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極光よ、真直なれ  作者: 風雷
6/12

第四話「瑞奈春過」(前)

******************************


 秋風に靡く黄金の稲畑に抱かれながら、女はそれを手に取った。まるで天に衝き立てるように、真直に伸びたいなほを翳して見せた。


「天に唾吐くというのか? この私のようにーー」


 振り向いた先には友柄がいた。幼い頃から共に学び、競い合ったたった一人の友柄が。


「いいえ、アンナエ。これは黄金の頴。そして決して折れぬ獣の牙。それは戦士が手にするもの。私の敵は、この青く広がる空ではないわ」


 女ーーアルフェンティーナは、何故か清々しいほどの笑顔で言い放った。それがアンナエには眩しかった。


「でも、そうね、アンナエ。あるいはーーこれは天に衝き立てるものなのかも知れない。貴方が天を覆う壁となるのなら、私はこれを衝き立てるでしょう」


 頴は、黄金色に輝くつるぎであった。この世の何よりも真っ直ぐな剣であった。


******************************




 月曜日。月曜日だ。この日が消えて無くなればいいのに。これまで何度そう思ったか。

 いつも通り教室に顔を出すと、京太の姿がない。彼は先週の金曜の騒ぎで後二日は停学処分だ。


「おはよ……」


 僕が席に着いた堺に軽く挨拶すると、堺は以前よりは少しだけ元気よく、


「おはよう……」


 と返した。

 先週の事件はホームルームで軽く触れられたが、ナ先生は特に僕や京太を名指しで非難するような真似はしなかった。

 だが、こういった話は、僕や火乃、堺が何も言わなくとも、何故か情報を得る者達がいて、しかも彼らは正確な情報を持っているわけではないから、話に尾ひれがついてほんの数時間で怪物のように変わり果てる。

 先週の金曜日、僕は火乃のように、自分に向かってきた湯山を殴っておけばよかった。この場にいないでいることが、どれだけ幸せか。


――見ろよ。功刀の奴、火乃と一緒に木田や湯山にカツアゲかまそうとしたらしいぜ。

――返り討ちだってよ。ほら、木田って空手やってるだろ?

――お陰で火乃は停学。功刀だけは手を出してないから厳重注意だとよ。

――うはぁ……親友を犠牲にして一人だけおとがめなしかよ。

――真面目そうな面しててよくやるよな。

――ああいう奴の方が危ないって話、本当みたいだな。

――クズやなぁ。

――俺、あいつと結構仲良かったんだけどさ。

――やめとけやめとけ、その内に金たかられるぞ。


 よくもまあ、自分の目で見たように話せるものだ。学校が噂の怪物であることは以前から心得ていたが、その矛先が自分になってみると、痛感する。


(クズはお前らだ!)


 堺は、時々気になるように僕の方を見てきた。だが、彼女の助けを借りてもどうしようもない。


「先日、ある生徒が、このクラスで個人への一方的な攻撃が行われていると私に言ってきたが、私が考えたのは、その者が恐らく、孤独を知らないということだ。孤独を装うのは若者の一つの病気みたいなものだ。多くの者はそれからすぐに回復する。だが、そうでない者もいる。君たちはそのような病人に手を差し伸べなければならない。孤独という名の病人が治りたいと望む限りは。だが、彼らがそれを諦めたなら、わざわざ手を伸ばす必要はない。君たちは彼らに時間を食われるだけになるから」


 実に不愉快だ。この、教師橘の授業は。彼の言っていることの何処が道徳なのか、僕は一度問いただしてみたい。まあ、彼の反論に耐えられるだけの知識は僕にはないが。



『真の孤独とは、多くの人々に囲まれる中で味わうもの。誰が、こんな嘘っぱちを言ったのだろうか? それなら人間は何故、自分を囲む様々な孤独から逃げ出そうとしないのだろうか? 人は、大勢と関わりあうには孤独を愛しすぎ、真に孤独を追い求めるほどにはそれに耐えられない。 だから、お前達は、心地よい孤独の中にいるのだ。真の孤独は人を殺す。しかも即座に。生殺しのような慈悲を、孤独は持ち合わせていないのだ。人の精神は、およそ孤独に耐えられるようには、出来ていないのだ』


