第ニ話「堺密の秘密」(後)
放課後、僕と京太は駅前のゲームセンターで暇を潰した後、帰路についた。
「最近、親父さんどうだ?」
京太は時々思い出したように尋ねてくる。
誰であっても、振ってはいけない話題がある。幼い頃に父親を事故で亡くした京太にとっては、両親の話題こそ最大の禁句なのだが、彼の方から話を振ってきた場合は別だ。
「昨日、崩落現場に来てたよ。小説の中でビルでも崩すつもりなんじゃない?」
「巻き込まれるとしたら、アウローラかな。いつも酷い目に遭ってるから」
と、僕らが道端で話していると、正面の通りを歩く女生徒達の姿があった。
「あら、功刀君じゃない。それに火乃君も。今日は寄り道かしら?」
天使。何という幸運か。やはり瑞奈春過は多くの男達の毒牙にさらされるだけのモノを持っている。特に、風を撫でるようなふくよかな声が、聞いた者を恍惚とさせるそれが、何とも心地良い。
「まあ、そんなところだ」
瑞奈の問いに答えたのは、僕ではなく京太が先だった。彼女はどうみても僕に向けて話していたが。
「どうせ意味もなくぷらぷらとほっつき歩いてたんでしょう? あなた達のせいでクラスの平均偏差値が下がると迷惑なんだけど」
相変わらず、物部小織&優子も何か言ったようだが、あまりにも似たような台詞なので特に聴く意味もないだろう。
「お前達こそ、お疲れさん。堺もとんだ災難だっただろうな」
先ほどから、京太の言葉にはトゲがある。瑞奈に恨みでもあるのだろうか。堺との楽しいひと時を邪魔されたことに対する怒りなら、この男のことだから理解できなくもない。
「そうね。彼女は頑張ってくれたわ。今度きちんとお礼をしなきゃ。ねぇ?」
「え……えぇ、そうね」
さすがのクラス委員長と思ったところで、後ろの交差点からブレーキ音が鳴った。そして直後に、何かに激突する音。
「何だ?」
と、振り返った僕の目の前に、それは落ちてきた。
それは、最初ただの黒い塊に見えた。次第に僕は、それが生物であることを知った。
猫だ。黒毛の野良猫が、顔面から大量の血を流して地面に転がっていた。
「きゃぁ! きゃぁ! 嫌ぁ――!」
親衛隊は左右を問わずにこういったものが苦手らしく、揃って悲鳴を上げた。彼女達に比べ、人間の惨状にすら慣れてしまった僕には、これがまだ生きているかどうかの疑問が先に浮かんだ。
「ああ、ダメだなこりゃあ」
京太が先に口を開いたが、僕も同感だ。顎がぱっくりと縦に割れていて、そこから夥しく出血している。毛並みまで光を失いかけているように見えた。これでは万が一に回復したとしても、生きていくことができないだろう。
誰もがダメだと思った。もうこれは助からない。助けても、どうしようもない。保健所に預けて飼い手が見つからなければ、すぐに殺処分されて終わりだろう。このまま死なせてやるのが情けというものだ。
――何してんの? この仔、まだ生きてるよ?
実に久しぶりに、フィーナの声を聞いたような気がした。学校ではずっと寝ていたらしく、声をかけても反応しなかったのに。
彼女の声がまさか聞こえたはずもないが、僕らを押しのけるようにして、一人の少女が野良猫の前に立った。瑞奈だ。
「鳴いてるわ」
「鳴いてる?」
「ええ、この猫、まだ鳴いてるのよ。功刀君にはどう聞こえる?」
確かに、野良猫にはまだ意識がある。瑞奈がかがみこむと、野良猫は精一杯上を向いて、「ニャァ……ニャァ」と死に際の声を、血と一緒に吐き出した。
「警察に連絡! 火乃君は近くの獣医か保健所に!」
「わ、わかった」
それからはもう、瑞奈の言う通りに動いた。
五分ほどでパトカーが到着したが、警察の言うことは僕らと変わらない。野良猫をはねた車について多少の興味を示したが、とうの昔に逃げ去っていて話にならない。
「ああ、もう死んでるよね、これ」
案の定、一蹴された。当然だ。彼らの仕事は、民衆を守ることであって、野良猫の保護ではない。だが、瑞奈はそれでも食ってかかり、警察官を説き伏せようとした。
「なんで? この仔、まだ生きてるわ! まだ鳴いてるのよ! 死んでるですって? 助けないから、死ぬのよ!」
保健所は応答がないらしく、京太が突き止めたのは動物病院だった。
瑞奈はタクシーを止めると、血まみれの野良猫を抱え上げて乗り込んだ。僕も同乗した。親衛隊の二人はうろたえていたが、瑞奈に帰れと言われてそれに従った。京太は警察に事情を話すために残った。僕は、普段は温厚な瑞奈が激しく興奮する様を見て、ただ驚いていた。
動物病院の医師は、とても親切に対応してくれた。僕と瑞奈は治療費のことを少し気にしていたのだが、
「治療費は、いいよ。それよりも親御さんに連絡してもらえるかな?」
