第三話「竜の翼」(後)
――ハァ……ハァ……
オフィスビルの二十階。エレベータ前の植木の横に、フィーナは身を置いていた。身を隠すだけの体力がないのか。それともこれだけの広さの建物だからみつからないと踏んでいるのか。
フィーナの苦しい息遣い以外に、何も聞こえない。ビル内にいた人たちはもう避難したのだろうか。これだけの災害があったのだから、当たり前だ。そのうちに救助用のヘリが飛んでくるかも知れない。彼らは、フィーナやチカを見たらどう思うだろうか。あるいは、以前のフィーナのように、他の人間には見えないのだろうか。だが、それだと僕が彼女と出会った時の説明がつかない。
「おかしい……何故か、ぐぅ……太刀が見えない……」
フィーナも僕と同じ疑問を持ったらしい。
(大丈夫?)
「あらあら……坊やも痛くなければ……し、喋れるんだ?」
言われて初めて気付いた。いつの時点からか、僕は、痛みを感じていない。
「耳元でぎゃあぎゃあと、うるさかったからね。少しだけアタシとキミの存在をずらしたのよ」
(そんなことできるんだ……)
「最初からやっとけばよかった。まあ、この傷はそれだけじゃないけど……全く、見えないなんてのは困ったなぁ」
(<竜の翼>ってそういうものなの?)
「いいえ。<竜の翼>は皇室の神器。天空を裂くが如き無数の刃を現出させる。それだけよ。それだけでも十分辛いんだけど、あれは別の何かね。ハァ……」
フィーナはお手上げとでも言いたそうに溜息をついた。
(ねぇ、フィーナ。もしかして君が負けたら……)
「キミも死ぬね。その前に存在重複をやめればキミだけは助かるけど、まずチカが生かしておかないでしょうね」
以前のガモーネも目撃者である僕を殺しにかかってきたから、十分に説得力のある言葉だった。同時に「その程度の覚悟で承諾したの?」といったフィーナの苛立ちも伝わってきた。
コツコツ――と、廊下を踏み進む音が聞こえる。通路の向こうから、リクルートスーツ姿の女性が歩いてきた。
「えっ……」
驚いたのはフィーナだった。女性は何事もなかったかのようにフィーナの前を通り過ぎ、向かいのオフィスに入っていった。
「まさか……うっ!」
急に起き上がろうとしたフィーナだったが、激痛のために顔をしかめる。
僕も、この光景が異様であることはわかる。今のOLが僕らに気付かなかったのは、フィーナが何か細工をしたのだと思っていた。だが、実際はフィーナにとっても不可解な出来事だった。
「アカリ……今のキミにとって一番ヤバイことは何?」
(えっ? ヤバイというと……うーん、敵に見つかることかな……)
「違う。ガモーネがこのビルごと何もかもぶち壊すことだよ。他の大勢の人も巻き込んで」
(なるほど。でもどうして……)
「アタシがヤバイと思うのは多分他にある。今はよくわからないけど、優先順位がどうやらひっくり返ったらしい。ここら一帯、そういう違和感の中にある。気付かなければいけないことに気付いていない。ねぇ、アカリ。アタシは何か大事なことを忘れてる?」
(それは……多分、君が死に掛けていること……)
床にどろりとした赤い液体が広がる。とうの昔に失血死しててもおかしくない量だ。僕にはフィーナが意識を保っている理由がわからない。いや、あるいは、彼女は自分の危機に気付いていないからこそ、そうなのではないか。
「あ、そういうことね」
フィーナは自らを嘲笑った。僕には理解できないが、彼女には得るものがあったらしい。
立ち上がると、脇腹と肩から血が噴き出し、白いタイルを不愉快な色で濡らした。
「くぅ~っ、痛ぁぁ……!」
(フィーナ、君はどうしてそう……)
「うん?」
(どうしてそう、死にに行くんだ? もう少し、他にやり方があるんじゃないの? そんなんじゃあ、体がいくつあっても足りないよ。まるで死にたがってるみたいだ)
「それは、アタシが普通だからよ」
(普通? 芯世界の人は皆、自分の命を粗末にするの?)