 『アウローラは笑って死ぬ』での、主人公アウローラの台詞だ。先日、橘が授業で話していた哲学者セネカも同じようなことを言っていた。親父は彼をパロったのだろうか。

 僕が親父の書斎から借りてきたこの本を開いているのは、ただの興味本位だ。今日はとても授業に身を入れるような気分ではない。

 僕はパラパラとページをめくった。確かに、フィーナやチカらしき人物がここには書かれている。そしてそれは並行世界間で起こり得る一致であるとは、フィーナの言だ。

 ガモーネに当たるのが誰なのかはよくわからないが、ロールなら一致する人物がいる。皇女アンナエだ。彼女は帝国に反旗を翻し、第一皇位継承者から一転、反逆者となった。




******************************


 アンナエの見る景色は、常に美しく、常に空虚だった。

 そこでは、全ての言葉が嘘と同義だった。アンナエは嘘が人を幸せにすると教えられてきたのだ。これまでは全てがそうだった。知らなくても良いこと、知ってはいけないことは、確かに存在した。人には身分によって侵してはいけない領域がある。だが、彼女にとって常に疑問であったのは、その例外として生まれてきた皇帝という存在は、何故嘘を必要とするのだろうかということだった。皇帝が踏み入れてはいけない領域とは何なのだろう。

 アンナエには、友がいた。将軍家の養女アルフェンティーナ。卑賤の生まれにありながらも、天を衝く黄金のいなほに選ばれし者。彼女こそ、アンナエにとっての心の支えであったのだ。大勢の空虚に囲まれる孤独を、天真爛漫な彼女だけが癒してくれた。

 初めて宮殿の外の世界を知った時、アンナエは自分の中の世界が何者かに侵されるのを感じた。そこには、宮殿では嘘と伝えられた全てがあった。そして、皇帝が踏み入れてはいけない領域全てが、他ならぬ皇帝の高貴な足によって踏みにじられていたのだ。自分がその靴の先にこびりついた泥であると確信したとき、アンナエは自らの存在を否定せねばならなかった。

 自らを世界から乖離かいりさせる時の激痛は、死にすら値した。

 身をよじり悶絶するアンナエを見かねたのか、友アルフェンティーナは言った。


「アンナエ、ここから見る景色は、とてもよいものだ。全ての世界を見渡せる。だが、ここから眼下で走り回る誰かの表情をうかがい知ることはできない。アンナエ、皇帝が知らず、私たちが知る景色は、決して地獄などではない。私たちは、それを地獄にしてはいけない。いつか生まれ来る我が子のため、せめてもう少しマシな世を与えてやろうと思う。それだけが、私の望みであり、幸福なのだ。君は、チカの手をとった。それが私には喜びなのだ。チカは、今でも君を見上げている。それは、君にとって喜びではないのか?」


 アルフェンティーナの言葉は、他の誰のものよりもアンナエの心に深く刺さった。

 アンナエは自ら立ち上がることを決心した。それが、アルフェンティーナの敵となることを意味していても、いや、彼女なら必ず自分の助けとなってくれると信じていた。

 アンナエは剣を取った。彼女は、アウローラとは違った。アウローラにとって、この世の全ては地獄だった。彼は孤独から抜け出せないでいた。


******************************




 ページをめくろうとすると、ふと、視線を感じた。顔を上げると、瑞奈と目が合った。彼女は慌てて前を向きなおした。


(瑞奈は……)


 彼女は、一体何故、堺にあんな酷い仕打ちをするのだろう。車にかれた猫のためにあんなに必死になれるのに、何故、堺だけは例外なのだろう。




 堺が予言したようなハプニングは全く起こらなかった。僕は、とんだ肩透かしを食らったものだ。

 それからはいつもと同じ、穏やかな平日を過ごした。いつもと違ったのは、ニュースキャスターが「月曜日失踪事件」の犠牲者が今週に限りゼロであった事実を驚きとともに報道していたことくらいで、あとは木曜日に京太が誇らしげな顔で登校してきたくらいだ。

