第四話「瑞奈春過」(後)
週が明けて月曜日。フィーナと出会ってから二週間が経った。彼女は実に我が家に馴染むらしく、最近は僕の部屋に踏み込んで盛大に起こしてくれる。今日などは――いや、やめておこう。思い出したくもない。
全てが元通りだった。
「ガモーネさえ出てくれば、アタシの役目も終わりなのに、アイツ何をサボってるんだか」
フィーナの嘆きは、僕にとっては平和の証だった。
<舞台>から飛び降りる人間はいない。武載駅も、この不名誉な名前からおさらばできる日が近いことだろう。<うつろわざる神>を奪い取られることと、生きることを諦めた人が線路に身を投げることは全く無関係ではあるが、それでも僕は武載市全体が以前よりも活気づいているのを感じた。
京太は毎日のように我が家に遊びに来て、フィーナに隷属するかのような態度をとり続けたが、こういったことも習慣化する前には消え去るだろう。
(そう言えば、フィーナはどうやって向こうに帰るんだろう)
単純なことを忘れていた。だが彼女のことだ。何か考えてあるだろうと思い直した。
放課後、僕の机の前に立ったのは堺だった。彼女も以前よりは表情が明るくなったように見える。瑞奈は、あれから話をしていないが、僕との約束を守っているようだ。
「武載駅、寄っていかない?」
「どうしたの?」
「知らないの? 今日、金森君、休んだのよ。無断欠席」
「そうなんだ。知らなかった」
嘘だ。知っている。単に体調を崩したのだろうが、女子のいじめに便乗するような男に同情するような悪い趣味はない。
「家に電話しても、行き先がわからないそうよ」
「ふーん」
「……もしかして彼、消えたんじゃないの?」
堺の目つきが変わった。僕はそれが堺ではなく、チカであることを知った。
「マジ?」
「それを確認しに行くのよ」
僕は堺とともに教室を飛び出した。
「彼が消えていたらどうする? もしかしたら、この前のことを気に病んで自殺したのかも?」
堺がこれを言うと、僕には嫌味にしか聞こえない。彼女の言葉に少し頭に来たのも我ながら仕方がないと思う。
「ああ、死ねばいい。あんな奴は月曜日と一緒に消えちまえばいい」
そう。今日は月曜日だ。月曜日は、それが月曜日というだけで最悪な日なのだ。
「ねぇ、堺。アウローラってどんな人?」
駅に向かう道で、僕は堺に訊いた。
「急にどうしたの?」
愚父という言葉があれば率先してそれを使いたいが、我が愚父の小説『アウローラは笑って死ぬ』の内容は、何故か芯世界と一致するものが多い。
皇帝直属の親衛隊長で、将軍家の娘アルフェンティーナ。
帝国に反旗を翻す皇女アンナエ。
皇女アンナエに拾われ、彼女の側近となった平民の娘チカ。
それぞれ、フィーナ、ロール、チカに該当するのは間違いない。
だとすると、主人公アウローラに該当する人物がいてもいいはずだ。全てが一致するわけではないと、フィーナも言っていたが、僕は単純な興味でチカに訊いたのだ。
「読んだんだ。『アウローラは笑って死ぬ』をね」
「あっ、興味を持ってくれた?」
「まあね、読んでて思ったんだけど、アウローラって……」
「クズよ。人間のクズ」
「やっぱり……何でこういうのを主人公にしたかなぁ」
堺があまりにも無情な評価をしたのも頷ける。僕が読んだアウローラは、正真正銘の負け犬だった。
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「騙されている――なんて思えるうちは、まだ十分に正常だよ」
それが、男の口癖だった。
アウローラが生まれた家庭は、富んでこそいなかったが、貧しいわけでもなかった。彼の父は博打狂いで、それで迷惑を被ることがたまにあったが、母も姉もよく働いて、まずは幸せな家庭を築いていた。
彼が十七歳の頃、転機が訪れる。皇女アンナエが帝国に反旗を翻し、にわかに戦乱の世となった。アウローラは父の博打癖を受け継いでいたのか、志願兵に名乗りを上げる。就いた先は反逆者アンナエだった。彼は、無謀な博打を打ったのだ。