クスッ――と、フィーナは鼻で笑う。その様子があまりにも爽やかで、僕は自分が馬鹿にされているようには感じなかった。
「『この世界でも』よ。死は、それほど魅力に溢れている。例えばアカリ、キミにも自分の命と引き換えにできるものがあるでしょ? 家族や恋人、友人、あるいは国や名誉のために死を恐れない人達がいる。彼らは何かを得るために自らの命を代償とはしない」
フィーナは壁に寄りかかる。床に<直剣>を衝き立て、姿勢を正す。
「彼らは、満足ある死を与えてくれるものを探しているに過ぎない。若者が死にたがるのは、彼らが大人よりも普通だから。そしてこれが、誰もが目を背けるこの世の普通なのよ。そして、それらを持たないもの、死に憧れない者の方が、あまりにも稀有で、あまりにも神聖で、そしてあまりにも邪悪なのよ。彼らは、賢者にも戦士にも父にも子にもなれない。彼らは、キミ達が言うところの神としてしか生きられない」
人は死ぬ。死に向かうものこそが人なのだと、フィーナは説く。
「アタシも同じ。国のために、夫のために、何よりも我が子のために喜んで死ぬ。死が近くにあればあるほど、誇り高い死であればあるほど、それは喜びとなる。この世に生贄ほど高貴な人間がいないように。誰もが心のどこかでそれに憧れる。次から来る世代に、より多く踏まれる人間になりたがる」
(……わからない。君の言っていることはあまりにも過激で……それに、まるで何かに洗脳されてるみたいだ)
「まあね。アタシは兵士だもの。否定はしないわ。でも、アカリ、戦いってそういうもの。最後の最後まで自分を信じないと、何秒も生きていられない。そんな中にいると、死と友達になるしかないのよ。でもまあ、キミが違うというのなら、その方がいいのかもしれないね」
やっとのことで立ち上がったフィーナは、震えながらも大きく深呼吸した。
「アカリ、キミにも手伝ってもらうよ。そういう約束だからね」
(えっ?)
瞬間、フィーナの顔が眼前にあった。
「うわっ!」
僕は飛びのいて尻餅をついた。真っ赤な液体が手にべっとりとついた。
「これは……?」
目の前には金髪の女性。そして僕が見ているのは自分の手。フィーナは僕と存在を分かったのだ。
「アタシと約束した時、冒険といったね、アカリ。さあ、大冒険だ」
「ちょっと! どういう意味? まさか……」
まさかとは思うが、彼女は――
「まさかよ。キミは何故か、アタシよりも強く違和感を感じ取った。あるいは、チカが仕掛けているに違いないこの罠は、キミ自体には効果がないのかも知れない。多分、キミには他に忘れることがあったから。アタシと存在を重ねている間は、キミはアタシの影響を受けていた。だから、離したの。キミがアタシの目になって、<竜の翼>を見るのよ。戦うのはアタシ、見るのがキミ。OK?」
「ガモーネは? あいつがいたら、僕は真っ先に殺される!」
今のフィーナは、チカ一人ですら相手にできそうにない。その上にガモーネが加われば、勝機は全くなくなる。
「ガモーネは……多分、大丈夫よ。あの傷でまともに動けるとは思えないし、やろうと思えばビルの鉄骨を抜き取って崩壊させることもできるのに、それをしない。ということは、死んだか、別の用事のためにここから逃げたというのが妥当ね」
多分程度の予想で僕を戦いに巻き込もうとする態度には呆れる。
「一時撤退はダメなの? そんな怪我で挑むのは、あまりにも無謀だよ」
「無理ね。<門扉>は見たでしょ?」
「……ここの真下にあった」
「あれ、いわゆる起爆装置なのよ。あの規模のものが開いたら、<うつろわざる神>を吸い取られて、駅周辺が荒地に変わる」
「駅周辺って……」
信じられない規模だ。だが、フィーナの世界では、世界規模で<うつろわざる神>が不足しているという。ならば、小都市の一区画をもぎ取るくらいのことを、敵はやってのけるだろう。
フィーナは窓に向かって歩くと、<直剣>を一閃した。窓ガラスがくり貫け、床に向かって倒れた。細かなガラスの破片が床に散らばると、ビル風が僕たちに向かって轟々と吹いた。
「……何突っ立ってんのさ? 行くよ……」
フィーナは窓枠に手をかけた。
「待って、堺は何処に?」
「いいから、こっちに来な」
僕はフィーナの言うがままに窓枠に触れて、眼下を見やった。
オフィスビルの二十階。眼下に鉄製の巨大な<門扉>があった。
明らかに異様。地上で見た時には地面に屹立していたそれは、眼下に見下ろしても何故か正面に扉を構えていた。あるいはこれは門ではなく、六面に門を持つ立方体なのではないか。
