第一話「バッド・マンデイ」
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アウローラ! 君の<うつろわざる神>はそこにいるか?君は、君を千切って誰かに投げ与えていないか?
永久に広がる白のフラクタル。調和という言葉があまりにも冷たく響くこの無限なる塩原で、私は確かに聞いた。
この世が自らを笑い殺す瞬間を、私は見た。そしてこの手で、枯れ果てた稲を――いや、木偶のように並び立つ塩の柱を刈り取った。私はその先に、ああ、<ルーメン>を見た。
<ルーメン>――それは勇気の灯火!
なんと美しい――なんと美しいのだろう。
この世の滅び去る様の! 私が今、生きていることの!
神は自分で自分を殺せない。だからこそ、この瞬間の美しさに、私の目は眩み、全身が感動に打ち震えるのだ。
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明。僕の名前。窓の外から射しこむ光。外から来る光。外から来たものを、人は知る。
自分でも持っているのに、わざわざ外からも来るもの。時間に似ている。時間は光。
逃れられない時間もある。
月曜日。絶対に来る。彼女は罠をはる。僕らは七日に一度、それに、けつまづく。
ああ、何て日だろう。明日は月曜日だ。
月曜日なんて大嫌いだ。
武載駅。日野出学園に向かう生徒の大半は、この駅で乗り換える。
いつも通り、二番線のホームの最後尾に並ぶ。並ぶといっても、ほとんど誰もいないのだけれど、これには理由がある。
<舞台>――と言えば、学園の生徒なら誰でも通じる。役者が脚光を浴びる晴れ舞台ではなく、「清水の舞台から飛び降りる」の舞台だ。
週に一度、多いときは二、三度。二番線のホーム最後尾から、誰かが飛び降りる。清水の舞台からは落ちても死なない場合もあるらしいが、武載駅の二番線ホームは確実に人を殺す。
学校に近いという理由だけで、僕は今、<舞台>に立っている。昨日や今日からそうなったわけではない。だから、電車に轢かれた人間が砕け散るのも何度か見ている。
大人達は偉ぶった風に、こうした子供達の毒になりそうなものを片っ端から遠ざけるが、結局のところ、そのほとんどに失敗する。僕の眼前に飛び散る臓器を、彼らは僕と同じように眺めることしかできない。
見ず知らずの他人でも、その命は彼らの手に余るのだ。大人の手に収まり、子供の手に余ることなど、僕らが彼らに教わるほど多いとは思えない。
とにかく、もう慣れてしまった。ただ、最初の人にとっては、えげつない洗礼であることには違いない。
先週の月曜だったか、何も知らずに<舞台>に並んでいた転校生が、憐れにも彼岸へ旅立つ者を見送ってしまったのだ。線路に飛び込んだサラリーマンには、小柄な少女の吐瀉物があの世への餞別となった。以来、その転校生の姿を<舞台>で見かけることはなくなったのだけれど……。
(あれ? ……いる)
いつの間にか、僕の左横に、その子はいた。名前は確か――
「堺密」
確かそうだった。僕と同じクラスで、壁際の端の席でいつもひとり本を読んでいる子だ。
何を思ったのか、その子が<舞台>に並んでいる。あの血生臭い光景を克服したのだろうか。僕がそうだから、彼女もきっとそうなのだろう。人間、朝の気だるい登校時間を一秒でも減らせるなら、眉ひとつ動かさずに死体を踏み越えるくらいのことは成し得るのだ。
とはいえ、堺の表情をよくみると、何故か相当に不機嫌そうだ。
ふと、堺と目があった。
耳を覆うくらいの短めの、青光するほど潤った黒髪。左目は前髪で隠れて見えないが、両親から受け継いだであろう青い右目が僕を刺すように見ていた。
(寝起きが悪いのかな?)