そこから、彼の転落が始まった。アウローラは兵役の途中で重大な罪を犯し、刑罰を怖れて脱走する。
アースト王国に逃げ込んだアウローラは、かつての仲間の情報を売って、その地方の賊軍を全滅させる。功を得て、皇帝親衛隊の長であるアルフェンティーナと縁を持つようになる。
アンナエとの戦いで、しかしアウローラは戦功に目が眩んで突出し、敵に囲まれてしまう。彼を助けに来たアルフェンティーナは戦死し、アウローラは敗残兵となって故郷に逃げ帰る。だが、彼の帰りついた家には酒に溺れる父しかおらず、町の外れにはニつの墓が増えていた。アンナエを裏切った時の報復は、彼ではなく彼の家族を襲ったのだ。父はたまたま難を逃れたのだが、アウローラが帰ると彼に呪いの言葉を残し、次の日に首を吊った。
アウローラはアンナエへの復讐を決意するが、それをするだけの人望は全て失っていた。
彼は物乞いをしながら諸国を練り歩き、ついには餓死するのだが、それでも精神だけは生き続け、アンナエが転戦する度にその先に現れ、彼女を呪った。
アウローラに救いは無い。賊軍が敗北し、彼はついにアンナエの死を見取ることになったのだが、それも彼を救うには至らなかった。
アウローラの人生とは何であったのか。それは、彼の独白に表れている。
「私は、私を思いのままにするものを決して許さなかった。だから、私が思いのままに生きられるように、あらゆることをした。そしてあるいは、それらは全て叶ったのだ。私は孤独の中にあった。誰よりも高貴な孤独。これこそ私が追い求めたものだ。だが、アンナエのこの死に顔はどうだ。何一つ自由に生きられなかったこの女が、どうしてこのような穏やかな顔をして死ねるのだ。どうして笑って死ねるのだ。私は、笑って死にたい。アウローラは、笑って死にたい。自分は誰の意のままにもならずに、誇りを友にして死ぬのだと、笑っていたいのだ」
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僕が読んだのはここまでだ。何故ならここで断章しているからだ。親父はどうにもこの先を書きたいらしいが、中々に苦戦している。だが、これでも十分、アウローラという人間を評価するには足るだろう。
「僕には、どうにも理解の及ばない人間だよ。このアウローラというのは……」
「そう? 本当にそう思う?」
「心あたりはないよ」
「さっきの功刀君、ちょっとアウローラみたいだったよ」
金森が死ねばいいと言った事を指しているらしい。だが、本当にそう思ったのだ。僕は、木田と湯山と金森、この三人だけはどうにも許せそうにない。
そうこう言っている内に、武載駅に着いた。改札口を出て階段を降りた僕と堺は、眼前の光景にただただ声を失った。
無い。
先週の日曜日にフィーナとチカが激闘を繰り広げたオフィスビルが、その周りを囲むショッピングモールが、根こそぎ無くなっている。
そこにはただ、荒野だけがあった。しかも、周囲を歩く人たちは、これほどの大事件にも関わらず、まるでそれに気付かないかのように平然と往来している。
「ロール様……」
堺――いや、チカの呟きは、恐怖に値した。あの夜の恐ろしい体験が、死に瀕する危機が、再び目の前に現れることを意味していたからだ。
「あり得る。うん、確かにあり得る」
僕は堺を連れて自宅に飛び込んだ。フィーナは既に心得ていて、事態の分析を行っていた。
「ロールだね。ロールが来た」
フィーナの言うことは時々説明が足らずについていけない。これには僕ばかりか堺でさえも説明を求めた。
「<完全存在重複>だよ。あれを利用したんだ」
僕のベッドの上で胡坐をかいた姿勢のまま、フィーナは身を乗り出して言った。