そして門の中心に、堺――いや、チカはいた。彼女はビルから顔を出した僕らに気付いたようだ。
「そこにいたのね……」
同時に、白いワンピースのスカートが割け、剣刃と化したそのうちの一本が<竜の翼>となって、ビルの壁を縫うように僕らに目掛けて伸びた。
「わっ!」
僕は思わず飛びのいた。フィーナは、攻撃に気付かないのか、じっと地上を見つめている。
「フィーナ! <竜の翼>だ。伸びてきた!」
「そう? アタシには見えないけど、予行練習はいらないね」
フィーナは顔の前に<直剣>を構えた。
ギィン――と、鉄骨が砕けるような音がした。フィーナが<直剣>で<竜の翼>を弾いたのだ。
フィーナは僕の方に向き直り、言った。
「さあ、来な!」
恐怖。足が竦む――ではない。全身が凍りついたように動かない。
行けば、死ぬ。矢面に立つ。その中に、確実に僕がいる。
「悪い…… フィーナ……足が……震えて……一生懸命やってるのに……さ……」
ようやく気付いたが、僕は先ほどからガチガチと歯を鳴らせていた。もしかすると、彼女と分離した時からそうだったのかも知れない。僕は、兵士ではないのだ。
フィーナは僕の方まで歩み寄ると、ゆっくりと腰をかがめた。
「――――ッ!」
いきなり胸倉をつかまれた。細い腕に似つかわしくない怪力に、僕は首を締め上げられながら、無理矢理立たされた。
「キミは確かッ!」
僕の鼻を舐められるような距離まで顔を近づけて、フィーナは叫んだ。
「キミは確か! 冒険と言ったね、アカリ! じゃあ、なんで止まるの? 冒険者なら、断崖を臨めば……ああ! 冒険者なら嬉々として奈落の底に足を踏み出すもんさ! 一生懸命なんて賢しいことを言うな。何の恐怖も打ち砕いていない癖に。アカリ! 君の名前が、もう勇気そのものじゃないか! 名前の意味! 人はいつか、必ずその謎を解く! 断崖の底で、この世の最も深きを照らす者。それが明! さあアカリ、来い! ここを照らせ。窓から月光が差し込むところ、そこが最も暗い。窓辺の深淵に降り立って、その名を照らせ!」
フィーナは僕を振り投げるようにして、自らをも断崖の底に向かって投げ込んだ。
浮いている。いや、落ちている。
「お……落ちっ……」
フィーナ達は先ほどまで重力に逆らって戦っていたが、今は全く違う。僕らは、落ちている。
「ゴメンね、アカリ。もうあまり力が残ってないんだ……」
びゅうびゅうと耳元で吹き荒れる風。
「全部、チカに叩きこむ!」
僕たちは、重力に愛されるようにして、地獄に吸い寄せられるようにして、<門扉>に向かって落ちていった。
剣刃。八本ある。割けたスカートの間――少女の太腿が夕日を浴びて茜色に染まる。
一つ、二つ、三つ―― フィーナは手に持った<直 剣>でそれらの全てを弾く。いや、ガモーネの投擲する鉄骨とは比較にならない威力を誇る<竜の翼>は、いかに<直 剣>をもってしても、軌道を逸らすのが精一杯で、弾かれた剣刃が、腕を、脇腹を、こめかみをかする。その度にフィーナは上空に押し上げられ、僕はいつの間にか彼女の影に隠れるように、おぶられるような格好になった。
「ちぃッ! もう見えない! アカリぃッ!」
六つ目の剣刃を弾いたところで、フィーナが叫んだ。
あとふたつ。それを凌いだ先に、チカがいる。
一本の剣刃が伸びてきた。フィーナの額を狙っている。
「かっ……!」
「顔」と叫ぼうとしたのだが、口を開いた瞬間にありったけの空気が喉に入り込んで、声が出ない。
僕は咄嗟に、フィーナの額を触った。彼女はすぐに了解し、<直剣>で剣刃を防いだ。しなった刃が僕の耳元を掠めた。
最後の一本。<竜の翼>は、フィーナの心臓を狙った。
必ず仕留める。空を裂いて僕らに向かってくる剣先も、その先で僕らを睨めつけるチカの瞳も、ただ一つの意志で満ち溢れていた。
「かはっ……あうぅ……」
僕は、フィーナの胸元を弄った。柔らかく、暖かい感触とともに、僕の脳裏に一つの光景が甦った。
拳。鼻っ柱が痺れる感覚。いつかのクソ親父だ。なんて奴だ。まだ母さんを泣かせやがって――一度でいい。この男を圧倒したい。力で、知恵で、権威で。
誰かが、僕と親父の間に割って入る。黒く長い髪。すらりと伸びた足。その人は、ただ、僕たちの間で、何一つふるわず、口をつぐんだまま、僕たち二人を圧倒した。涙と、汗と、そしてわずかな血――それらは全て、僕の代わりに流されたもの。僕が流すべきもの。彼女は、全てから僕を救おうとする。彼女は――
(フィーナ……?)
