第六話「明」(後)
「晩餐は済ませたかい、アンナエ? お腹をすかせてから逝ってはいけないよ」
頭上から声。同時に、眼前のロールが倒れこむ。
「おい……」
僕がロールを受け止めようとすると、手が虚しく空を切った。先ほどまで泣き喚き、僕を殴りつけていた女は、周囲に広がる塩と同じようになって崩れ去った。
そして消える間際――塩の塊へと成り果てる間際に、彼女は確かに――確かに笑ったのだった。
あまりにもあっけなく、ロール、そして瑞奈春過は消えた。
「瑞……奈?」
「ありがとう……と言うべきなのだろうなぁ、功刀明。お前が予想外に頑張ってくれたお陰で、私は<大門>を手にする事ができたよ」
これまで何度も聞かされた、低く静かな声。
「ガモーネ……何を……している……」
「何を、だと? お前こそ何をしている? ここがどこかわかっているのか? <根幹世界>! 全ての存在の根源! ここに足を踏み入れるということは、全ての世界を支配することと同義なのだ! そんなところで餓鬼のように殴り合いをするお前たちは……はははッ……滑稽だったよ。自分が神になれるというのに、全く気付かずにいるのだからな!」
ガモーネの高笑いとともに、塔の崩壊が止んだ。
「永かった……実に永かった……」
僕は、塔の外壁に手をかけ、よじ登った。あの男の顔を見なければならない。見てから自分がどのような行動に出るかは予想がついているが。
「この瞬間のために、何度、あの女の靴を舐めたか。何度、あの女に偽りの忠誠を誓ったか。思い出したくもない、屈辱の日々だった。だが、それも今日で終わりだ。もう、私の上に立つものはない」
よじ登る。この男の下衆な台詞を聞くのは耐えがたいものがあったが、それでも、僕は無言でよじ登った。
塔の頂上にたどり着いた時、僕はかつて見た白く輝く<大門>の下に、その男を見た。
「ガモーネ!」
<直剣>を取る。この男は、斬らなければならない。直感。この男からはロールにはない邪悪さを感じる。
「おやおや、ご苦労なことに登ってきたのか?」
「何をした!」
「あぁ?」
「瑞奈に何をした!」
ガモーネは目を大きく見開き、一瞬驚いたような顔を作った後、ククク――と下卑た声で笑い出した。
「殺したのだよ。消滅したのだ。今の私は<大門>なのだからな」
「何を言っている!」
「アンナエを気にかけているのか? 彼女を憐れんだのか? 気にするな。いらぬ悲しみにとらわれるだけだ。他人のために悲んでやるほどの傲慢があるだろうか?」
僕は直剣を構えると、ガモーネに向って飛び出した。
「自分で殺しておいてッ!」
天雲。いや、この世界に雲などない。僕が影に隠れたと思ったのは、全て、刃の雨だった。
「落ちろ。<天空>。そしてこの愚か者を祝福してやれ」
空が――落ちてくる。
フィーナや堺を仕留めた一撃よりも更に重い一撃。それが僕の頭上に降り注いだ。
咄嗟に<直剣>で防御を試みたが、しのげるわけがない。
空が銀色に染まっている。空が二、銀が八、それが、僕が見た景色だった。
――危ないッ!
僕の腰元から、銀色の剣刃が伸びる。同時に、<直剣>が輝き、大きな盾のように剣身を広げた。
フィーナも堺も、まだ僕と一緒に戦ってくれている。
弾丸の雨を浴びる気分だった。フィーナの盾は数秒で砕け、堺の<竜の翼>も同じようなものだった。
もはや、剣ですらない。それは尖った塩の塊だった。当たり前だ。この世界には塩しかない。塩が最も硬いのだ。
「うあぁぁぁぁぁぁ!」
死ぬ。肩の骨が砕け、刃物が脇腹を深くえぐった。体中の血が流れ去ったのではないかと思うほどに、地面が赤く染まった。
「ほう、生きているか。なるほど悪霊に憑かれているな。功刀明、お前の<完全なる理性>はそこにいるか? お前は、お前を千切って誰かに投げ与えていないか? 払ってやろう。お前を苦しめる亡霊を。お前の存在を食いつぶす寄生虫を……」
膝から崩れ落ちた僕に向かって、ガモーネは指揮杖を向けた。
「功刀明、お前はそろそろ、ひとり立ちすべきだ。いつまでも亡霊に母親を求めてはいけない。ククッ……アッハッハハハ!」
何かが、僕の中から抜け出た。
――ああッ……アカリ!
