口で今度は彼女を戒める。
「離して!」
「やめろ、堺。殺すほどじゃない! 自分の手を汚してどうするんだよ!」
堺は僕の手を振り解こうとするが、僕が力いっぱい締め付けるせいで、それもままならない。彼女はしかし、毒にも似た言葉を僕に向かって投げつけた。
「やめて、功刀君! こんな女を助けるだなんて言わないで。私は、あなたほどには多くの仮面を持っていないのよ! あなたみたいに、多くの隠れ家を持っていないのよ!」
堺の叫びは、同時にチカの叫びでもあった。彼女は、常に処刑直前の捕虜にも似た境遇にあったのだ。
(堺……畜生! 畜生ッ!)
刹那、ふらりと、眼前の景色が歪んだ。几帳面な長方形である黒板が、静かに波打った。
「えっ……」
教室の外で、強い風が吹いた。それが窓を叩くたびに、世界はゆっくりになった。
僕は、この感覚を知っている。
(おかしい……瑞奈の声が……)
直前まで悲鳴を上げていた瑞奈の声が途切れた。彼女は失神――いや、あるいはショック死してしまったのではないか。
突然、がらりと扉が開いた。僕と堺が振り向くと、そこには教師橘の姿があった。
「これは……」
橘は床に散らばる注射器と、そして左目にボールペンが突き刺さったまま倒れて微動だにしない瑞奈を見ていた。
(しまった……この状況は……)
タイミングが悪いにもほどがある。この状況を見られてしまっては、堺には何の弁明もできない。しかもよりによって発見者は橘。僕らの言い分など、聞くわけがない。
だが、次に橘の口から出た言葉は、僕の――そして恐らく堺の想像を超えていた。
「何を……遊んでおられるのです?」
僕でもなく堺でもない。橘は小さく溜息をつきながら、死にかけている瑞奈に声をかけたのだ。
(遊ぶ? この状況で? 何を言っている? こいつ……)
「フフッ……」
微かな笑い声。勿論、堺ではない。彼女は、前髪で隠れていない右目を大きく開けて、橘を見たまま硬直している。
「ガモーネ。もう少し待ってくれてもいいだろうに……」
意識を失っているはずの瑞奈が、まるで痛みなどないかのように流暢に喋る。そして、彼女が発した言葉は、僕が非常に危うい状況にいることを否が応にも認識させた。
「ガモー……ネ……?」
僕が再び橘に視線を移そうとすると、再び視界が歪んだ。扉の前には、いつかの黒コート――ガモーネが立っていた。
そして――
「酷い。酷いなぁ、チカ。儂の目を潰すとは、本当に酷い。こんなに痛い目に遭ってしまっては、お前を許すこともできなくなりそうだ」
瑞奈は立ち上がった。
景色が歪む。
「ふむ、それで、お前がアルフェンティーナの相方か? おやおや、ただの餓鬼ではないか」
ガモーネは瑞奈の前に進み出ると、跪き、その足先に接吻した。
瑞奈は左目に刺さったボールペンを引き抜いた。
「おお、痛い痛い……」
彼女は左手で自分の目を覆った。すると、瞬く間に傷が癒え――いや、違う。これは別人だ。瑞奈のものではない黄金色の瞳が、そこにあった。これは瑞奈の目ではない。別のどこかから取ってきたものだ。
「その様子だと、儂が何者か知っているようだな? 功刀君? フフッ……」
「お前は……ロール!」
「いかにも、儂こそが章帝国が第一皇位継承者、倭洸=珠鏡尊=ロール=アンナエだ」
それは突然、僕の眼前に現れた。「月曜日失踪事件」の元凶そして、僕とアルフェンティーナの敵が、ついに姿を現したのだ。
「ロール……様……」
堺はその場にへたりと座り込んだ。今、最大の危機にあるのは僕なのか、それとも彼女なのか。
瑞奈――いや、ロールは堺の声など聞こえないかのように僕だけを見て話しかける。
「残念か? 瑞奈春過がお前の敵であったことが、そんなに残念か? んん?」
殺される。直感だった。彼女には、それだけのことを平然とやってのける強い意志を感じる。思えば、何十、何百もの人間を、誰にも知られないような方法でこの世から消した女だ。僕一人をこの世から消滅させることくらい、造作もないだろう。
(畜生……最悪だ。フィーナさえいれば……)
僕も堺も、眼前の敵と戦う手段を持たない。
「ん? 喋り飽きたか。では、消えるか? なぁに、我らが故郷の糧となるのだ、光栄に思え」
予感というには生ぬるい。それは確信だった。僕はここで殺される。
「<竜の翼>」
ロールの呟きとともに僕の命が――
「ロォォォォルゥ――!」
全ての視線がそれに釘付けになった。窓の外、そこには、校庭からロールを睨めつけるフィーナの姿があった。