「ロールの目的はこちらの世界と芯世界の間に穴をあけてつなげること。でも、小さな穴を一つあけたくらいじゃ、たかが知れているわ。だから、いくつか開けることにした。アタシはそこまではわかってた。だから穴を全部潰したの。でも、ロールの狙いは他にあった。一度あけた穴は、ふさがってもしばらくは痕跡が残る。<隠者の天秤>の効果が穴を閉じた後も残っているのがそれね。一度閉じた穴は、再びあけることができないのだけど、<完全存在重複>は、言わば常時穴が開いた状態で、その影響を受けて蓋がとれることもあり得るわけ」
「相変わらず意味がわからん」
フィーナの説明はどうにも説明になっていない部分がある。見かねたのか、堺が改めて僕に説明する。
「小さな穴のあきすぎた服は大きく破れてしまうわ。小さな穴をあける針が<門扉>で、<完全存在重複>はハサミのようなものなの。その気になれば服を引き裂くことができる――といったところかな」
堺の説明は実にわかりやすいが、僕が知っている言葉で、これまで僕が知らない意味を持つものがあった。
「<完全存在重複>が穴をあけるってどういうこと?」
「言葉そのままよ。<完全存在重複>は複数の世界にある同一の存在が<存在重複>――言わば二重に存在する状態を作り出すこと。つまり、その間は並行世界間の穴が開きっぱなしになってしまうのよ」
(なるほど、だからフィーナは<完全存在重複>の相手を探すつもりがなかったのか。いや、できなかったんだ。それだけでロールに協力することになってしまうから……)
僕はかつてのフィーナの言葉を思い出したが、それにしても疑問は残る。
「でも<完全存在重複>ってそう簡単に相手が見つかるものなの? フィーナに聞いたところだと、六十億分の一の確率のくじを当てるようなものに思えたけど……」
「それは……」
堺にもこの説明はつかないらしい。
「それは考えても仕方がないわ。きっと運良く当てたのよ。アタシたちが考えなきゃいけないのは、ロールを探し出して彼女の陰謀を阻止することよ。今から出るよ。アカリ、キミの体を貸して」
「いきなりだな。でも他にやることもないか……。いやでも待ってよ。そこまで大ごとならどうしてこの世界の人達にこのことを明かさないんだ? 軍隊でも出てきたら流石のロールとかいう奴も困るんじゃないか?」
今更ながら、当然の疑問を口にする。以前はフィーナに有耶無耶にされた記憶がある。
「言ったでしょう? <隠者の天秤>の力がまだ残ってるって。仮令この国の政府に助力を請うても、彼らは危機を認識できない。<隠者の天秤>の効果範囲がどれくらいかは知らないけれど、街に送られてきた軍隊は途端に目標を見失うでしょうね」
フィーナは最初から一人で戦うつもりのように見える。結論ありきではないかーーそう思って堺の方を見たのだが、
「ロール様は用意周到よ。それくらいのことは織り込み済みね」
と、諦める他なかった。
武載駅周辺、日野出市内、それらを回った僕たちは、全部で九つの<門扉>が開いているのを確認した。それは同時に、<門扉>を破壊する作業を意味した。
武載駅近くの古びれた映画館は、僕が見ている目の前で、六面に門を持つ巨大な黒い立方体に飲み込まれた。日野出学園からさほど遠くないところにある小山も、まっさらな平野に変わっていた。僕は、恐怖を通り越したのか、まるで南極の氷山が溶け落ちるのをどうしようもないままに眺めている気分だった。
<門扉>を壊しても、失ったものは元には戻らない。
「すぐに元に戻るでしょうね。<門扉>の方が……」
堺は感情を殺した声で言った。
「こりゃ手厳しいわ。戻ってから考えよう」
意外にもフィーナは撤退を宣言した。というのも、ガモーネの姿すら見えず、討つ相手がいないこの状態は彼女でもどうしようもないだろう。
「どうにかしてロールを探さなきゃね……」
フィーナの溜息は深刻だった。
火曜から金曜まで、フィーナは夜も昼もなく、ロールを探し回った。