いくつもの光。僕から抜け出たそれは、ガモーネの正面にその姿を現した。フィーナ、堺、京太、姉さん、僕を助けてくれた人たち――
「目障りだ。私の世界に亡霊は必要ないのだよ。石は石らしくじっとしておくものだ」
ガモーネが指揮杖を振ると、途端に全てが――僕の支えであった皆が、一瞬で塩の柱と化した。
「あぁ……あぁぁ……」
僕はこの時、彼が「<大門>を手にした」といった意味を理解した。ガモーネは、<根幹世界>の主となったのだ。全てのものは、彼の意のままになる。
神に祈りたい気分だ。何もかもが彼の手の中に落ちた。
僕は、天を仰いだ。だが、この天空でさえも、今やガモーネのものだ。
「ククク……祈っているのか、功刀明? 何に祈る? お前は何を信じている?」
僕にはもう、答える気力すらない。
「<大門>に祈るのか? あるいは神に? 馬鹿めッ! 祈るならぁ! この、ガモーネだろうがぁ! 私こそ<全ての善を発する門>だ! 全ての善は我より発し、我に還る。お前は今、奔流が如き宇宙を発する大いなる門の前にいるのだ! この宇宙で最も優れた私をぉ! 尊べ! 敬え! 跪けぇ! ハハハハハッ! 私こそ至高なのだ。この、枳殻=ガモーネ=アウローラこそ、全ての頂点なのだ! もう、私の上に立つものは何もない! あの天空でさえも! 太陽でさえも! 全て私の下に平伏している!」
終わった。何もかもが終わった。これから一体どうなるのか。僕の思考は、それだけに向いた。
「何を……するつもりだ?」
「ククッ……気になるのか? 気になるよなぁ! そうだ、功刀明。お前は証人になれ。証人は必要だ。何事にも、一人だけというのはよくない。何かを為すモノ、そしてそれを記憶すモノがいなければ、世界はなりたたない。そう、世界だよ。新しい世界を創るのだ。幸福に満ちた世界を!」
「幸……福?」
「そう、幸福だ。幸福とは何か? 幸福とは、必死になってかき集めるものでも、向こうからやってくるものでもない。自分が今、手にしているもの。それを何者かに投げ与えるのだ。投げ与えたものは、返っては来ない。だがそこには軌跡がある。この虹にも似た軌跡こそが、幸福なのだ。私は全てのモノに全てを投げ与える。そうでこそ、この世界は幸福で満ちるのだ。これが我々の言う<大門>であり、お前たちの言う、真の意味での『神』なのだ!」
ガモーネは、これが私利私欲のためではなく、この世のためだという。
「いいだろう。見せてやろう。さあ、功刀明。お前は私の世界に最初の幸福として生まれる」
そう言って、ガモーネは指揮杖を振りかざした。塩が盛り上がり、人の形を作った。
それは確かに、僕の知る人の姿だった。
「これが欲しいのか、功刀明? お前が愛して止まない瑞奈春過が欲しいのか?」
瑞奈春過だ。確かに瑞奈春過。一糸もまとわぬ姿で、彼女は伏せ目がちに、憂鬱そうに、僕を見ている。
「さて、大地をやろう。水も、空気もやろう。そこでこの女とまぐわうがいい。生ませろ。増やせ。お前たち二人だけの夜具が欲しいなら、それも与えよう。まだ足りないのか? 堺密も欲しいか? それとも姉にそっくりな華棟木=アルフェンティーナか? ククク……」
滝のように、それはガモーネの口から溢れ出た。この世にこれ以上、薄汚い言葉があるのなら聞いてみたいほどに。
「それとも、アンナエ……いや、ロールが愛しいか? 残念ながら、あれは使用済だ。あれは私の前にあっけなく陥落した。心の底で下衆と軽蔑する男に体を預けるほどに、あの女は弱っていた。それとも使用前のロールが欲しいか? やはり初めては初めて同士の方がいいのか?」
瑞奈を形作った塩の塊が僕に向かって歩み寄って来た。
膝立ちのまま僕が見上げると、それはいきなり僕に口付け、腕を、足を、絡ませてきた。口の中には塩っ気などなく、確かに生暖かい人の感触があった。
僕は、咄嗟にそれを突き飛ばした。それは倒れこむと同時に砕け、また塩と化した。
「黙れ……」
他に思いつく言葉がない。それが僕の死を意味していたとしてもだ。
「黙れよ、ガモーネ。見苦しいぞ。お前、怖いんだよ。不安なんだ。じゃなきゃあ、こんなにべらべらとおしゃべりするかよ?」