「…………て」
小さく、少女の口元が動いた。あまりにも小さなその声を聞き逃した僕が首を傾げると同時に、耳をつんざくような音が鳴り響いた。
警笛。こればかりは慣れない。耳というか頭が痛くなる。いつものように、電車がホームに進入して来た。今日はどうやら運転手にとって幸運な日だったようだ。<舞台>には僕ら以外誰もいない。
――と、その時、僕の視界の片隅を、何かの影が横切った。
世界が、ゆっくりになった。いや、駆け抜けたのが彼女であることに気付いた瞬間、ホームから飛び降りた彼女と電車が接触する瞬間、それはゆっくりになった。
飛翔する少女。そして風を切りながら走り来る車両。それらが激突する瞬間を、僕はこの目にとらえているはずだった。
世界が、速くなった。
何事もなかったかのように車両は通り過ぎた。人と鉄塊が激突する不愉快な音も、耳を裂くようなブレーキの音も、聞こえなかった。電車は軽快に走り、そして止まった。
眼前のドアが開いても、僕は指一本動かせなかった。
(消えた……)
あの転校生は、確かに消えたのだ。
(まさか……今日は月曜日だ……)
あの不思議な事件に遭遇したのだと、僕は直感した。
「おいっ!」
何者かに肩を叩かれた僕は、小動物のように体をびくつかせた。当たり前だ。あんなもの、目の錯覚なわけがない。
「おい、明!」
この声はあいつだ――というかこの場所で僕に話しかけるような輩は、京太以外にいない。
「京太ぁ……びっくりさせ……」
振り向いた僕の視界に、信じられないものが映っていた。
今しがた線路に飛び込んだはずの少女が、僕の真横を通り過ぎて電車に乗り込んだのだ。
「きっと僕は幻覚を見たのだ。そうに違いない」――と、自分を納得させるには、先ほどの体験はあまりにも生々しかった。時間にひびの入るような感覚、走馬灯のような体験をした人間の誰が、それを夢であったなどと打ち消せるだろう。
呆然としていた僕は、京太に引きずられるように電車に乗った。
私立日野出学園。日野出市屈指のマンモス校である。名門といえば昔の話で、学園の偏差値自体はそれほどでもない。というのも、数年前の校長の指針に「少年達の成長を測り、また伸ばすのに学業や部活動のみを重視するのは不自然である」というのがあり、最初こそ一芸入試じみたものがあったが、次第にそれも廃れ、来る者は拒まずといった状態になった。当然、偏差値は下がるわ、生徒の素行は悪くなるわで、校長はクビになり、しかし一度こういう指針を立ててしまうと元に戻し辛いらしく、今に到っている。政治家の息子からヤクザの娘まで、我が学園はわりと広い分野の人間に恵まれている。
「さっきはどうしたんだよ? ボーっとつっ立っててさ……」
校門を通り過ぎた僕に馴れ馴れしく話しかけてきた男は火乃京太。僕と同じ高等部の二年F組で、席も隣同士だ。
背は高く、容姿端麗、ややたれた目元に泣き黒子のおまけつきだ。女子にも人気があって多くの男子から毛嫌いされそうなものだが、神は彼におちゃめな悪戯をしたのか、成績は学年でも最下クラスだ。ただし雑学馬鹿で、頭は悪くないところが嫌味でもある。
「いや……」
「言うな、言うな。どうせあいつなんだろ?」
京太が意味ありげに目配せをした方向を見ると、そこには死んだはずの堺密がいた。
「大人しいせいであまり目立ってないが、彼女結構人気あるんだぜ」
「……そりゃまあ、可愛いからね」
京太が訝ったのは、僕が相当に悪い顔をしていたからだろう。
「あれ、違ったのか? さっき堺のことをガン見してたからつい……」
(違うというか、あってるというか……)
説明が面倒くさい以上に、言っても信じてもらえないだろう。
下駄箱で上履きに履き替えようとしたところで、どういうわけか堺に追いついた。
何やら下駄箱をじっと見ているようだけど、どうかしたのだろうか。
どうやら堺は僕の視線に気付いたらしく、振り返ると慌てて何かを打ち消すように廊下の奥へと駆けて行った。上履きも履かないままで――
(忘れたのかな?)
夏だろうが冬だろうが、朝だろうが夕だろうが、どういうわけか下駄箱の前は暗く感じる。その暗さを破るように、一人の少女が僕らの横を通り過ぎた。
「おはようございます。先輩!」
「あら、おはよう」
下級生に挨拶をする仕草ひとつにも、どこか気品が漂う。
瑞奈春過に憧れる男子は、彼女のために手で払ってやりたいくらいに多い。
春風だ。夏だけど春風が通り過ぎた。あまりの芳しさに鼻をやられた男子の幾人かが、偶然を装って――しかも、さも興味なさげに――彼女の後を通り過ぎた。全く、愛らしいくらいに軽薄で正直な奴らだ。
淡い栗色の、やや巻き具合のくせっ毛が風になびいた。女子の中では背がやや高いが、細くくびれた腰がなんとも悩ましい。
声。麗しい声。空から柔らかい何かが落ちてくるような、耳元で囁くような、そんな声が、僕らの前を通り過ぎた。
「おはよう」
「お……おはよう」
僕が挨拶を返すと、瑞奈は見た人が思わず口元を緩めてしまいそうな微笑を返した。
「おやおや、我らが功刀君はミズラーだったか」
後ろから野次を飛ばした京太に肘打ちを喰らわせた。
彼女ほど魅力に溢れた女子を、僕は他に知らない。勿論、瑞奈春過のことだ。だが上もいる。成熟した大人。僕らの担任のナ先生だ。
ナ・ジノ。二十九歳。本来は世界史の教師をやっていたのだが、前任者が謎の失踪を遂げてしまったので、急遽、僕らのクラスの担任となった。
容姿端麗、瑞奈よりも長身で、眼鏡がよく似合う知的美人だ。女性ーーと呼ぶのも男性と呼ぶのも正しくないだろう。世間的にはクィアと呼ばれるようだが、本人からはなんの説明もないので誰も詮索しない。何故か万年ジャージ姿で、生徒の悩みにも真摯な態度で臨むので、男女問わず評判が良いーーのだが、激情家なのか、怒らせたら誰よりも怖い。雑学にも富んでいて、言葉が生まれるに到った歴史も教えてくれるから授業も面白い。
「じゃあ、功刀君。答えてみなさい」
低くも細く柔らかい声が響く。
「えっ?」
「指名されたら起立する」
「は、はい!」
慌てて席から立ち上がった。
しまった。授業中なのに全く聴いてなかった。評判が良い教師にしろ、ここで笑って誤魔化せるほどには甘くはない。
「どうしたの? まさか……先生の話を聴いてなかったとか?」
「あ……いや……」
校舎の周りを五十周か、レポート二十枚か、あるいは必殺のテンプルクラッシャーか――様々な想念が冷や汗とともに流れ出る中、僕は右隣の席に座る京太に助けを求める視線を送った。
やれやれ――といった様子で、京太はノートに大きく「明」と書いた。
(ちょっと待て、意味分からないぞ、それ!)