ということなので、家の近い僕の方から呼ぶことにした。
「首輪がついてるけど、多分飼い猫じゃあないだろうね。人懐っこいから、最近まで飼われていたはずだけど、飼い主はこの子に優しくなかったようだ」
医師に言われて初めて気付いたが、確かに首輪がついている。
三十分も待たない間に、アイツは病院に顔を出した。母さんが仕事中なのが痛恨だ。
「やれやれ、面倒ごとに首を突っ込んだな」
頭をぼりぼりとかきながら、いかにも眠いといった様子で親父は言った。
「初めまして。功刀君のクラスメートで、瑞奈春過と申します。今回は私のわがままのせいでご迷惑をおかけして申し訳ありません」
瑞奈は丁寧に頭を下げた。
「いや、何。助けるまでは別に悪いことじゃない」
相変わらず何かを含まずにはいられない物言いだ。
「ところで、あれはどうするんだ? 俺の家では飼えない。保健所で処分してもらうか?」
親父は瑞奈に向って言った。僕の意見など聞いてもくれない。
「……連れて帰ります」
瑞奈が答える。
「飼うんだ?」
「はい……」
「大変だよ。すごい重荷だ」
「わかってます」
「両親は許してくれるかな?」
「それは……大丈夫です。猫なら昔飼ってましたから」
瑞奈は最初からこうするつもりだったらしい。
「軽口は叩くもんじゃない。ダメだと思ったらすぐに保健所に連れて行くといい」
親父は最悪の台詞を残して帰った。普通、保護者なら経過を見守るものだろうに。
不意にスマートフォンが鳴った。京太からだ。
飼い猫かも知れないが、首輪の裏には連絡先は書いておらず、恐らく捨て猫だろうという話になった。京太は瑞奈が猫を引き取ったということを知ると大いに驚いた様子だった。
(信じられないな。あの瑞奈が……)
「どうして、いい奴じゃん」
(お前、本当に知らないんだな)
「さっきも言ってたけど、何のことだよ?」
(あいつ、確かに野郎連中に人気あるけど、女子の間では色々と黒い噂が絶えないんだ)
「黒い噂?」
(何でも、先祖がこのあたりの豪族出だとかで、ヤの字の人にも繋がりがあるとか。それで裏では色んなことやってんだと。ほとんどはただの噂だけどさ。堺に……)
京太そこまで話したとき、瑞奈が僕を呼びかけた。
「功刀君、あっ……電話中」
「あっ、うんゴメン」
(物部達とグルになってどうやら堺に嫌がらせをしているらしい。これまでも何人か被害者がいたようでさ、その子達と仲良くなった時に耳にしたんだ。内容を聞くと酷いもんさ。嫌がらせとかイジメだとかそんな言葉で表すのが躊躇われるくらいにね。クラスの連中も、女子の大半は気付いてるよ。そのうちにオープンになる。その時お前はどうするんだ?)
僕は、相づちを打てなかった。眼前にいる瑞奈と全く別の人の話を聞いているようだった。
野良猫はダンボールに入れられて、瑞奈はそれを膝の上に抱えたまま椅子に座っている。
ダンボールの隙間から中を覗き込む表情があまりにも純真無垢で、僕は――
「そりゃあ、酷い噂だ」
といって切断ボタンを押した。
瑞奈と別れた後、僕は今日の出来事を思い出していた。全く朝から散々な一日だった。それでも月曜日に起きたことに比べれば、まだマシだ。
僕の心を占めていたのは、瑞奈春過の黒い噂についてだった。
(なあ、フィーナはどう思う?)
今日のフィーナはほとんど喋らない。
――さっきハンサム坊やが言ってたこと?
(聞いてたの?)
――キミがアタシに聞いて欲しいって思ったことは、アタシの耳に入る。前にも言ったよね?
(瑞奈も見た?)
――うん、とってもいい子じゃないの。ああいうのを彼女にしなよ。少なくとも堺とかいう根暗そうな子よりはいい女よ。
(でも彼女、いじめっ子らしいよ)
――放っておけば? 京太君だっけ? あの子は確かにいい男だけど、ただの噂好きよ。関わる方が馬鹿をみる。それに知りたいことがあるんなら、きちんと自分の目で確かめな。じゃないと食われるよ。噂に……。
京太が聞けばヘコむだろう。フィーナの容姿が彼の好みだから余計にそう思った。
家に帰ると、母さんが出迎えてくれた。
「おかえり、アカちゃん。ご飯は?」
「まだ食べてない」
「じゃあ今から出すね。子猫ちゃん助かってよかったね」
親父から話を聞いたらしい。僕としては特に何かをやったという気もしないのだけれど。
母さんの揚げたコロッケを口に頬張りながらテレビを見ていると、月曜日失踪事件の話題になった。今週だけで六十人も消えたらしい。先週の三倍だ。原因は誰にもわからない。わかっているのは、月曜日になると、人々が忽然と消えてしまうということ。
(あれ……何だろう?)