立てない。立てなくとも、せめてもと僕はガモーネを睨んだ。
「何もできないさ、お前、きっと何もできない」
ただの強がりだ。次の瞬間にガモーネに殺されるのは目に見えている。完敗。それは覆らない。
案の定、ガモーネは額に血管まで浮かべて僕を睨みつけた。
「いいだろう。やはりお前はいらない。<善を行う剣>。あれの首を刎ねろ」
塩の山の中から、巨大な剣が現れた。僕が持つものとは比べ物にならない。ビルを両断するほどに巨大な剣。
それは真っ直ぐに僕に向かって落ちてきた。
首が落ちた。景色が何度も回った。僕は塩の柱を数えた。
水と、空気と、塩。この世界には、それしかない。
では、ここにいる僕たちは何なのだろう――と、ふと思った。
視界の片隅に、開いたままの<大門>が見えた。
「さあ、新しい世界を創ろう……おや、時計はどこだ? せめて、私のためにボロ雑巾のように働いてくれたアンナエに餞てやろう。十二時きっかり。月曜日が来るとともに、新しい世界を始めよう。あったぞ。こんなところにしまっていたのか。ああ、まだこんな時間か。日が変わるまで随分とあるな。これでは暇を持て余してしまう。そうだ。時間を進めてしまおう。それッ! 日が変わったぞ。月曜日だ。こんなにも清々しい。月ははやく何処かに消えてしまえ。新しい太陽も用意しよう。さあ、清々しい朝だ。なんと美しい――なんと美しいのだろう。この世の滅び去る様の! 私が今、生きていることの! 全てが生まれ変わるこの時のために、全てが存在したのだ! さあ、全ての世界を一つにしてやろう。もう、何かが足りないということは、未来永劫起こり得ないのだ!」
ガモーネがまるで世界を創造する神のように一人語散るのを、僕は聞いた。
景色が回る。僕は首だけでコロコロと転がりながら、空と、塩と、ただ一人の人間を見続け、水の中に落ちた。僕は死んだ。
これは走馬灯なのだろうか。
無限に虚しい空を映し出していた水面に落ちた首は、一瞬の間に、様々なものを見ていた。
半壊する世界。それは人が塩の粒を摘み取るような容易さで、壊され、粉々になり、そして跡形もなく消える。世界中のあらゆる都市、あらゆる自然が、わけ隔てなくガモーネの食卓に並べられたのだ。
沈む。この海は深い。
(海? ……これは海なのか?)
僕がそう思ったのは、沈み行くその先に光明を見たからだ。闇をこっそりと照らす月明かりではない。一切の憚りなく、燦然と輝く太陽にも似た光が、僕が落ちる深淵から射して来た。
そこもまた水面だった。首だけになった僕は、とうの昔に呼吸も途切れ、血の流れも止まっているはずの僕は、水の底に塩の大地を見た。僕は自分が天空にあることを知った。空の上に水があったのだ。
コツン――と、額が何かに当たった。水面だった。僕はそれを越えて、眼下の大地へと落ちてゆくことはできないようだった。
(あれは……<大門>……)
光輝く立方体。それは六面全てが開かれ、中から大量の塩が大地に振りまかれていた。塩は山を成し、風に運ばれ、砂漠のように緩やかな傾斜を造る。さらに風に流され、打ち寄せる波にさらわれ、雪の結晶を連ねたような無限の模様を形作る。
(……どこだ? ……ここは? 僕は戻ってきたのか?)
違う。新たに盛られた神の祭壇。そこにはこの世界の主たるガモーネの姿がない。代わりに、そこには古びた天秤があった。人を一人乗せられそうなくらい、大きな天秤が。
瞬間、僕の脳裏に、先ほどと同じような、ここから遠い世界の様子が広がった。崩壊しかけた人工の塔、枯れた泉、ひび割れた大地。そこに雪のような塩の粒が舞い降り、全ての大地の恵みとして降り注いだ。大地はゆっくりと緑に包まれ、産声にも似た喜びの声を上げた。
(これは……向こうの世界だ…… フィーナやロールの世界だ……)
ロールが死んだ今、これはありえないことではないのか。ガモーネは全ての世界をひとつにすると言った。だが、実際には水面の向こうにも世界があり、僕たちの世界の<うつろわざる神>が、ロールの世界に流れ込んでいる。
ーーどういうことだ! これは!