跳躍した。
まるで撃ち出された砲弾のような速度で、フィーナは僕たちに向かって突っ込んで来た。
炸裂。<真直の頴>は教室ごと僕らを巻き込んだ。
気付けば、僕は半壊した教室の中にいた。眼前には、右手に<真直の頴>を持ったフィーナ。間一髪、彼女は間に合った。
僕がフィーナに知って欲しいと感じたことは、全て彼女の知るところとなる。だから、フィーナは僕とロールの接触に気付くや否や、一目散にこちらに向かってきたのだ。彼女が学校の近くにいたのは幸いだった。
「おやおや、アルフェンティーナ。校舎を壊すつもりか? 大勢の人間が下敷きになってしまってもいいのか?」
ロールは、まるでそれが当然とでもいうように傷一つない。
「ようやく会えたね、ロール! アタシがこの瞬間をどれだけ待ち望んだか!」
フィーナが有無を言わさずロールに斬りかかろうとするが、にわかに二人の間割って入った者がいた。
「ここは私にお任せを……」
橘とは全く違う低い声。ガモーネだ。
「下がっていろ、ガモーネ。お前の敵う相手ではない」
「……はい」
ガモーネは引き下がったが、顔は悔しさで一色に染まっていた。
「さて、アルフェンティーナ。単騎での突撃とは、まことにお前らしいが、無謀と勇壮を履き違えてはいないか?」
「余裕ね、ロール。アンタの方こそアタシをなめてるんじゃないの?」
「なめている? では、御覧に入れよう。我が奥義を……」
ロールは学生服のスカートの端をつまむと、小さくお辞儀をした。
フィーナは僕の方に手を伸ばした。
「アカリ、君の体を貸して!」
僕はフィーナの手を取った。途端に視界がフィーナのものに切り替わる。
右手に持った黄金色に輝く<真直の頴>を寝かせ、眼前の敵に突っ込む。
「<竜の翼>! 竜に刃向かうは、この空全てを敵に回すことと知れ……」
再び、ロールは自らの神器の名を呼んだ。
(<竜の翼>なら! もう破った!)
チカとの戦いで、フィーナは一度これを制している。だから、ロールが同じ武器を使っても負ける気はしない。
「アカリ! ダメッ! アタシに意識を合わせて!」
僕は、知らぬ間に一歩を踏み込んでいた。
いつか、堺がチカの操る体を勝手に動かしたことがあった。僕はそれで死を免れたのだが、今度はそれと同じ現象が起こり、全く逆の結果を生んだ。
ロールのスカートは割けない。剣刃は、そこには現れない。
「ククク……まくれると思ったのか? 下女のような真似を儂がすると思ったか?」
(えっ……)
頭上で何かが煌めいた。
目が眩むような光量。それは、天井が崩れた先の空から、フィーナに向かって降り注いだ。
「うあ……ッぁ!」
一瞬で、全てが破壊された。フィーナは咄嗟に<真直の頴>でそれを防ごうとしたが、命を守る以外に何の役にも立たなかった。僕はチカの言葉を全く忘れていたのだ。彼女は確かに言っていた。自分は<竜の翼>を完全には扱えない――と。
光は、それ自体が恐ろしく強靭な刃物だった。幾百、幾千、幾万もの光の翼が天空から敵に襲い掛かる。それが、ロールの扱う神器<竜の翼>だった。それはもはや刃物の形すら成しておらず、僕には光り輝く巨大な定規が無造作に上空から打ち付けられるようにしかみえなかった。
両肩の盾が砕け、<真直の頴直>は無残にも砕け折れた。全身が血まみれで、満身創痍。ただの一撃で勝負は決した。床が砕け、校舎が半壊し、ところどころで悲鳴が聞こえる。
以前もそうだったが、僕たちの敵は、無関係の人間を巻き込むことに何の躊躇も持たない。それは彼女らにとってのこの世界の住人が、ガソリンや石油くらいの価値しか持っていないことを意味していた。
「ふむ……生き残ったか……」
それが信じられないといった口調で、ロールは言った。僕も、あれだけの攻撃にさらされて、生きているのが不思議なくらいだった。
ロールは虫の息となったフィーナの元に歩み寄ると、髪の毛をつかんで、無理に引き起こした。
「あうぅ……」
「なぁ、アルフェンティーナ。悪いことは言わない。我が軍門に下れ」
「……黙れ、賊め! すぐにその首かき切ってやるわ!」
フィーナが吼えるも、今や負け犬の遠吠えでしかない。
「ははっ! 賊か。それはいつの話だ? 賊とはお前のことだ、アルフェンティーナ」
「世迷言を!」
「いや、いやいやいやいや、これが実は世迷言ではない」
ロールはおもむろに右手を上げると、僕らに向かって手の甲を見せた。鈍い光とともに、そこに何かの模様が浮き出た。
(……鳥?)