妙な違和感。だが、それが何かまではわからない。
(フィーナ、これもロールとかいう奴の仕業か?)
フィーナは答えない。ふと、母が僕の正面にも一人分の食事を用意してるのに気付いた。
「どうぞ、華棟木さん」
「ありがとうございます。出来れば料理もお手伝いしたかったのですけど……」
「まあ、嬉しいわ。じゃあ、食器洗いを手伝ってね?」
「はい! よろこんで」
「華棟木さんがいると、家が明るくていいわね~」
いつの間にか――本当にいつの間にか、彼女はそこにいた。
「どうしたの、アカリ? ご飯が冷めちゃうわよ」
親父は書斎に戻り、母さんは風呂に向かったので、リビングには僕とフィーナの二人きりになった。
「いつからそこにいた?」
「今さっきよ。ほんの数秒前……」
「でも、母さんはまるでずっと家にいたような言い草だったよ?」
「それは、アタシとキミの存在が重なってるから。一人が二人になっても、<うつろわざる神>は一人分しかそこにはない。だから違和感を感じないのよ」
より詳しく聞こうとも思ったが、フィーナは食膳に箸をつける方を優先したいらしく、僕は遠慮しておくことにした。
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少女は、全てを放棄した。雪の降りしきる寒空の中では、そうすれば最も楽に死ねると思ったからだ。
生まれてから、何一つ善いことなどなかった。小さな幸せは、手に入ったと思えば、まるで雪のように儚く溶けた。それは幸せですらなかったのだと、少女は遠くにそびえる宮殿を遥かに見て思った。
自分は弱いのだと、それが自分を死に至らしめるのだと、少女は思った。人は、誰かに守られることを期待してはならない。自分の力だけで立てない者は、所詮、他人の力で起こしてもらってもすぐに倒れてしまうのだと。そして、他人を引き起こす人間よりも、はいつくばる者を踏みにじる人間の方が遥かに多いことに、少女は気付いていた。気付くよりも、それが少女の日常であったのだ。
このまま目を閉じれば、自分は空の向こうにいる<善神>の元へ召されるのだと思った。それが、今の少女にとって唯一の幸せだった。
誰かが、仰向けに寝る少女の前に立ち止まった。
「何故、鳴く?」
女は、柔らかい、春光のような色の髪をしていた。それでいて瞳に宿る強さは、夏日に似ていた。身なりもよく、女があの宮殿から来たといえば信じただろう。
少女は、女に言われて初めて、自分が声を上げて泣いていることに気付いた。
少女は答えなかった。ただ、嗚咽だけが彼女の答えだった。
「鳴くな……」
女はしゃがみこんで、少女の涙を拭った。
「鳴くな。涙は耐えられない。だから、それはいい。だが、声には出すな。鳴くなら、我々は空の高さと絶望とを知らねばならない。雲雀のように、太陽に焼かれなければならない」
女の言葉は、冷雨よりも冷たく、そして焼けた鉄のように熱くもあった。
「私の名はアンナエ。お前の名は?」
「……チカ」
少女――チカは自分の力で起き上がった。アンナエと名乗った女は、チカの手をとった。少女は、自分の青春が、たった今始まったことを知った。
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木曜日だというのに、最悪の寝覚めだった。
昨夜、中々寝付けずにトイレに行こうとしたところ、階下の電気が点いていることに気付いた。
「だから言ってるだろう? 何の心配もない」
「心配ないって……来年はアカちゃんも受験生よ。それまでには少し蓄えておかないと……」
「あーうるせーうるせーききたくねー」
「ちょっと、お父さん。大家さんだって、いつまでも待ってはくれないわ。先月だってやっとのことでお家賃払ったのよ?」
「あの婆さん、作家をどこかの金の亡者と同じだと考えてやがるからな」
「ねぇ、本当によ。今年はまだ一作も脱稿してないじゃない。いつもテレビばかり見て、文句ばかり呟いて、アカちゃんもいつもあなたを見てるのよ」
「悪かったな。頼りねー親父でよ?」
「お願いだから、できないなら他の事も考えて。小説家なんていつでもできるじゃないの。まずは家庭のことを考えて欲しいのよ」
「いつでもできるだァ? 知った風な口をきくんじゃねぇよ。小説家なんてのはよくて一年、悪けりゃ半年で飽きられて捨てられちまう存在なんだよ。だから、今頑張ってんだろうが! 大体金のことは全部お前に任せたはずなのに、何で今更になって足りねーんだよ」