「これでェ! 最後ォォォ!」
僕が我に帰るとともに、フィーナは大上段から<直剣>を打ち下ろし、最後の翼を撃墜した。
フィーナの肘が僕の鼻に当たった。彼女は両手で剣の柄を逆手に持った。
「<真直の頴>」
そう。これは元々、衝くための武器なのだ。何物にも妨げられることなく、直に、相手の心臓を穿ち、相手の頭蓋を貫き、そして天に衝き立てるもの。
「獣のように――」
僕は、思わず呟いていた。正面突破こそ、彼女の誇り。<真直の頴>はそのためにあり、彼女にとっての戦いとは、誇りを守ることと同じなのだ。
「獣のように吠え立てよ! 戦士のように衝き立てよ! 天に向かって逆立て!」
チカは、フィーナの挑戦を受けた。
「開け、<竜の翼>! 竜は許さない! 自分より高く飛ぶものを――決して許さない!」
十六本に割けたスカート。それは瞬く間に剣刃と化し、うつぼが口を開けるような形を作って、フィーナを全ての角度から刺し貫こうとした。
衝撃。
だが、それはフィーナとチカが激突したものではない。
こともあろうに、フィーナが僕を振りほどき、ビルの壁に向かって蹴り飛ばしたのだ。
「ちょぉぉぉぉぉお! 何してんのぉぉぉ!」
死ぬ。凄まじい速度で地面が僕に突進してくる。
ビルの外壁に激突しても死ぬ。このまま地面に落ちても死ぬ。そうでなくとも十六本の翼に串刺されて死ぬ。
あらゆる死が、僕の頭を支配した。フィーナは僕を捨てたのだろうか。考えている暇などない。もう地面が目の前に――
「――――――ぁッ!」
刹那。笹の林に突っ込んだような感覚。尖った何かが、僕の体を受け止めた。
信じられないことに、他でもないチカが、<竜の翼>を使って僕を救ったのだ。だが、それに最も驚いていたのは当の本人だった。
「密ッ! 一体何をやって――」
チカの言葉はすぐさまフィーナに遮られた。
「捨てないからッ! お前は死ぬんだよッ!」
フィーナは渾身の力を込めて、<真直の頴>をチカに向かって衝きたてた。
何かが爆ぜた。凄まじい光量に、一瞬僕の目は眩んだ。
視界を取り戻した時、僕の体を覆っていた<竜の翼>は主の下に帰り、僕は地面に降ろされた。
「この……獣め!」
チカの声。彼女はフィーナの落下地点から少し逸れた場所に立っていた。<竜の翼>の内、十二本が折れている。先のフィーナの一撃を受けたためだろう。
チカの見上げた先、<門扉>の上に、フィーナの姿はあった。
<門扉>――なんという、大きく、そして途方もない闇を孕んだ物体なのだろう。そしてそれに大きな亀裂が入っていることに気づいた時、僕は薪が熱で割れる――あの乾いた音を聞いた。
亀裂は新たな亀裂を生み出し、それは<門扉>の六面に及んだ。
「チカ! キミは……」
フィーナは立ち上がった。玉のような白い肌はとうの昔に自らの血で汚れており、口から吐いた血で、髪の毛が頬にべったりと吸い付いていた。
フィーナは口をもごもごと動かし、口内に溜まった血を「べっ」と吐き出して言葉を繋げた。
「キミは、実に愚かな選択をしたよ。でも、ありがとう。アカリを助けてくれて、ありがとう。お陰でアタシは目的を果たした」
直後に<門扉>の亀裂から眩い光が漏れ出た。それが全ての亀裂をはっきりと映し出した時、<門扉>はガラスが砕け散るような音を立てて崩壊した。
「ああっ! <隠者の天秤>が!」
<門扉>は跡形もなく崩れ去った。そして、勝利者であるフィーナは、自分より遥かに外傷の少ないチカを見下ろしていた。
「これでロールの悪巧みも終わり。大人しく首を差し出しな。刈り取るくらいの手間はかけてやるから」
チカの割けたスカートが剣を形づくる。