 そしてやはり、クラスメートの僕らに対する反応は変わった。あの噂の出所が木田であると知った時には、腹の底が沸々と煮えたが、


「馬鹿は放っておけよ」


 と、京太は何処吹く風だった。自然、爪弾きにされた面子で固まった。何、結局は僕と京太と堺の三人なので、何の問題もない。瑞奈や木田達もあれだけの騒ぎがあったからか、大人しいものだった。

 金曜日の放課後、僕はいつも通り京太と、そして最近加わったばかりの堺を連れて、武戴駅近くのカラオケ屋で暇を潰した。京太はアルバイトのため、堺は相変わらず古本探しのために別れた。

 二人と別れた後、武戴駅の<裏舞台>に立っていると、何者かが僕にぶつかってきた。


「きゃッ!」

「おっと、大丈夫ですか……って瑞奈?」


 振り返った先で尻餅をついていたのは、確かに瑞奈だった。珍しく親衛隊を連れていない。物部小織、優子ともに路線が違うから当然だが。


「あっ、功刀君……」


 瑞奈には悪いが――いや、彼女が悪いのだろうが、どうにも最近は堺に対する彼女の横暴が頭にちらついて、できればこちらから話したい相手ではない。以前から話しかけられるほどに仲がいいわけでもなかったが。


「大丈夫?」


 瑞奈に手を伸ばしながら、僕は彼女の傍らに布のかぶさった大きなかごがあるのに気付いた。落とした衝撃で取っ手が壊れている。

 疑問に思うのもつかの間、籠の中から「ニャァァ……」と、猫の鳴き声が聞こえてきた。


「ああ、この前の猫」

「そう、今、病院から連れ帰ってきたの」

「ゴメン……取っ手、壊れちゃったね」


 瑞奈の表情はあまり優れない。彼女は何かを考えた後、再び口を開いた。


「大丈夫よ。抱えていくから」


 彼女は両手で籠を持ち上げるのだが、見た目より遥かに非力なのか、中々に危なっかしい。


「僕が持つよ」


 瑞奈の不注意が悪いのだろうが、だからといって見過ごすのも忍びない。僕は彼女の家まで荷物持ちを請け負うことになった。




 元豪族の娘、政治家の娘、高級官僚の娘、ヤクザの娘――瑞奈に関するあらゆる噂が、彼女の家の前に立ったときに吹き飛んだ。

 築四十年はありそうなボロボロのアパート。黒ずんだ外壁、錆び付いた手すり、カバーが曇って回っているのかどうかもわからない電気メーター。その先に、瑞奈の家があった。

 触ればべたつきそうな汚れの目立つドア。瑞奈はチラシをたらふく溜め込んだ郵便受けからそれらを引き抜くと、無造作にコンクリートの地面に投げ捨てた。

 鍵を開けても、ドアは中々に開かない。瑞奈が一度ドアに強烈な蹴りを食らわせると、通路の端で丸まっていた猫が驚いて逃げ去った。ドアは、鉄で出来ているとは思えない、古風な音とともに開いた。


「さ、上がって。お茶くらいは出すわ」


 玄関に上がった瑞奈は、これまた無造作に靴を脱ぎ捨てた。


「お……ぉ邪魔しまぁす……」


 薄暗い玄関に踏み入れた瞬間、嫌な臭いが鼻に付いた。小汚い飲食店でよく嗅ぐ臭いに似ている。

 リビングなしの明らかな2K構造。キッチンの前には布団が敷かれていて、そこに誰かが寝ている。


「親父ィ、帰ったわよ」


 丸い月が、その人の頭に浮いていた。瑞奈が電気をつけると、布団の中からいかにもくたびれた中年の男が顔を出した。


「ん? ああ、春過か。お友達かね?」

「そ、ちょっとお邪魔させるわよ」

「はははっ、春過が友達を連れてくるなんて珍しいね。いやいや、詮索はしないよ。狭い家だが、ゆっくりして行きなさい」

「あっ、失礼します」


 瑞奈の父の横を通り過ぎる間際、僕はキッチンで蠢く複数の黒い物体を見た。流し場はカップ麺の残骸が山ほど積まれていて、虫がわいた時の嫌な臭いが強烈だった。玄関で嗅いだのは明らかにゴキブリ臭であったことに、僕はこの時になって気付いた。