嘆き、戸惑い。あるいは稚児の駄々にも似た声。しかし覚えのある低い声が聞こえた。それは確かに、今は僕にとって深みとなってしまった先から聞こえてきた。
ーー何故だ! 何故、何も変わらない? 何故、<大門>は<うつろわざる神>を吸い上げる? それは、私のものだ! ええいッ! 持ってゆくな!
水の流れが変わり、僕は急速に後ろに引っ張られた。目が回り、闇の中を何度も流された。
気付けば、塩の中に顔を突っ込んでいた。
指先が痺れた。生きている。僕は、手を動かし、自分の首を触った。
確かについている。僕は死んでなどいない。
「何故だ……何故生きている、功刀明?」
立ち上がる。僕は塔の頂上、先ほどまでガモーネと対峙していた場所。凄まじい勢いで、六面に開いた立方体――<大門>によって<うつろわざる神>を吸い上げられる塔の上にいた。
膝を地につけたまま、僕はガモーネを見上げた。
「何故生きているのだと訊いている!」
<竜の翼>――いや、<天空>か。これを見るのも、もう何度目だろうか。天空から太い光の束が落ち、僕を圧殺する。
痛い。肉を貫かれ、骨を砕かれ、五体をばらばらにされながら、しかし、僕は死なない。
雨が止んだあとにふと空を見上げるように、僕はまた、元の場所に座っていた。
「何だ。何が起こっている?」
未知の現象に対する戸惑いか、それとも恐怖か、ガモーネは唇を震わせた。
生きている。僕は確かに、生きている。千回死んでもなお死に足りないほどの剣刃の雨を浴びながら、僕の体には傷一つ残っていない。
<真直なる極光>――この手にある。右手に持ったそれを、僕はガモーネに向けて立ち上がる。
跳躍。僕はこれほど高く飛べたのか。たった一度の跳躍でガモーネの懐に飛び込んだ僕は、有無を言わせずにその胸を刺し貫いた。
「がッ……功刀明……無駄だ……私を殺せるモノは、この世界にはない」
直剣を抜きとると、ガモーネの傷がたちまちにして塞がる。
「ガモーネ……少し、お前が可哀想だ」
理解した。ここは、<根幹世界>などではない。
堺は、この世界が全ての根幹であると言った。全てが空気と、水と、塩で表現される最小の世界。全ての並行世界がここにあると言った。
だが、違う。ここは僕らの世界を記号化したに過ぎないものだった。無限に広がる大地は、しかし、縦にも連なっていた。水の中で僕の額が当たった壁が、世界の境界なのだ。
では、ここは何か。そう思った僕の脳裏に一つの光景が甦った。
ああ、どうして今まで忘れていたのだろう。ロールは確かにあの時、フィーナを殺した時に言ったのだ。
――<隠者の天秤>はどうなさいますか? この者達の記憶を消しては?
ガモーネの問いに、ロールは確かに答えた。
――必要ない。あれには他に使うあてがある。
僕たちは、また、騙されていたのだ。気付かないように仕向けられたのだ。
この世界は、ただの記号だ。ロールが目的を遂げるために穴をあけた、根幹に近い世界。僕たちの世界と存在を同じくする、しかし形が違うだけの世界。
「何を言っている? 私が憐れだと? 何を言っているのだ?」
ガモーネの動揺は深刻だ。自分が全ての支配権を得たと思ったら、最初に、自分が殺せない人間に出会ったのだから。
「騙されたんだよ。僕も、お前も……」
「騙される? 誰に?」
「お前が使い捨てたつもりのボロ雑巾にさ……」
僕は天空に手をかざした。そして、以前まで、決して僕のものではなかったモノの名を呼んだ。
「<天空>……」
空を無限に分かつほどの光の束。天上から落ちたそれは、たちまちにしてガモーネの頭上に降り注ぐ。
惨劇。肉片すら残らぬほどに、標的となった男は断末魔すらあげる暇もなく千切れ飛んだ。目の前で展開されたそれは、しかし数瞬の後に何もなかったかのように、全て元通りになった。
「何が……起こっているのだ! 私の世界で! 何が起こったのだ!」
何という、憐れな姿だろう。この男は、神になったつもりが、道化になっていたのだ。
「ガモーネ、お前の<うつろわざる神>はそこにいるか? お前は、お前を千切って誰かに投げ与えていないか? 教えてやろう、ガモーネ。簡単な話、僕とお前は運び屋にされたんだよ」