「それはアカちゃんの塾代とか、大体あなたが外で使ってくるから……」
「うるせー!」
そこから先は聞いていない。以前、止めに入ったときは、親父にボコボコにされた上に母さんまで顔に痣を作った。僕が介入しないのは、それをやるとクソ親父の暴力がエスカレートするからだ。
「フィーナ、アイツに<直剣>をぶちかましてやってくれ。僕が許す」
存在が繋がっているからか、それとも客室で寝ているはずのフィーナの<うつろわざる神>は僕に戻っているのか、この場にはいない彼女の声が聞こえた。
――ダメだ、アカリ。キミのお父さんだよ。キミがしゃんとしな。
僕が腹を立てたのは、フィーナが親父の肩を持ちやがったからだ。いつか、あの最低な男に復讐してやる。
――鳴くなよ、アカリ。キミが弱いから、何もかも悪いということでもないの。あの人たちの壁になってはダメ。
この時の僕は、フィーナの言葉を理解することができなかった。
ふと、違和感。以前、僕があの暴力クソ親父に刃向かってボコボコにされた時、同じようなことを聞いた。あれは母さんだったはずだが、何故かフィーナの声でしか思い出せない。なんだろう、これは……。
「日曜日までは寝ているつもりだったけど、慣れないとダメね。だから今日はお留守番するわ。アカリはいつもより少し疲れるでしょうけど、頑張ってね」
左目でウインクしつつ、フィーナは家に残った。今日は体育の授業があったはずだが。
(親父と二人きりだが大丈夫か?)
彼女が好色な一面を――少しだが――見せたことがあるだけに心配だったのだが、
「大丈夫よ。人の夫に手を出したりしないわ」
と、一蹴された。親父はああ見えて臆病だから、逆のパターンは心配するだけ無駄だろう。
日野出学園駅で下車し、いつものように校門を潜り、教室に入った。
授業も何事もなく進んだ。問題があったのは、放課後からだ。
この日も、堺は何やら瑞奈に呼び出されていた。
「功刀、帰ろうぜ」
声をかける京太の肩をつかんで、僕は言った。
「昨日の噂が本当か、確かめたい」
「……そうか。で、どうするんだ?」
「現場を押さえるんだ」
「押さえてどうする?」
「どうするも何も……」
そう。これは僕には関係のないことだ。だが、フィーナは自分の目で確かめろと言う。
「……見てから決める」
「酷い答えだな。いいよ、付き合おう」
僕たちは教室内で適当に時間を潰した後、生徒会室に向かう瑞奈と堺、および親衛隊二名の後をつけた。
勿論、生徒会室の主な使用者は上級生で、人通りも多い。この中で黒い噂が行われている可能性は低い。僕らは何の収穫もないまま、生徒会室を遠目に無為な時間を過ごした。
三十分ほどして、堺が生徒会室から出て来た。瑞奈と物部小織も一緒だ。勿論、僕らも後を追う。追ったはいいのだが――
「おいおい……」
難攻不落の要塞――女子トイレが、思春期の少年二人の前に立ちふさがったのだった。
「軍曹、敵の防御は堅牢であります」
京太がふざけた口調で言う。
「かまわん。特攻せよ」
「しかし軍曹!」
「ええい! 貴様も兵士なら、祖国のためにこそ散れ」
「ご無体であります、軍曹。良将はよく敵を殺せども、なおよく味方を生かすというではありませんか!」
半分はふざけているが、中の様子を確認したいのも事実だ。勿論、卑猥な意味はなく、あの中で何かが起こっているとすれば、男子のほとんどが噂の真相を知らないのも頷けるからだ。
「二人とも、何をしているのかしら?」
ぎくり――という音が、本当に肩の辺りから聞こえた。しゃっくりをしたような感覚に襲われた僕と京太は、恐る恐る背後を振り返った。
「ナ先生? (それと物部優子……)」
「そうですよ、功刀君、火乃君。ところで、二人とも女子トイレの前で何をしているのでしょう? 難しいなら三択問題にしましょうか?」
凄まじい威圧感。ちなみにナ先生は怒らせてはいけない先生ランキングで上位に食い込んでいる。普段は温和だが、一度怒らせたときの苛烈さは目も当てられない。
(どうする……)
おふざけが高じて、僕らはいつの間にか女子トイレの目の前まで来ていたのだ。廊下の突き当たりで、男子トイレは間逆にある。言い逃れは出来そうにない。
「……ドゥン♪」
京太が突然意味不明な声を上げた。
「ドゥンドゥンデデンデンデーン♪ ドゥッドゥッデデデデデッ♪ ドゥーンドゥーンドゥーン♪」
(哀れ京太や狂ったか?)