 蛍光灯の電気が切れかけているのか、細かに点滅していて不気味だ。


「ちょっと待ってて、部屋かたつけるから」


 瑞奈の口調や態度は、学校で知る彼女とは全く違っていた。僕はそれに戸惑いもし、しかし以前の猫を拾った時のことを思い出して、今の瑞奈が普段の彼女なのだろうと思い当たった。早い話、学校での彼女は猫をかぶっていたのだ。


「クラスメートかい?」


 キッチンの横で立ち尽くしていると、瑞奈の父が話しかけてきた。


「はい……」

「春過はああみえて寂しがり屋だから、仲良くしてやってくれ」

「は、はい」


 瑞奈の父は、来客の分際で失礼な感想だが、全く威圧感に欠けていて、ことあるごとに家父長権をちらつかせる僕のクソ親父とは対極にあった。


「さぁて、どこかに景気の良い話はないかね」


 そう言って彼は散らかった足元をまさぐって何かを取り出した。くしゃくしゃになった求人広告誌だ。日付がひと月前だが大丈夫なのだろうか。

 奥の部屋を仕切っていたふすまが開くと、瑞奈が顔を出した。


「さ、どうぞ」

「あ、うん……それでは失礼します」


 僕が瑞奈の父に小さく会釈をすると、彼は慇懃いんぎんにも同じような会釈で返した。

 衾の向こうは、同じ家とは思えないほどに清潔だった。小奇麗な机に整然と並べられた図書、小さなブラウン管テレビの前には几帳面にかたつけられたゲーム機――それに似つかわしくないくたびれた猫用のトイレなどもあった。

 すん――と匂いを嗅ぎたくなるような、これはハーブの香りだ。ゴキブリはハーブの香りを嫌うとどこかで聞いたが、まさかその対策なのだろうか。


「適当なところに座って」


 そう言った瑞奈は、普段の彼女から創造も出来ない活発な格好をしていた。上は女だてらに黒のタンクトップ、下は白いホットパンツを穿いている。

 少し癖のある栗色の髪は、彼女がそれをかきあげる姿に幾人もの男子が篭絡ろうらくされたものだが、それも後ろにひとまとめにポニーテールで結ばれていて、彼女の持つ雰囲気を一変させていた。


「籠、こっちに頂戴ちょうだい


 僕が言われた通りに籠を差し出すと、瑞奈はそれを開けた。

 中から、先週僕たちが助けた黒の野良猫が元気よく飛び出してきた。


「ほら、よかったね、アゴチン。中は暑かったでしょう?」

「アゴチン?」


 僕が信じられないような下品な名前に反応すると、瑞奈は口を尖らせた。


「まさか、あなたも変な名前だなんて言わないわよね?」

「えっ……ああ、変というか、ちょっと変わってるよね。でもどうしてアゴチンなの?」

あごが縦に割れてるからよ。ほら、アゴチン!」


 そう言って、瑞奈は黒猫アゴチンを呼び寄せると首をつかんで僕の方に見せた。


「ウゥゥゥ……ニャァァ!」


 確かに、顎にくっきりと縦線が入っている。


「大丈夫なの? これ……」

「みたいよ。医者は手術しようみたいなことを言ってたけど、今日病院に連れて行ったら、見事にくっついてて驚いてたわ。一昨日あたりからキャットフードをガリガリ食べてるし」