「多分だけど、<門扉>に近い感覚がするはずよ。<門扉>が破壊できるということは、今はまだ完全に重なっていないと思うし、必ず近くにいる。まあ、これはキミに頼んでも仕方がないけどね。出会ったら殺されて終わりだし。もし偶然見つけても、アタシに教えるのが先よ」
僕と堺はというと、フィーナには待機というか平常の生活を言い渡されただけで、全く肩透かしを食らった。
「華棟木様に任せましょう」
もう堺なのかチカなのか僕にもわからなくなってきた少女の口調は、他人行儀の一言に尽きた。僕がはぶられる理由は僕の危機がフィーナの命に関わることであるし、堺にも協力を要請しないのは、やはりフィーナも彼女に全幅の信頼を寄せる気分にはなれないのだろう。そして堺もまた、それを当然なこととして受け止めている。それに、今の堺はチカとしての能力のほとんどをフィーナによって封じられているらしい。
「どうした、明? 元気ないぞ」
そう言って腹を小突いてくる京太がのん気に見えて少し羨ましい。
これほどの異常事態に、ただ普通に暮らしていろというのは、どうにも酷な話だ。
金曜日の放課後、僕は特に用事もなく一人で帰ろうとしていた。以前のように「月曜日失踪事件」がメディアで取り上げられるようになり、集団下校が再開されたのだが、仕組みを知っている僕がその効果を信じるはずもない。
カバンを片手に教室を出ると、誰かが僕に声をかけた。
「ちょっと、功刀君」
瑞奈だった。思えば話をするのは彼女の家に招待された日以来だ。
「どうしたんだ?」
僕は、例の猫――アゴチンのことを訊いていいか迷っていた。瑞奈の表情に、あの時と似たような暗さを見たからだ。もしかすると、彼女は決断を下したのかもしれない。
「一緒に帰らない?」
意外な言葉だったが、僕の予想はやはり彼女の背負った小さくも重い業にあった。
「わかっ……」
諾と返事を与えようとした僕を、通りかかった堺が呼びかけた。
「功刀君、帰りましょう」
瑞奈の口が小さく開いた。
「どうしたの? 帰りましょう」
「いや、堺……」
堺の口調もおかしい。いつもなら意識的に瑞奈を避けているはずなのに、今日はどうやら違う。
「ねぇ、あなたたち……」
声のトーンがやや下がった。瑞奈は明らかに不機嫌だ。
「もしかして、付き合ってるの?」
意外を通り越して的外れな質問だ。瑞奈の見当違いに呆れて溜息をつきそうになった僕の腕を、堺がつかんだ。
「さあ、明。何をしているの? 行きましょうよ」
堺がいつになく強引に僕を引っ張る。肘の先が少し柔らかい何かに触れて――
「そういうことなんだ。知らなかったわ。あぁ、そういうことだったのね」
吐き捨てるような口調。瑞奈は明らかに勘違いをした。
「ま、待て。瑞奈?」
瑞奈は、床がくり貫けるほどに強い足取りで、廊下の向こうに消えていった。
「あぁ……誤解が……」
僕は確かに見た。堺が、いやチカなのかもしれないが、とにかく傍らの少女が勝ち誇った笑みを浮かべている様を。彼女はここで、瑞奈に復讐したのだ。あるいはとても、とても可愛らしい復讐なのかもしれない。
「あーあ……行っちゃったよ」
「いいのよ。功刀君も、女の子なら誰にでもやさしくしちゃダメよ」
「別にそんなつもりじゃないんだけど」
「そんなつもりよ。あなた、モテたいのよ」
堺の口調はいつかのフィーナに似ている。経験豊富な、大人の女が少年を諭す時の口調。
「今の君、堺じゃなくてチカだろ?」
「いいえ、堺密よ。チカはもうほとんど私の中に残ってないもの」
どこまでが本当なのかわからない。そこで混乱していると、僕の左腕に絡みついた堺の腕に、小さな斑点があるのに気付いた。僕は、瑞奈に聞いた話を思い出していた。
「堺、あのさ。君ってやってるわけ?」
「何を?」
「その……誤解だったらゴメンよ。本当にゴメン」
「……瑞奈春過に聞いたのね?」
「やっぱり……やってるの?」
「ええ、やってたわ」
「やってた――ということは、今はやっていないということ?」
「ええ、勿論。たまたま、興味本位でやっていたところをあの子に見つかっちゃったの」