「彼を投げるなんて、最低の発想ね……」
「アタシにはそれしかなかった。偶然、思いついたんだけどね。<門扉>を壊したせいか、だんだんと思い出してきたよ。<隠者の天秤>。まさか、皇室の一級神器まで持ち出してくるとはね」
思い出す。ついさっきフィーナが言っていたことを。僕が感じた違和感。それは、僕やフィーナを含めた全ての人が、最大の危機を感じ取れなくなっていたこと。<隠者の天秤は>、危機感――そう、人間の心理に作用するものだ。これが僕の直感だった。そして、それは実に正しかった。
「アタシ達は、忘れていたのさ。自分の肉体や精神に重大な影響を及ぼす危機を、それが<門扉>に仕掛けられた罠――」
だから、フィーナは捨てた。自分の命を左右する最大の危機。そう、僕を。チカの繰り出す<竜の翼>の内、致命的な一撃を見定めるために、捨てたのだ。
フィーナは僕を犠牲にして<門扉>を壊そうとしたが、同時に彼女にとって僕を失うことが痛恨事でもあったのだ。それは完全に等価か、いや、マイナスだった。だからこそ、彼女は<竜の翼>をいなし、目的を遂げることが出来たのだ。僕の気分が複雑なのは確かだが、それでも、何かを得るために、他の全てを捨てるというフィーナの選択は、実に明快で、爽やかですらあった。
「まだ……よ……」
腰元から伸びる一本の剣刃。チカはまだ、戦意を失っていない。
「やめときな、チカ。<門扉>が破壊された今、キミに<竜の翼>を操れるだけの力は残されていない」
フィーナの言うことが正しければ、先ほどまであれほどの猛威を振るった<竜の翼>を、チカは剣刃一本しか操作していない理由も頷ける。
来た。決着の瞬間が――
だが、僕は、思い出していた。一瞬の間に唯一つのことを考え、多くを感じた。
僕が今、ここにいる理由。何故、チカは僕を助けたのか。彼女は今しがた堺の名を呼んだ。僕がフィーナと<うつろわざる神>を分かち合っているように、チカと堺もまた、そうなのではないか。
「や……」
気付けば、飛び出していた。<真直の頴>の剣先が<竜の翼>を砕き、チカの喉元に迫る瞬間。フィーナがこの世界に来た目的を遂げる瞬間。
僕は――思い出した。
この尋常ではない騒動に巻き込まれる発端。僕にとって呪われた月曜日。
僕の隣で<舞台>に立っていた堺は、視界の片隅から消え、線路に飛び込んだ。その少し前――少し前に、僕は確かに聞いていたのだ。
小さな唇が動いた。何かを言っている。僕は確かに聞き取ったのだ。
「助けて……」――と。
「やめろぉぉぉぉ! フィーナぁぁぁ! 殺しちゃダメだぁぁぁぁ!」
飛び込んだ。一心で――
許されることではない。僕が彼女を見捨てるのは、許されていいことではない。
僕はフィーナに体当たりする形になった。フィーナを狙っていた<竜の翼>は、その軌道に飛び込んできた僕に襲い掛かった。
「功刀君――!」
「アカリ!」
何に激突したのか。それすらも見えないまま、僕は意識が遠のくのを感じた。
闇に閉じる視界の中で、鼓膜が圧迫された。二の腕に耳を押し付けたような感覚。
全く別の景色が目の前にあった。水。緩やかに流れている。そして、上から暖かい光が降ってくる。無限に深く、無限に暖かい。そして、途方もなく虚しい。
(何だ? ……これは……)
光景は途切れた。僕の意識は、闇の中に隠れた。
「全く、臆病者ほど無茶をするとはいうけど……」
懐かしい声。つい最近まで傍にあったはずなのに、少し離れただけで懐かしく感じてしまう。
額を撫でられる感触。懐かしい。
(ああ、■ ■ ■……)
なんだ。■ ■ ■か。
(あれ……誰だっけ?)