先週から上映中の戦争映画「サージェント・ポール」の主題歌を突然歌いだした京太の意図はわかる。だが、それはあまりにも無謀。無謀なミッションであった。
ーー頼む、明……乗ってこい!
頼むというか、せがむような京太の視線に、しかし代案などない僕は乗った。
「ドゥンドゥンデデンデンデーン♪」
作中でポール軍曹が出会う某大陸の原住民の、手を猿のように回す舞を踊りながら、僕と京太は少しずつナ先生から離れていった。
ドゥッドゥッドゥドゥン♪ デーンデーンデーン♪(ウェッヘッヘ……)
ドゥッドゥッデデデデデッ♪ ドゥーンドゥーンドゥーン♪(イアーゥオ!)
進め泥沼♪ 深くかぶれヘルメッ♪ 銀の矢が降れば火薬の臭いをオカズに飯をかっ込む♪
残してきたもの♪ 最初からないものと思え♪ 上官に教わり我ら怖いものなし♪
退けば死ぬ♪ 止まっても死ぬ♪ 退路は前にしかない♪(ウェッヘッヘ……)
ドゥッドゥッデデデデデッ♪ ドゥーンドゥーンドゥーン♪(ヘイアッ! ヘイアッ!)
ガチ震えて進め♪ 泣きながら進め♪ ガチ震えて構え♪ 泣きながら撃て♪
価値のない戦場♪ 勝ちを得てほざけ♪ ガチ震えて空♪ 戦友とともに見上げ♪
Ah~戦友よ♪ 俺はお前を裏切らない♪ Ah~戦友よ♪ 俺はお前を裏切らない♪
ドゥッドゥッドゥドゥン♪ デーンデーンデ……おわわあああああああ? (イアー……ゥオ?)
突然、京太が悲鳴を上げた。
「な・に・し・て・る・か・き・い・て・る・の!」
必殺のテンプルクラッシャー。それは、両の拳をこめかみに突きつけ、渾身の力でもって圧力回転させる奥義である。
「うがががががががずびばぜんんんんぢょっど遊んでだだげでずううううう――!」
「答えになってない!」
(馬鹿な! ここから圧力上昇だと? 死ぬぞ……)
案の定、京太は口元を痙攣させて何かを言っている。
「タス……ケ……」
「先生、もうその辺にしてあげないと……」
物部優子が目に涙を浮かべながら言う。もちろん、同情の涙ではなく、抱腹絶倒を辛うじて堪えているのが見え見えだ。
「ぷっ……アハハ……馬っ鹿じゃないの、あんた?」
物部優子の無邪気な笑みが、僕の心にチクリと罪悪感を産み落とした。
騒ぎに気付いたのかどうか、トイレの中から瑞奈と物部小織が出てきた。
「ちょっとあなた達! ここで何してるの?」
物部小織の問いに答える気力は、少なくとも彼女が仇敵視している京太にはない。
「ふふッ……新手の漫才ね。さあ、行きましょう」
と、瑞奈。
「ホンット、こいつらの馬鹿さ加減といったら、光の速さで膨張してるとしか思えないわ」
物部優子が相づちを打つ。僕は、瑞奈が口元に妖しい笑みを浮かべているのを見て、少しだけ――ほんの少しだけ嫌な予感がした。たやすく打ち消せる。その程度の予感。
「おい、そこで何をやっている?」
間の悪い人間というのはどこにでもいる。ナ先生に声をかけたのは、教師橘だった。
「あら、橘先生!」
橘は図々しくも僕らのことに興味を持ったらしく、それを隠す義務のないナ先生の供述により、僕たち二人は晴れて生活指導室に招待となった。カツ丼すら出ない、しけた拘置所だ。
「トイレは女の子の聖域よ。間違っても近づかないように!」
ナ先生の捨て台詞が無意味に優しかった。
生活指導室では橘に、普段の素養が悪いと――主に京太が――散々絞られた。気付いた頃には十八時をまわっていた。瑞奈も親衛隊もとうに帰っていた。
相変わらず暗い下駄箱で靴に履き替えながら、僕は京太の道化ぶりをなじった。
「さっきのアレ、酷いもんだったよ」
「うるせー、他に思いつかなかったんだよ」
こめかみを押さえながら、京太が言う。まだ痛いらしい。
「煙に巻くにしても、他に方法があるだろう? 仮にも女子の前だ」
「瑞奈や物部達にモテたいとは思わないね」
京太の瑞奈嫌いは徹底している。理由はあの噂のせいだろう。
「京太さ。ちょっと噂を信じすぎなんじゃないの? そういうのに踊らされて、人の名誉を傷つけてどうするんだ?」
なじられた京太は別に気にする風でもなく「それでもさ」と返した。
さて帰ろうとしたところで、京太が、靴の履き方が甘かったのか、よれて下駄箱に激突した。
「痛っ!」
「恐るべしテンプルクラッシャー」
僕はふざけて言ったのだが、京太はその場で凍りついたように立ちつくした。
「どうした?」