「そうか。それなら、運が悪いな。いや、やってないならいいんだ」
安心した。堺は、瑞奈が言うような人ではなかった。
「フフ……功刀君、あなた馬鹿ね?」
堺がさらりと暴言を吐いたので、僕は頭の中で何度も彼女の言葉を反芻しなければならなかった。
「あなた、馬鹿よ。本当は誰のことも信じていないくせに、嘘がわかると意外そうな顔をする。だから馬鹿よ」
何故だろう。今日の堺は嫌に機嫌が悪い。
帰宅した僕に出迎えはない。母さんは帰りが遅いし、フィーナは市内を見回っているのだろう。ただ、クソ親父ばかりは暇を持て余したようにリビングのソファーに腰を下ろしていた。
苛立っている。傍目にもそれがわかる。どうせ今日も編集部の人ともめたのだろう。半年以上も原稿を上げない人間の機嫌をとるような物好きは、さすがにいない。
『もうやめて、アウローラ。いつまでそんな、子供みたいな夢ばかり見ているの? お前の周りを見なさい。誰も、お前の様には生きていない。みんな自分の進むべき道を見つけて、小さな幸せを手に入れたのよ。お前だけが、子供じみた遊びを仕事だと勘違いして、いつまでも甘い夢を見続けている。見なさい。誰もがお前を笑っている。お前ほど情けない息子を私は知らない。アウローラ、もうやめて。夢から覚めるのよ、アウローラ。大人になりなさい』
『アウローラは笑って死ぬ』で、主人公アウローラの母が、我が息子に向かって言う台詞だ。あるいは、このアウローラは僕の親父そのものだ。いつまでも夢にしがみ付いて、母さんや僕を平気で巻き込む。
ここ数日、母さんの顔にも疲れが溜まっている。フィーナが来てからはなりを潜めているが、この人は父親として最低なのだ。妻を馬車馬のように働かせても眉一つ動かさない。そんな男だ。
「お前さぁ……」
僕の気配に気付いたのか、親父が話しかけてきた。
「何?」
「最近帰りが遅いけど、何やってんの?」
「……別に」
「遊びか?」
「……そんなところ」
「いい身分だねぇ……俺がお前くらいの時は、少しでも親に楽させようと必死で勉強したもんだけどねぇ」
「親父には言われたくないよ」
売り言葉に買い言葉ではないが、自分のことを棚に上げられては、僕も黙っているわけにはいかない。
「手前ぇ、今何て言った!」
なるべく怖い声を作ろうとしているのに必死だ。僕にはとうの昔にわかっている。この男はただの臆病者だ。臆病者が怒鳴っても悲鳴にしか聞こえない。
「ただいまぁ、あらアカリ、喧嘩でもしたの? 顔に痣が出来てるよ」
しばらくしてフィーナが帰ってきたが、僕は彼女の質問に答えるつもりはない。
「見つけたよ」
いつの間にか僕のベッドがフィーナの指定席になったらしい。彼女はそこで妙に誇らしげに言った。
「見つけた? マジで? ロールを? 堺には教えた?」
「いや、見つけたのはガモーネよ。それに、チカには教える必要はない。キミは忘れてるようだけど、彼女は捕虜なのよ。捕虜に有益な情報を与える馬鹿はいないわ」
言われてみるとそうだ。
「戦ったの?」
「ええ、少し。すぐに逃げられたけど……」
フィーナに外傷はない。恐らく、先週の日曜日同様、ガモーネ一人程度なら圧倒できるのが彼女の本来の実力らしい。
「逃げられたけど、敵の居所はわかったと」
「察しがいいわね」
「そういう顔をしているからね。で、何処?」
「それは、えぇっと……」
突然、フィーナは口ごもった。その意味が理解できない僕は、彼女に詰め寄った。僕としては一刻も早くこの奇妙な状態を抜け出したいし、場合によっては堺の首が刎ねられる状態も正直我慢がならない。
「……私立日野出学園」
あまりにも唐突に、あまりにも僕に身近な名前が出た。
「嘘だろ……」
「本当よ。ガモーネはそこに逃げ込んで消えた。多分、彼が<存在重複>しているのは、校内の誰かね」
「校内の……」
途端に僕の頭の中に数百人、あるいは千人もの学生、教師の顔が浮かんだ。これらの内の誰かに僕らの敵が潜んでいる。