 野良猫魂というか、何というか。生命の強靭さを思い知らされた気分で、僕はただひたすらに感心した。

 すると、いかにも申し訳なさそうな音を立てて、衾が開いた。


「春過、ジュースを入れたよ」


 瑞奈の父が顔を出した瞬間、何かが部屋内を飛行した。直後に――瑞奈の投げた雑誌が彼の顔面に直撃した。


「ノックなしで入ってくるなっつってんでしょうが! クズ親父!」


 僕の記憶を総動員してあらゆる検索を試みても該当しないであろう、瑞奈の罵声。


「いや、すまない。気をつけるよ。衾の前に置いておくね……」

「今度入ってきたら家から追い出すわよ」

「いや、すまない。本当にすまない……」


 そう言って、まるで遊園地のしょぼいアトラクションに出てくる人形のように、瑞奈の父は退場した。


「とってよ。喉が渇いたわ」


 衾の前に座っている都合にしろ、どうやらこの部屋の主は客人を顎で使うのを躊躇ちゅうちょしないらしい。

 僕が衾を開けると、瑞奈の父は薄暗い中で何かのテレビを見ていた。何やら彼に気配を察知されてはいけないような気がして、僕はオレンジジュースとコーラの入ったグラスを乗せたトレイを音もなく引いた。

 瑞奈はコーラが好みらしく、僕は別に好きでもないオレンジジュースで喉を潤すことにした。先ほどから何かおかしいと思っていたが、この部屋は冷房が効いていない。

 瑞奈は僕から手渡されたコーラをゴクゴクと喉を鳴らして飲んだ。


「……ぷはぁ! 生き返るわぁ」


 手に持った団扇うちわを仰ぐと、汗を吸ったタンクトップが微妙に揺れた。瑞奈の首元の汗粒が胸元に落ちるさまを見て、僕は思わず唾を呑んだのだが、ふと見上げた瑞奈と視線が合い、慌てて話題を振った。