当たった際の衝撃からか、下駄箱の小窓が一つ開いていた。思えばそこは、月曜日に堺が、今の京太のように立ちつくしていた場所だ。
「なぁ……明……」
直感。嫌な予感だ。しかも、この予感は当たる。確信にも似たものが京太の声を聞いた僕の中で生まれた。
「これが、お前の言う名誉か?」
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何も、少女を見ようとはしなかった。
少女は、孤独にすら見捨てられたのだ。
自分を支えるのは大地だけになっていた。そして大地は無情にも言うのだ。「自らの足だけで立て」と。
空もまた、見上げる者に向かって言うのだ。「そこで死ね」と。
アンナエは少女に手を差し伸べたが、この手とていつ少女を振り払うかわからないのだ。それでも、少女は何かにすがるしか道はなかった。
大地はそれほどに冷たく、空もまた、それほどに自ら立てぬ者を圧してくるのだ。
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京太と並び立った時、僕の中の甘い夢が、土石流に呑み込まれるようにかき消えた。
堺のものに違いない下駄箱。その中は吐き気をもよおす酸っぱい臭いと、目が腐るような軽蔑の言葉で埋めつくされていた。
「――死ね」
「稀代のM転校生現る」
「不登校しない児」
「殴れない堺は月から金」
「殴れる堺も月から金」
「でもやっぱり死ね」
「持ち物検査班仕事しろ」
「みっちゃんは誰にもチクらない良い子です」
「土日休日の出張承ります(交通費無料)」
「遠慮なくイジメでド安定」
「死ななくてもいいからというかやっぱり死ね」
「次回の清掃は金曜日になります」
刃物でズタズタに引き裂かれた上履き。こう見えても恐らく新品だろう。そして取っ手の裏に書かれた呪いにも似た書き込み。それに、ゴキブリか何かだろうか、同じくズタズタに――いや、噛み砕いてから吐き出したような虫の死体がいたるところにこびりついていた。
「うぅ……」
僕はただ――ただ圧倒された。一度に多くのことを感じ過ぎて、ただ圧倒されたのだ。
「さっきさ。堺、トイレから出てこなかったよな?」
京太の顔がひきつっている。僕は今、どんな顔をしているのだろうか。
学生達が下校し、人気のすっかりなくなった校舎を、僕と京太は走った。階段を駆け下り、一階の音楽室横にある女子トイレの前に来た。
――トイレは女の子の聖域よ。
ナ先生の言う聖域の中で、一体何が行われていたのか。
「堺、もしかしているのか?」
そう思ったのは、トイレの中から、ジャアァ――と水の流れ出る音が聞こえたからだ。
「堺、いるのかー?」
もし中をのぞいたとして、他の誰かがいたら大変だ。というか中にいるのが堺でもただではすまないだろう。
「功刀……君?」
トイレの中から細い声が聞こえた。間違いなく堺だ。
「あっ、よかった。堺だったか。どうしたんだ? てっきり帰ったと思ってたんだけど」
「く……功刀君こそどうしたの? こんな時間まで……」
「僕たちは……えっと、橘に帰ってない生徒がいないか見回れって言われたんだ」
僕はとっさにそれらしい嘘をついた。
「……そうなの。私はもう少ししたら出るから、先に帰ってて……」
僕は、京太の方を見た。彼は首を振ったがどちらの意味なのか判断がつかない。
僕が躊躇しているのを見かねたのか、京太が口を開いた。
「堺ぃ。転校すぐのお前でも、橘の性格は知ってるだろ? あいつ結構しつこいんだ」
少しの間、水の流れる音だけが響いた。
「ゴメン……やっぱり先に帰ってて……」
「いいや、帰らない。堺、顔を見せろ」
「何を言ってるの?」
「いいから顔を見せるんだ」
「嫌……」
今度は僕が首を振った。勿論、降参の合図。だが、振り返った先に京太はいない。
「ん?」
疑問に思ったのもつかの間、いつの間にか真後ろにいた京太が、僕の背中を押したのだ。
「おわっ!」
「きゃあっ!」
女子の聖域とやらに侵入するハメになった僕は、運が悪ければ停学モノだ。
「えっ? えっ――?」
激突すまいと壁に手をつき、まるでイモリが張り付いているような姿勢のまま、僕は鏡越しに、堺と目が合った。
細く白い肩。いくら夏服とはいえ、肩脱ぎでもしない限りそんなものは見えない。というか、僕の目がとらえたのは、薄いピンク色の下着姿の堺と、激しい勢いで噴き出す水道水に撃たれる制服の上着だった。心なしか、薄紅色に変色している。
「ちょっと、功刀君――!」