刺青のようなそれは、ナスカの地上絵のように線で形作られた模様だった。
「<雲雀章>……」
ぽつりと呟いたフィーナの顔から血の気が引くのを感じる。
(<雲雀章>?)
「そう。これは皇帝家の紋章……これを儂が持っているという意味はわかるだろう? 我が父は儂をお許しになられた。今の儂は反逆者などではない。皇帝直属の一軍を任される、将軍ロールだ」
僕は、恐らくフィーナも、ロールのこの言葉に愕然となった。堺も信じられぬものを見たように呆然としていた。彼女も知らなかったのだ。フィーナに聞いたことと、全て逆のことが展開していた。ロールはテロリストではない。芯世界の帝国は、全力で僕らの世界から<うつろわざる神>を奪いに来ることを決めたのだ。
「嘘だッ!」
「嘘ではない。この紋章の重さは、誰よりもアルフェンティーナ、お前が知っているだろう? さあ、アルフェンティーナ。儂の元に来い。誰もお前の罪を問いはしない。久しぶりに我が子に会いたいだろう?」
フィーナはもう、答えることができない。だが、彼女はそれでも拒絶の意志を表すために、砕け折れた<直 剣>の柄を取った。
「嫌……だね……」
口が勝手に動いた。そう思ったのはフィーナの方だっただろう。僕は計らずして、自分の声が外界に放たれたのを知った。
「その声…… アルフェンティーナではないな。功刀明か?」
「皇帝の証だか何だか知らないけど、そんなものは僕には関係ない。出て行け! 夜中にコソコソと人の家に忍び込む泥棒めッ!」
彼女らの会話にむかっ腹が立ったのは当然だ。僕は元から皇帝の命令に従っているつもりはない。
「泥棒……泥棒と言ったのか?」
「他に何の呼び名がある? フィーナも時々酷い事を言うけど、泥棒とは違う。お前たちは最悪だ。出て行け。僕たちの世界から、出て行け!」
「ぷっ……ははは!」
何故か、急にロールが笑い出した。
「泥棒? 儂が? アルフェンティーナと違う? はははッ」
「何がおかしい?」
「アルフェンティーナよ。この者に教えなかったのか? お前がどうやってこの世界で食いつないできたのか? お前の<真直の頴>が果たして人間一人の<うつろわざる神>であれだけの力を発揮できるのか? 説明しなかったのか?」
「何を……言ってるんだ……」
「功刀明……教えてやろう。この女は、儂と何も違わない。戦うために、この世界の存在を貪っている。お前の目に触れないところで、力を蓄えていたというわけだ」
疑問。アルフェンティーナに一度投げかけたものだ。彼女が操る超常の力は、果たして僕の <うつろわざる神>だけでまかないきれるものなのか。彼女はそれに、イエスと答えた。だが、それが嘘であったのなら。僕が心の中で、まだ納得しかねていた部分――そこをロールはえぐり出した。
「違和感は感じなかったのか? アルフェンティーナと一緒に居ながら、お前は常に何かを盗まれ続けたということに。それとも<隠者の天秤>は、お前がそれに対して考える力を奪ったのか? ほれ、一度それを解いてみよう」
ロールが右手を上げると、景色が歪んだ。歪みの中心から<門扉>が姿を現した。
――やめろ……ロール!