「小父さん、何の仕事をしてるの?」


 瑞奈は僕の視線に気付いているとでも言うように目を細めた。


「急に何で?」

「いや、ちょっと気になったから……」

「無職よ」


 想像した通りの答えだった。


「そう……ゴメン」

「偉そうに人の親父に同情してんじゃないわよ」

「うん……」

「功刀君の親父ってどんな人?」

「……あまり、人に話したい親父じゃない」

「そう。じゃあ、あたしの親父と同じね。父親なら、最低限子供が憧れるくらいの父親であって欲しいわ。だって、皆子供の頃にそう教わるもの。父親は誇りだって」


 そう言って、瑞奈は床においてある箱の缶に手を伸ばした。そこから彼女が煙草を取り出したとき、僕の中の瑞奈像は再現不可能なほどに粉砕された。


「ちょっ……それ……」

「あぁ? 何か文句あるの?」


 瑞奈はベランダに通じる窓を開けると、安っぽい百円ライターで煙草に火をつけた。


「ふーーッ……」


 先ほどまでハーブの香りで充満していた部屋が、一気に煙臭くなった。


「やめなよ。体に悪いから、子供を産めなくなるとか言うじゃないか」

「いいのよ。あたし産まないし」


 こう開き直られると返し辛い。とはいえ悪事と知っていてそれを行う人に腹が立つのは僕だけはないだろう。


「じゃあ、客人に配慮して欲しいね。僕が肺ガンになったら瑞奈のせいだよ」

「男がみみっちいこと言うんじゃないわよ」

「こう見えて僕は大いに健康に気をつかっているのだよ」


 僕は意味もなく胸をそらした。


「あはは、馬鹿みたい。でも煙草くらいで目くじら立ててたら人生つまらないわよ」


 正直なところ、僕には瑞奈の上機嫌が理解できない。


「クスリにでも手を出したら全力で止めるけどね」

「本当に?」

「えっ、まあ本当かな」

「嘘ね。君、絶対に知らんぷりするわ」

「それは酷い誤解だ」

「そう? 誤解? そう……君、知らないんだ」


 瑞奈の表情が変わった。無いやら意地悪でも考え付いたような妖しい笑みを浮かべている。


「知らない? 何を?」

「堺のことよ」

「堺と? どういうこと」

「あの子ね……」


 瑞奈はグラスからストローを抜き出すと、右手で鉛筆のように持ち、左手の肘裏に先を置いて、まるで注射器を操るような仕草をした。


「まさか……」

「信じられない? どうせ、あたしと堺の関係は知ってるんでしょう? あの子、どうして誰にもチクらないか知ってる? これよ!」


 もう一度、瑞奈は同じ仕草を繰り返す。最初僕には、これが彼女の冗談だと思った。だが、堺がかたくなに僕らの協力を拒む理由としては、十分なものに思えた。


「そんな……どこから手に入れるんだよ……」

「そこら辺の大学生にでも話しかけたら? 結構な割合で都合してくれるらしいわよ」

「まさか瑞奈も?」

「悪いけどそんな趣味はないわ。あの子に吐かせたのよ。どう? 堺に失望した?」


 僕がこの衝撃的な事実にうろたえずに済んだのは、頭の中にフィーナの言葉が浮かんだからだ。彼女は僕に「噂に食われるな」と言った。


「彼女に確かめてからにするよ。それよりも、堺にあんな真似をするのはやめるんだ。先週のあれは、僕も京太も最っ高にムカついてたんだぜ」

「別にいいわよ」

「えっ?」


 あまりにも簡単に瑞奈が承諾したので、肩透かしもいいところだ。僕は瑞奈にからかわれているのかと疑わなければならなかった。


「本気よ。功刀君次第で、今後堺とは一切関係をもたない。それでいいんでしょ?」

「僕次第?」


 一体、何の条件をつけるつもりだろうか。勿論、金銭などを要求されても応じるつもりはない。


「そうね」

「何をしろって?」

「うーん……どうしようかな。そうだ」


 どうやら今、この場で考え付いたことらしいが、大丈夫だろうか。というか、何故僕はこうも彼女に対して下手に出ているのだろう。瑞奈の本性を学校でバラすというだけでも彼女に対してかなりの圧力に――