堺が慌てて胸元と股間を手で押さえる。もう遅いが。
「わわわわわっわ! ごめんなさい――!」
顔中が熱くてどうにかなりそうなまま僕が外に飛び出そうとすると、僕を追って入ってきた京太が声を上げた。
「何があった?」
「火乃君も! ちょっと出て行って! 出て行ってよ!」
「瑞奈達に何をされた?」
沈――と、トイレ内が急に静まった。ふと、堺はトイレの奥に視線を移した。僕もそれを追ったが、特におかしいところは見当たらない。
「吐いたのか?」
「えっ?」
「そこ、吐いたあとがあるけど、吐いたのか?」
京太は水場を見て言った。確かに、微かにだが排水口に吐しゃ物の残骸らしきものが溜まっている。
「……知らない」
堺は首を振った。
「制服、汚れてるけど、どうしたんだ? それ血じゃないのか? 怪我でも――」
「知らない!」
徐々に、堺の声が動揺の色を帯び始めた。男二人が女子トイレに乱入してきたのだから当然の反応だが、それだけではない。僕の中で疑問だったものは、いつの間にか確信に変わっていた。
「あの奥だな。明……」
僕は京太が顎で示すまま、女子トイレの個室へと足を向けた。開け広げられているその中は、一つ目は綺麗に使われているのか、開店直後のデパートのトイレのようで、二つ目、三つ目と同じようなものを見た後で、四つ目にたどり着いた。
「――っ!」
絶句。
絶句。絶句。絶句!
先にその像が僕の目に飛び込み、次いでその意味を考え、ようやく結論を出すまでの間、何の言葉も浮かんでこなかった。そして五度絶句。
個室の中は、赤と白の物体がぶちまけられていた。女生徒達が使う生理用ナプキンが、ゴミ箱をひっくり返した程度ではここまで散らからないだろうと思えてしまうくらいに。
その中の一つに目をやった僕は、そこに生々しい歯型がついているのを見た。
見えていた。見えていたのだ。つい今しがた堺を見たとき、彼女の髪がわずかに濡れていた。
ここには、パニックとゲロがあった。
煙草の吸殻。誰の物かは考えたくもない。
「……何人いた?」
僕がそう呟いたのは、床にこびりついた足跡を見たからだ。掃除係の生徒がサボったわけでもない。その後に何らかの理由で水がまかれ、その上を何者かが踏んだのだ。そして、小さな足跡に混じって大きな足跡――明らかに男のものである足跡が、存在していた。何度も言うが、床は既に乾いていたのだ。これは僕のものではない。
トイレの奥の窓が開いている。恐らく、ここから抜け出したのだろう。
何故、こんな人通りの多い場所で――そう思ったのは堺くらいなものだろう。僕たちは、教師が階上にある教師用のトイレを使うのを知っているし、音楽室横のトイレを使う人は、部活でもなければほとんどいないのも知っている。人通りは多いように見えて、廊下の一番奥まで足を向ける人は、意外にもいないのだ。ここは、彼らにとっては絶好の場所だっただろう。
明らかにだ。それは複数人の男女で行われていた。
制服の汚れが酷いので、堺は更衣室で体操着に着替えて出てきた。
「その格好で帰るのか? ナ先生に言ってジャージでも借りる?」
僕がそう訊くと、堺は激しくかぶりを振った。
「ダメ……先生はダメよ……」
「何でダメなんだ? 酷い目に遭ったんだろうがよ」
京太の不機嫌は限界近くにまで達しているようだ。普段は温厚に見えるが、意外に気が短い。いや、この状況で怒らない方がおかしい。僕だって京太と同じような気分だ。
「……脅されてるのか?」
京太の言葉は、どうやら核心をついたようだ。堺は少し黙った後に、かすれた声で、
「帰るね……」
と言った。
追おうとする僕の肩を、京太がつかんだ。
「やめとけ。『逃げるものは追うな』だ。死んじまうからな」
追っても何も出来ない。今追えば、かえって堺を追い詰めてしまう。そういう意味なのだろう。
それでも怒りはおさまらない。
「とりあえずだ、明……」
いつの間にか、京太の表情は普段の飄々としたものに戻っていた。
「明日からやることは決まったな」
「瑞奈におしおきでもするの?」
「それは後だ」
「後? 先生に言う?」
「女同士のひがみあいに首を突っ込むのは躊躇われるが、女子トイレにずかずかと踏み込む変態どもには、おしおきが必要だな」
僕が笑いたくなったのは、ついさっきまでの自分たちのことを言っているように聞こえたからだ。だが、京太の提案も悪くない。彼はどうやら暴力に訴えるのも辞さないようだが、今はそれもするに悪い気分じゃない。