思い出せない。とても大切なことのように思えるのに、■ ■ ■の顔が思い出せない。
(誰だ? 君は……誰?)
目を覚ますと、見慣れた天井が視界に入った。間違いない。ここは僕の部屋だ。
「あっ、起きた」
先ほどと同じ声、だが、その声の主は、僕の頭の隅に微かに残る感覚からはずれていた。
「フィーナ……? わっ! わぅ――っ!」
僕が驚いたのは、彼女の声が耳元で聞こえたことと、右半身に感じるふくよかな感触が、あまりにも生々しかったからだ。僕は彼女に添い寝されていることに気付いて、驚きの声を上げたのだ。
「無茶しすぎだよ。アタシのことを死にたがりなんて言ったのは何だったの?」
フィーナは僕の額を軽く指で小突くと、ベッドから身を起こそうとした。太腿が僕の腰の上に乗って来たので、僕は思わず身をよじらせた。
「いや、ちょっと…… フィーナ……さん?」
僕の反応を楽しむように、フィーナは微笑とともにベッドから降りた。この人、わざとやっている。
「何で? どういうこと?」
「傷を癒すためにキミの<うつろわざる神>をちょっともらってただけよ。じゃなきゃ、夫以上に近寄らせるはずないでしょ?」
僕はフィーナを見た。よく見ると重傷だった彼女の傷がほとんどふさがっている。
コホン――と咳払いが聞こえた。
他に誰かいるのかと思って起き上がった僕は、声を失った。
堺だ。いや、チカなのか。とにかく彼女は――つい先ほどまで僕らの仇敵だった彼女は、今、何事もなかったかのように目の前にいるのだ。
「さか……いや、チカ?」
「こんばんわ、功刀君――なんて、ついさっきまでデートしてた相手に言うのはおかしいかしら?」
「どういうこと?」
「見ての通り。降参したの。<門扉>が壊された以上、私には華棟木様に勝つ手段がないから。<竜の翼>がいくら皇室の神器であっても、私の力だけでは使いこなせないし……」
「彼女には色々と訊くことがあったから、とりあえず捕虜にした」
と、フィーナ。
「捕虜?」
「そう、捕虜」
「捕虜というと、まさか拷問とか……」
「しないよ。必要ならするけど。今はしない」
僕は一応、安堵したのだが、それでも懸念は絶えない。
「まさか拘束……とか」
「まさか、そのまま家に帰ってもらうよ」
僕は首を傾げた。彼女を野放しにするのは危険ではないのか。チカの前では言い辛いことだが。
「キミが心配しているのは、彼女の裏切りなんだろうけど、まあ、それも今は大丈夫よ。ほら……」
フィーナが上げた右手には、細長い鎖があった。いや、それは突然現れたのだ。
目で追っていくと、その先はチカの首につながっていた。
「この鎖がある限り、彼女はアタシには逆らえないし、アタシに不利な情報を敵に渡すこともできない。どんなに遠くに逃げても、鎖は切れないし、外すこともことできない。当面の敵はガモーネ一人ね。それもすぐに済むわ」
「すぐに?」
「<門扉>が閉じられた今、彼には<うつろわざる神>を得る術がないのよ。放っておけばチカに接触してくるでしょうね。そこを叩けば終わりよ」
「彼女を餌にする――ということ?」
「そう、餌」
僕はチカを見た。
「君は、それでいいの?」
チカは少し驚いたような顔をした後、伏せ目がちに言った。
「勿論、嫌よ。でも私には拒否権がないの」
チカはきっぱりと否定した。
「もし……拒否すれば?」
「鎖が引き締まり、私の首を千切るわ。堺密ごと……」
「フィーナ――!」
僕の怒りは、これは当然のことだ。フィーナはこれに対して何一つ言い逃れは出来ない。これは、正しい怒りだ。一切の後ろめたさと無縁な、心の底からの怒りだ。
「わかってるよ、アカリ。アタシも堺密を死なせたくはない。でもそれはチカが決めることなのよ。彼女だけを殺すという方法はないの」