これまで、フィーナとの共闘は、僕の日常とは一定の間隔でずれていた。それが堺――チカとの遭遇でヒビが入り、今のフィーナの一言で崩壊した。僕の日常は、完全に戦場と同義になった。
「誰だろう?」
「ガモーネと<存在重複>してるのが男とは限らないわ。女かもしれない。アタシがアカリと<存在重複>してるなんて、彼も想像すらできないだろうね」
「特定は無理か……でも、どうして学園なんだ?」
「そういう縁があったとしか言いようがないわね。あるいはチカが堺密なのも関係がありそうだけど、彼女、どうにもそこまで知らされていないみたいだし……」
「もしかして僕とフィーナの正体ってバレてる?」
「それは考えにくいわ。敵に知れてたらチカに接触しないわけがないもの」
「じゃあ、君は……」
「当分は外出禁止ね。敵は多分、次の月曜日に何かを企んでいる。その時に一網打尽にするわ」
「一網打尽か。また『直剣』でそこら中ぶっ壊すのか……」
あんなものを屋内で振り回せば、校舎が真っ二つになってしまう。
それにしても、フィーナやガモーネの使う神器とやらには不思議な点が多い。
「いつも思ってたんだけどさ。フィーナって僕の<うつろわざる神>を使って凄いこと――<直 剣>でいろんなものを斬ったりするじゃん? それって、僕一人の<うつろわざる神>で足りるの?」
これは、彼女たちに対しての最大の疑問だ。
「……それは……足りるよ。<隠者の天秤>みたいな大規模に作用するものは、アタシには無理だけど。説明しても多分、アカリには理解できないと思う」
妙に歯切れ悪いのは何故だろう。
階下から僕を呼ぶ声がした。母さんだ。いつの間にか帰っていたらしい。
「アカちゃん。お電話よ!」
(やあ、功刀。宿題はきちんとやってるかな?)
電話の相手はナ先生だった。あまりにも突然な上に、先の話もあって、僕が肝を冷やしたのは言うまでもない。
「先生? どうしたんですか、こんな時間に?」
(いえ、どうしてるかなーって)
「どうしてるも何も、この通りピンピンしてますよ」
(あら、そう。それはよかった。実は金森君のことで何か気に病んでないか心配してたのよ)
「金森の……」
嫌悪。これは当然だ。僕の本心としては、木田と湯山も消えていてくれるとありがたかったのだが。
(金森君ねぇ、最近進学のことでご両親と上手くいってなかったらしいのよ。だから功刀君たちとの騒ぎだけが原因とは思えないの。だから、あまり重荷に感じて欲しくないと思って……)
「いえ、大丈夫ですよ。気にしてません。全く……」
(全く――と、言われると、先生は悲しいわね)
まずい。むきになって強気の発言をしたせいで、ナ先生の機嫌を少し損ねたらしい。
「別に、変な意味じゃないです。あいつにも家出するくらいの悩みがあってもおかしくありませんから。でも早いところ帰ってきて欲しいですね」
完全に棒読みだが、受話器越しにはそうは伝わらなかったらしく、ナ先生は安堵の息をついた。
階上からとてとてと階段を下りる音がした。誰かと思えばフィーナだ。彼女は台所まで足を運ぶと、冷蔵庫を物色し始めた。小腹が空いたのだろう。母さんがいくつか買ってきたプリンを手に取ると、
「アカリ、これ食べてもいい?」
と、僕が通話中であることなどかまわずに声をかけてきた。
「いいよ。食べてもいいから。今電話中!」
(あら、功刀君、今、来客中?)
「あ、いえ。客ではないんですが……」
(でも、今のお母さんの声じゃないわね……)
「えぇっと、何というかー、その……」
(今の声、どこかで聞いた覚えがあるのだけれど……)
突然、ナ先生の声のトーンが低くなった。
「えっ……」
(いいえ、何でもないわ。私の勘違いみたい。夜遅くに電話かけたりしてごめんなさいね。それじゃあ、明日は宿題忘れないように)
そう言って、ナ先生は電話を切った。
第四話「瑞奈春過」了
第五話「ロール」へ続く