「ねぇ、功刀君。ちょっと背中流しなさいよ」


 圧力に――


「へ?」

「親父ぃ! 風呂沸いてるぅ?」


 瑞奈は衾一枚隔てただけの相手に向かって、過分量な大声で言った。


「いや、まだ沸かしてないよ。シャワーにするかい?」

「チッ……仕方がない。それで満足するか。さ、準備して」


 瑞奈は僕の手をとって立ち上がった。


「ちょっと待て瑞奈、君が何を言っているのかわからない」

「何言ってるのよ。風呂って言ったじゃない」

「いや、それはそれでわからない。第一、君の父親がいる前で僕と一緒にお風呂とか……」

「アンタと一緒に入るわけ無いじゃないの! 何考えてんのよ、このエロ餓鬼!」

「あれ……? 違うの?」

「あたしはアゴチンをお風呂に入れて欲しいって言ったのよ!」


 視界が暗くなる。血の気が引いているのだ。僕はとんでもない勘違いをしでかしたらしい。


「紛らわしい言い方をするなよ……」

「年中エロいこと考えてるからそんな勘違いするのよ。大体自分の部屋にクラスメートがいるのに風呂入る馬鹿女がどこにいるのよ」

「煙草を吸う馬鹿女ならいたけど……」

「な・に・か・言・っ・た?」


 こめかみに血管が浮き出ている。これ以上瑞奈に刃向かうと家を追い出されそうだ。


「いえ、何も」

「そう。じゃあ、お願いね。シャンプーで軽くこするだけでいいから」


 そう言って、瑞奈はアゴチンを抱き上げ、僕に手渡した。


「ニャオ~ン」


 どうやら好かれたらしい。それにしても、元野良にしては随分とおとなしい猫だ。


「本当にこれで堺には何もしないの?」

「疑わないでよ。約束は守るわ」


 何やら上手く使われているだけのような気もするが、こう話してみると、瑞奈が極悪人にも見えないのは事実だ。僕は今のところは彼女を信じることにした。

 僕がそう考えていると、瑞奈が顔をのぞきこんできて、


「残念そうな顔ね。少しは期待したんでしょう?」


 と、僕が慌てふためくのを期待した顔で言った。彼女にやられてばかりなのもしゃくなので、僕は挑発で返すことにした。


「自分でやればいいのに。可愛がっているように見えて、猫が怖いのかな?」


 核心を突いている自信はあった。案の定、瑞奈は口ごもった。


「べ、別にそうじゃないわよ。今日は日が悪いの」

「そう? 日によって猫が怖くなるんだ」

「うるさいわね! 今日はお風呂入れないのよ! この馬鹿ッ!」


 瑞奈は手加減なしに僕の脇腹を殴った。

 痛みに悶絶しながら、僕は随分とデリカシーに欠ける発言をした自分を呪った。




 アゴチンはおとなしい猫だ。猫なら水を嫌うものだと思っていたけど、僕が体をこすると、実に気持ちよさそうに鳴く。


「ニャ……ォォオン」

「ハハ……お前、飼い主と違って気前がいいな」


 僕は動物を飼いたいとは思わない。彼らの可愛さに癒される分よりも、一匹でも命を預かるという責任の重さによる気苦労の方が大きいと思っているからだ。もっとも、これは親父の受け売りで、僕と親父が珍しく意見を同じにしていることでもある。母さんはその逆で、時々、ペットショップで可愛らしい猫や犬を見つけては、それを買いたいと言いだして家庭内が真っ二つに割れる。


(いや、母さん一人だけなら二対一だ。真っ二つはないだろう……)


 我ながら変な表現をしたものだが、違和感が軽く残るのは何故だろうか。


「タオル、ここに置いとくね」

「あ、サンキュ、瑞奈」


 まさか先ほどアゴチンに話しかけた内容が聞こえていたということはあるまい。


「春過でいいわよ。あたしも明って呼ぶから」

「いいの? 学校で変な噂が立っちゃうよ。僕、君の親衛隊とかファンにボコボコにされるかも」


 瑞奈の提案は、僕のような男を勘違いさせるに十分なものだったが、それ以上に彼女からは、一種の寂しさのようなものが強く伝わってきて、僕は自分の想像をたくましくすることができなかった。


「が、学校でそんなことするわけないじゃない! 二人きりの時になら呼んでもらってもいいって言ってるのよ!」

「それ、まるで恋人みたいだ」

「急に馬鹿なこと言わないでよ! 名前一つくらいで勘違いするなんて、これだから男は!」

「わかった。君が僕との約束を守ったら、考えとくよ」

「いい、やっぱ今の無し。忘れて」


 風呂場からだと曇りガラスのせいでシルエットしか見えないが、瑞奈はそっぽを向いてしまったようだ。




「こいつ、随分と素直だったよ」


 労働の対価は、やはりオレンジジュースだ。何でもコーラは瑞奈が普段ラッパ飲みしているものらしく、


「男子なら遠慮しなさい。エチケットよ。エチケット」


 と言われた。ラッパ飲み自体はエチケットの及ばない領域らしい。


「よかったねぇ、アゴチン」


 アゴチンの顎舌を撫でる瑞奈は、やはりえげつない犯行に及ぶような人間には見えない。


「君がそいつを助けようって言った時さ……」

「えっ?」

「少し感動したんだ。だってほら、僕も京太も、もうそいつは死んじまうって思ってた。絶対そうなるって。でも、瑞奈だけはまだ生きてるって、助けるって言った。瑞奈がいなかったら、そいつ本当に死んでたんだよ」

「それって誉めてる?」

「勿論……」

「先週は最っ高にムカついたあたしを?」

「それとこれとは違う」

「ふーん」


 瑞奈は何やら感心したように僕をまじまじと見つめた。僕が目を逸らすと、タンクトップに染み込んだ汗が乾いて、微かに白い模様を作っているのが見えた。


「よかったな。アゴチン君、お前は飼い主には恵まれたようだ。運がいいな」


 僕が手を伸ばすと、アゴチンは瑞奈の膝の上に乗って「ニャァン」と小さく鳴いた。


「やっぱり御主人様の方がいいか」


 瑞奈はアゴチンの頭をでていたが、その様子は何処か寂し気で、消え入りそうな儚さがあった。僕は、ほんの一瞬前までの瑞奈との違いに戸惑いもし、しかし彼女のこの雰囲気は、僕と駅のホームでぶつかった時から、常に付きまとっていたものではないかと思い直した。