ガモーネは背後を振り返り、<大門>を見た。先ほどまで大量に<うつろわざる神>を吸い上げていたそれは、今は息切れしたように細々と塩の粒を巻き上げている。
「まさか……ここは……違うのか? 全ての根幹ではないのか? あれは……<大門>ではないのか?」
「違う。ガモーネ。ここはただの通り道だ。僕たちが見ているのは、ただの流れ。僕やお前が動かせるのは、流れを強くするか、弱くするかでしかない。弁だよ。蛇口がこの世界での僕たちなんだ」
「何を言っている……」
「おめでとう、ガモーネ。お前は確かにこの世界の神になった。でも、可哀想に、ガモーネ。お前は<大門>に触れることすらできなかった。お前は自分からロールのための門番になったんだ!」
塩の山が盛り上がる。それは奔流となり、僕に襲い掛かる。
「ダメだ。ガモーネ。よく見ろ。お前が暴れる度に、この世界から<うつろわざる神>が奪われてゆく。お前が作ろうとしている世界は、全部掠め取られる」
「馬鹿め! 騙されてなどいない! ロールは死んだ! 私こそ、この世界の頂点! 私こそ<全ての善を発する門>なのだ!」
この男、解けていない。<隠者の天秤>が――
僕が水面の向こうに見たものこそが、<隠者の天秤>だった。そして僕は、それを解く術を持たない。今の僕はきっと、それよりも大切な何かを忘れているのだろう。
<真直なる極光>を手に取った。僕は、戦わなくてはならない。
「ガモーネ。わかったよ。ロールは、いつかの時点で気付いていたんだろうな。僕も、お前も、<完全存在重複>――同じアウローラだってことに。だから笑って死んだんだ」
<極光>。天の裂け目。大いなる光の現し身。美しくあれども、その実、何も照らさない光。
一閃。<直剣>を横に薙ぎ、ガモーネの攻撃をしのぐ。
ーー神は、自分で自分自身を殺せない。
(畜生、クソ親父め。神様もきちんと死なせてやれよ……)
『アウローラは笑って死ぬ』の一文を思い出しては、僕は心中で親父に毒づくのだった。
どれほど戦っていただろう。五分か、十分か、あるいはそれ以上か。僕とガモーネは砂漠に吹き荒れる嵐のように、塩の大地に広がる無限の模様を乱しに乱した。
突然、錆びた鉄がこすれるような、鈍く大きな音がなった。
夕暮れ。この世界にそんなものがあったのか。いや、ない。
光を失いつつあったのは、僕たちが先ほどまで<大門>と呼んでいたものだった。
それは、六面に開け放たれた扉を、少しずつ閉じようとしていた。
<竜の翼>で空に翔け上がった僕を圧殺しようと、ガモーネが繰り出した塩の塊が襲い掛かる。僕はそれを避けながら、眼下に広がる水の流れを見た。
速い。この世界は全てが速い。
「ガモーネめ! この野郎! 勢いよく時計を回しすぎだ! もう、月曜日が終わろうとしている! だが、お陰で時間切れだ! もうすぐこの門は閉じる。おめでとう! お前は今日からこの世界の主だ!」
門が閉じる。全てが夕闇にも似た暗さに包まれる。夜だ。この世界の夜が来る。
「時間切れだと? 馬鹿なことを言う! 時計を回そう! 七日の後に、またこの門は開く! その時にまた、私は世界を新しく造り変えるのだ!」
確かにガモーネは、この不毛なだけの世界での不滅を手に入れた。だが、忘れている。彼が創造者を気取れる七日に一度の日は、ロールが決めたということを、忘れているのだ。
「おおッ、夜だ! 門は閉じる。閉じろ! 閉じろ! 七日の後にまた開け!」
宵闇に飲まれるように、ガモーネは消えた。
僕は、塩の大地へと降り立った。門を壊すことはできない。あれは既にガモーネそのものであり、また、彼と存在を同じくする僕でもあるのだ。
だが、それ以外の最上のもの、今はそれを拾おう。僕は、僕のために、剣をここに置こう。
僕は塩の山をすくい取った。それを手にして、今は閉じようとしている門に向かって飛び立った。
「ロール……お前、悪い女だ。本当に悪い女だよ……」
舌打ち。彼女は使命を果たした。だが、僕は敗北したわけではない。僕がガモーネと制し続ける限り、これ以上、<うつろわざる神>が奪い取られることはない。
門が閉じ去る間際、僕は光の中に飛び込んだ。
第六話「 明」了
エピローグ「バット・グッデイ」へ続く