「<存在重複>を解けばッ! ……いや、これも違う。そうじゃなくて……殺すなんて! 何で言うんだ!」
違う。これは正しい怒りではない。僕は、堺を殺すことには反対できても、芯世界の法――チカの生死にまで介入することはできない。彼女が犯した罪は、恐らくそれほどに重いのだ。
「やさしい功刀君。あなたを殺そうとした私を助けたいと思うのは嬉しいけど、<存在重複>を解くのは無理なのよ。華棟木様とあなたの二人とは違って、私と密はずっと深いところで重なっている。もう、互いのどこからどこまでがチカで密であるのかわからないほどに。あなただって、華棟木様との<存在重複>が深化しないように互いに離れて暮らしていたのではないの?」
実に冷静な口調でチカは言った。今の彼女は確かに、勝利を放棄した捕虜だった。
「そう……なの?」
「まあ、説明はしなかったけど、その通りね」
フィーナは口をもごつかせながら言った。何か他に理由でもあるのだろうか。
「でも……ダメだ。チカ、君が助けてくれなかったら、僕は死んでいた。だから、その……うまくいえないけど、僕には君が鎖でつながれているのが不愉快だ」
クスクス――と、チカが妖しく笑う。
「あれはね、私ではなく密がやったことよ。ええ、もうほとんど私でもあるのだけど。彼女、あなたのことが好きだから」
「えっ……どういう意味?」
「鈍いわね。こういう意味よ……」
そう言って、チカは僕の方に擦り寄ると、にわかに襟首をつかんで僕を引き寄せた。先ほどフィーナに胸倉をつかまれた時とは違い、とてもやさしく、しかし強引な手つきで。
「んっ……? ――――っ!」
唇に柔らかい感触が当たった。深い青の瞳が僕の目を覗き込んできた。
「こっ、こらぁ! アタシの相棒に勝手に触れるなぁ!」
フィーナが驚いて声を上げる。僕が唇から離れようとすると、チカは肩にしがみ付き、意地でも離れないといった風に、より強く唇を押し付けてきた。
その時、勢いよく部屋のドアが開いた。
「おーーっす! 起きたか、あか……り?」
京太だった。何故、この男がここにいる。いや、それよりも、僕は非常に不名誉な状態を彼に見られたのではないだろうか。
「む……むふぷちゅっ?」
「あ……いや……わ……悪かったなぁ明。今度からきちんとノックすることにするよ……」
そう言って、京太はドアを閉めた。
どうやら先の騒ぎ―― フィーナとチカの戦いは、ビルでガス爆発が発生したということになっているらしい。チカの言うところだと、
「まだ、<隠者の天秤>の力が残ってるのね。その方が都合がいいけど」
となる。
京太はビルの前で倒れている僕を発見し、事故で負傷したフィーナと堺を病院に連れて行くつもりだったが、そこにたまたま通りかかった我が家のクソ親父に拾われ、タクシーで帰宅したということだった。めぼしい外傷はないので病院には連れて行かなかったそうだが、それは人の親としてどうなのだろうか。
「明ぃ、お前も人が悪いぜ。堺がいながら、こんな美人と同居してるだなんてな。この、羨ましい奴め。死ねッ! 死ねッ! 爆ぜろッ! 爆発しろッ!」
そう言って京太に小突かれたのだが、力の入りようからして、半分は本気だったろう。とはいえ、彼に女のことで羨まれる覚えなどない。
京太の意識は常にフィーナに向いていて、この短時間の間に、彼女の執事のように振舞っていた。リビングでテレビを見ているフィーナが
「京太くぅん、喉が渇いたわぁ」
といえば、京太はどこかから駆けつけて主人の注文を承る。
「ハイッ! 只今お持ちいたしますッ」
素早くオレンジジュースを用意するのは別にいいのだが、勝手に人の家の冷蔵庫を開けるのはさすがに問題があるだろう。
フィーナの方も完全に楽しんでやっている。
「なぁ、チカ」
僕はとなりの椅子に座るチカに声をかけた。
「堺でいいわ。密は――フフッ……名前で呼んで欲しいようだけど……」