「このね。ダメなのよ」

「ダメ? 飼えないの?」

「いいえ、ここの大家なんてどうでもいいわ。そうじゃなくて、ダメなの。体が……」


 瑞奈は胡坐あぐらをかいた自分の膝の上で丸まるアゴチンに目を移した。僕は感じた。彼女は、心の底からあわれんでいる。本当にかわいそうなものを見ている。


「怪我が悪いの?」

「違うわ。この仔、病気なのよ。元から腎臓が悪いの。放っておくとお腹に水が溜まって、死んでしまう。今日も水を抜いてきたのよ」

「それは……」

「この前なんか、夜中に何か吐いてるから確かめたら、寄生虫みたいなうにょうにょしたのがそこに蠢いていたわ。ちょうど君が座っているところ」


 僕は思わず尻を浮かせた。野良猫だから何を食べていてもおかしくはないが、寄生虫と聞けば嫌悪感が立って当然だろう。


「気持ち悪いよね。医者に見せたら、もうダメだって。治らないんだって。体が弱ってて、水を抜いてもすぐに溜まる。ここまで来たらもう、死なせてあげるしかないって言われたわ。夜中にもね。鳴くのよ。細い声で『ニャァ……ニャァ』って。医者が言うには、これって凄く苦しいんだって。本当に苦しくて、他にどうしようもなくて、鳴くの。あたしにも、もうどうしようもない。色々考えたわ。どうすればいいのか。でも、このまま放っておいても、この仔がより一層苦しむだけ。だからね。今日、医者に言ってきたの。次に来た時に殺してあげて下さいって。お腹の水を抜いて、お腹いっぱい御飯を食べさせてから、痛くないように殺して下さいって……」

「そんな……」


 瑞奈の話は、僕の想像をずっと超えたところにあった。あの時、瑞奈はアゴチンを助けた。僕にとって、この仔は救われたはずだった。命を取り留めたのだから、もう大丈夫だと。そこで完結した。頭の中から、彼にとっての全ての不幸を抹殺した。そこで終わりのはずだった。

 だが、終わっていない。瑞奈もこの仔も、僕たちが頭の中で完結させた物語を、まだ続けていた。しかも、それは最も残酷な道だった。

 何も言えない。どうしようもなく抗えないものが、今、僕の前にある。だが、それでも何かを言わずにはいられない。


「そんなの無い。酷い! 自分で助けておいて、自分で殺すなんて! まだ、他に何か手段があるはずだ。探さなきゃ」


 かつて僕が口にした中で、これほど軽率で、これほど残酷な言葉があったのだろうか。


「誉めたと思ったらすぐにけなすのね。自分が公平に物事をみれると思っているみたいだけど、今のあなた、ただの卑怯者よ。適当にハッピーエンドを作って満足するクチね。嫌いよ。そういうの」


 泣いている。涙は流していない。だが、瑞奈は泣いている。精一杯、それを押し殺している。声が上ずらないように、腹に力を込めて。

 苦しみから逃げたい一心で吐き出した僕の呻きは、簡単に打ち破られた。


「悪い……僕が馬鹿だった」

「いいのよ。言ってること自体は間違ってないから……」


 日が落ちる頃、僕は瑞奈の家を出た。


「約束、守れよ」

「わかってるわよ。しつこい男ね」


 瑞奈は、きっとまだ迷っている。あの猫を救いたい。だがそれはできない。だから、せめて長い間、長い苦しみの時間を彼と友に過ごすのか。せめてもの慈悲で終わらせるのか。

 そう。瑞奈は迷っている。僕は、漠然とそう思った。


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