帰宅した僕を出迎えた人はいなかった。母さんは残業らしく、クソ親父はまたどこかに出かけているらしい。どうせいつものようにパチンコでも打っているのだろう。
リビングの明かりが点いていたので、僕はフィーナの姿を探した。彼女の気配を確かに感じるのは、これも<存在重複>とやらの効果なのだろうか。
フィーナは書斎にいた。母さんでさえも親父の許可なしには足を踏み入れることをしない場所に部外者が堂々と居座っているのが、なにやら不思議だった。いつもは鍵がかかっているから、中にいるということは、親父の許可があったということだろう。
「ずっ……ずっ……」
なにやら変な音が聞こえる。
相変わらず散らかった部屋だ。書棚の本は統一感もなく並べられているが、それでもまだマシな方で、床は足の踏み場もないほどに図書や破り捨てられた原稿で埋まっていた。
机の上には何冊もの本で塔が作られているが、その隙間から刈り入れ時の稲穂のような髪が顔をのぞかせていた。
「フィーナ、こんなところで何してるんだ?」
どうやらフィーナには僕の声が聞こえていないらしい。
「ずっ……ずっ……」
さっきからのこれは、一体何の音だろう。
僕は戦場跡のように散らかった床を何とか踏み出し、机の向こうに回りこんだ。
フィーナは椅子に腰掛けたまま、一冊の本に目を通していた。
「ずっ……ずずっ……」
黄金色の髪の間から、白い頬を伝う光の筋を見たとき、僕は異音の正体を知った。
「ずっ……ふぇ……ふぇぇん……」
この女は、本を読みながらすすり泣いていたのだ。よほど熱中していたのだろう。フィーナは眼前に僕が現れて初めて気付いたようだった。
「ふぇ? なんだ、アカリか……おかえり、アカリ」
「あ……うん、ただいま」
フィーナは涙を拭いながら本を閉じた。その本の表紙を見て、僕は小さく驚いたのだ。『アウローラは笑って死ぬ』と、そこには書かれていた。
(またこれか……)
全く最近、アウローラという名を目にしない日がない。
「面白いの? それ」
いつか堺にしたのと同じ質問を、僕はフィーナに投げかけた。
「ええ、とても面白いわ。それに……」
フィーナが何やら口を濁した時、僕はふと思い出したことがあった。
「アルフェンティーナが自分に似ていたとか?」
そう。確かに僕は感じたのだ。この物語で、主人公アウローラはある帝国の内乱に巻き込まれる。その時にアウローラの味方となるのがアルフェンティーナという名の女性だった。彼女の生い立ちが――これは京太や堺から聴いたに過ぎないことだが――非常にフィーナと似ていたので、僕は興味を持ったのだ。
「うん、まあ……似ているのが気持ち悪いくらいに」
「そういうことってあるの?」
「……ある。芯世界から来たアタシの言葉がアカリにも通じるように、並行世界は互いに何らかの影響を及ぼしあっている。人工物にそれが投影されるという例はあり得るそうよ。この本を向こうに持ち帰ったら、学者が大喜びしそうね。それにあっちにも似たようなものがあったし……」
「あっちにも? 逆にこっちの世界のことが書いてあったの?」
「そうだね。この本と同じで、少しというか大分外れてはいるんだけど……確か、作者は夢で見たことをヒントに小説を書いたとか言っていたかな。もしかすると、アタシたちは夢の中で互いの世界を行き来しているのかもね」
「へぇ……それでさっきはホームシックにでもなったの?」
我ながらデリカシーに欠ける質問だが、気丈なフィーナが泣く様など想像もできなかったせいで、先の光景がまだ網膜から消えないのだ。
「あれは……ふふ、恥ずかしいところ見られちゃったなー。この本を読んでるとね、ちょっと子供のことを思い出しちゃって……」
「ああ、子供の頃ね。いや、違う。子供のことか……えっ、子供? マジ?」
僕は思わずフィーナの腹に目をやった。細くくびれた腰がそこにあった。
(まさか……いや……子を産んでこの細さは……)
僕はよほど熱心にそうしていたのか、フィーナは急に両腕で腹を隠した。
「おっとぉ! そこまでだぁ、おませちゃん!」
「あっ、ゴメン……そんなつもりじゃ……というかフィーナって一体何歳なの?」
「レディから歳を聞きだすには、相応に紳士的な態度と莫大な贈り物が不可欠なのだよ」
舌を出す仕草は二十歳そこらのお姉さんだが、一体この人は何歳なのだろう。
第ニ話「堺密の秘密」了
第三話「竜の翼」へ続く