「じゃあ、堺で」
「あら、冷たいのね」
「堺に直接言われたら考えるよ」
「無理よ。この子にそんな度胸があれば、いじめられっ子にはならなかったわ……」
僕は、ここ数日の堺の様子を思い出した。深刻に思い悩んでいて、誰にも相談できないこと、それは――
「違うわ。功刀君」
「えっ?」
「堺密が瑞奈春過に迫害されていることは、硯=チカという女とは一切関係ない。これは飽くまで密が自分で背負い込んだ業なのよ」
「……君は、堺を助けないの?」
「あるいは、このまま深化が進んで、彼女の中に私が取り込まれてしまったら、そうするかも知れないわ。でもそれは堺密という女が決断することよ」
「……堺と話せる?」
「ええ、どうぞ。さ、入れ替わったわ」
チカ――堺は、しかし何かが変わったようには見えず、僕は疑った。
「替わったの? 本当に?」
「ええ、勿論――と言いたいところだけど、実のところ、チカも密も、どこからどこまでが自分なのか、もうわからなくなってるのよ。分かれているのは記憶だけ。でもまあ、多分、今の私は堺密よ。こんばんは、功刀君」
「えっ、あっ、いやぁ……こんばんは?」
リビングの向こうのソファーでくつろぐクソ親父は、時々気になるように、僕と堺(?)との会話を見ていた。
「水?」
首を傾げるフィーナに、僕は説明を足す。
「そう。水。<門扉>が壊れる時、確かに見たんだ。水の中にいて、ゆっくりとどこかに流れていく感じ」
「三途の川じゃなくて?」
「違うよ。死ぬような怪我はしてないし」
僕は、先の戦いで気を失う間際に見た不思議な光景の話をした。
「もしかすると……」
と、堺。
「<根幹世界>に通ずる道を見たのかも。<根幹世界>は最も単純な記号で構成される世界だといわれてるわ。そこには水と空気だけがあるとか。あるいはそれすらもないとか。誰もたどり着いたことがないから、なんとも言えないけど……」
「それはない」
フィーナが一蹴する。
「<根幹世界>への通り道なんて、凄く深い階層の世界じゃないの。そんなものが高次元の並行世界から直接つながっているようには思えないわ。ありえるなら、隣の世界の光景を見たのよ。並行世界の間のわずかな隙間、それをアカリは見たのかも知れない。というか普通に考えて幻覚だろ」
「いえ、しかし……」
「はいはい、ストぉップ!」
堺が反論するとフィーナが黙りそうにないので、僕は話を中断することにした。正直、これ以上詳しい話になるとついていけないからだが。
堺は京太が最寄り駅まで送ることになった。
「まだ八時半だし、そこまでしてくれなくても……」
「いいって、いいって。途中まで方向同じなんだし」
京太はフィーナと別れるのがやや名残惜しいようだったが、しかし堺をエスコートするのも悪いことではないと言い放った。あるいはこの男、真面目に紳士なのかも知れない。
別れ際、堺は僕に駆け寄り、耳元で囁いた。
「華棟木様はああ言っていたけど、ロール様はこの程度で諦めるような御方ではないわ。明日は月曜日、きっと何かが起こる。覚悟だけはしておいた方がいいわ」
「覚悟?」
「呆れた。あなた、自分のことを何も知らないのね。……いいわ。それじゃ、さようなら」
堺と京太を見送ってからリビングに戻ると、親父が二階の客室に戻るフィーナを不思議そうに眺めていた。
親父は顎鬚を撫でながら、
「おかしいなぁ……」
と、呟いた。
「どうしたの?」
僕から声をかけるのは、到って異例だ。
「いや、あの子、どこに行くんだ?」
「えっ、客間でしょ?」
「客間……客間……おかしいなぁ」
親父の言うことは何かと意味不明なことが多い。
「客間なんてあったかなぁ。あったような気もするなぁ……」
親父は首を傾げていたが、僕はそんなアイツに首をかしげた。
第三話「竜の翼」了
第四話「瑞奈春過」へ続く