脳内に響き渡るフィーナの声。だが、それを嘲笑うかのようなロール。
結合。頭の端にこびりついていた疑問が氷解した。
フィーナと再会した時から感じ続けていた違和感。
そう、彼女を駅で拾った時、月曜日でもないのに男が闇に吸われるようにして消えた。僕が見た唯一の例外。彼の魂は何処に行ったのか。
「食ったのだよ、アルフェンティーナは、その男の<うつろわざる神>を、食ったのだ」
まるで心を見透かすようなロールの囁きとともに、僕はその時の光景を思い出していた。
――ゴメン……
男が消える時、フィーナは、確かに言った。
「それだけではないだろう? アルフェンティーナ、いい加減に白状すればどうだ? お前がこちらに来てからの初めての食事のことを、この坊やに話すがいい」
「フィーナ? 食事? どういうこと?」
「ああ、人が好いだけの可哀想な功刀君。お前は奪い取られた。知らない間に、この女に奪い取られたのだよ。注意しないから! こんな女を簡単に信用するから!」
ロールが何を言っているのかわからない。
「フィーナ……?」
――功刀……星……
頭の中で、懐かしい名前が甦った。
いた。あの人だ。全て思い出した。ここ数週間の全ての違和感の謎が解けた。
黒く長い髪。そして強い光を秘めた瞳。背は少し高く、いつも寝ぼすけな僕を起こしに来る。クソ親父との喧嘩の時も常に割って入ってきて、時には僕の分まで殴られる。
母さんが間違って二人分食事を出したのも、間違ってなどいない。
親父が客室と聞いて首をひねったのも当然だ。あそこは――あそこは■■んの部屋だ。
(■さん……?)
功刀星。二歳年上の僕のーー僕の姉。そしてその人は、確かに今、ここにいる。髪の色は少し違うが、容貌はほとんど同じ。
アルフェンティーナが隠していた最大の秘密。それが明かされた。彼女は、僕を裏切り続けてきたのだ。騙し続けてきたのだ。
「フィーナ……本当かよ……?」
僕は、自分の中にいるフィーナに向かって言った。彼女は、しかし僕の期待した答えはくれなかった。
「あははははッ! 酷いなアルフェンティーナ。しかし小僧を騙すのは簡単だ。お前の気持ちもわからなくもない。さて、功刀明、どうする? これでもアルフェンティーナに協力する気か?」
感じる。体中から力が抜けてゆく。今の僕は、ロールが憎くて仕方がない。彼女に全てをぶつけてやりたい。だが、それに反して、右手に持った<直剣>から力が失われてゆくのがわかる。
「ふぅ……少し飽きた。そろそろ終わりにしよう。最後の質問だ。アルフェンティーナ、投降しろ」
ロールがそう言うと、フィーナは僕から体の支配権を奪い返して、言った。
「断るわ。ロール。アタシも最低だけど、アンタのやり口は、最悪だよ……」
「そう……残念だ。では、落ちて来い。<竜の翼>……」
ロールが天に向かって呟くと、無数の光の帯が、巨大な刃物となってフィーナの頭上に降り注いだ。
(死ぬ…… フィーナ! 逃げろ! 逃げるんだ!)
誰かに押された。そう思った時――僕は自分の体がフィーナから分離したのを知った。
僕は、光の束に無残にも貫かれるフィーナを、ただ呆然と見ていた。
「ゴメンね、アカリ……」
決別の言葉。確かにそうだった。僕は、彼女にただ、圧倒された。
倒れた。ただの血の塊。剣士アルフェンティーナは、無残にも敗北したのだ。
「終わったな……」
ロールは小さく息を吐いた。
「<隠者の天秤>はどうなさいますか? この者達の記憶を消しては?」
ガモーネが教室の端で震えているチカを見ながら言ったが、ロールは首を振った。
「必要ない。あれには他に使うあてがある」
「チカの処分はいかがなされますか?」
「捨て置け」
ロールはつかつかと僕に歩み寄った。僕は、視界が揺らぐのを感じた。いや、曇っている。これはなんだろうか。そう、僕は泣いている。恐怖で、泣いていたのだ。
「かわいそうな功刀君。お前は生かしておいてやろう。誰よりも瑞奈春過がそれを望んでいる」
ロールはそう言って、僕の額に口付けた。
「行こう。<根幹世界>へ。<大門>の下へ。この世界にもう用はない」
二人が<門扉《キューブ》>の奥に消えた時、僕は心から安堵した。他の全てを忘れて、自分が生き延びたことを不思議がった。