何をどう質問したら僕の名前なんかが答えになるのか。だが、これ以上思索を続ける時間は残されていなかった。
「功刀明君……」
いつの間にか目の前まで来ていたナ先生が僕の肩にポンと手を置いた。
「ぼ……僕です! 答えは僕!」
「は?」
クラス中の視線が僕に集まった。学園のアイドル瑞奈春過も、今朝方僕に不可解な体験をさせた堺も、理解できないという風に僕を見ていた。
(からかったな、京太!)
僕が裏切り者を見る目で京太を睨むと、彼は苦笑とともに首を振った。
「ぷっ……」
堰を切るように――とはこのことだろう。クラス中が爆笑の渦に包まれた。
「あはははっ! 功刀、お前いつからそんな親父ギャグ言うようになった?」
男子の一人が野次を飛ばす。ああ、何かわからないが、ヘマをしたらしい。瑞奈も隣り合う女子とコソコソ話しながら笑っている。こりゃあ、馬鹿にされたな。
「功刀君。私は『哲学者王陽明はいつの時代の人だったか』と質問したんですよ。正解を知っているなら、真面目に答えなさい」
ナ先生は拳の裏で僕の頭を小突くと、教壇に戻っていった。
(助かった……のか?)
事態を把握していないのは、どうやら僕だけらしい。席に座ると、京太が親指を突き立てて、「んナァイス!」とサインした。
「……というわけで、連日の失踪事件には警察もお手上げといった状況です。そこで、今日から集団下校を実施することにしました。できれば三人以上、最低でも二人でペアを組んで下校するように!」
ホームルームでナ先生が言っているのは、今月から急増した失踪事件ことだ。何者かによる拉致なのか、自殺なのかは知らないが、武載市周辺で神隠しに遭ったように人が忽然と姿を消す事件が多発している。先週だけで二十人というのは異常な数値だ。独身のサラリーマン、主婦、タクシー運転手、小学生と、行方不明者の共通点すらない。
行方不明者の大半が月曜日に姿をくらましていることから、「月曜日失踪事件」と俗に呼ばれている。この事件がこれまでと違う響きで聞こえるようになったのは、今朝の奇妙な出来事が原因であることは言うまでもない。
「功刀、ゲーセン寄ってこーぜ」
「あ、今日はいいや……」
京太の誘いを断ったのには意味がある。
僕は片隅で読書に勤しむクラスメートに視線を移した。
(堺……)
やはり上履きを忘れていたのか、机の下から来客用のスリッパが交互に顔を見せる。これが読書中の彼女の癖のようだ。どこか子供みたいで愛らしい。
友達をつくるのはあまり上手くないようだ。彼女に話しかける女子はクラス委員長の瑞奈くらいしか見ない。男子は何人かいるようだが、堺は彼らとの会話を楽しんでいるようには見えない。
「堺に話でもあるのか?」
「うん、少しね……」
興味本位――飽くまで興味本位だ。彼女に朝の一件についてきいておかないと夜も眠れそうにない。だからこれは興味本位だ。
僕は堺の席の前まで行き、声をかけた。
「上履き、忘れたの?」
堺はびっくりしたように目をぱちくりさせて僕を見た。当然だろう。彼女と話すのは僕もこれが初めてだ。
「……うん、洗って干したまま忘れちゃって」
「……そう」
まずい。会話がもたない。もとからして僕は京太のように会話上手ではないのだ。
痒みにも似た沈黙が流れた。堺もいきなり声をかけられた理由をつかめないようだ。
「いつも本を読んでるけど、それ面白いの?」
あたり障りがないというか、我ながらよくもここまで味気ない台詞が浮かぶものだ。しかし、堺は意外にも乗り気で僕の質問に答えてくれた。
「うん。とても。この人の書いた本、幻想的な雰囲気の中に鋭い真実が隠されていて、読んでて飽きないの」
「そりゃあ凄いね。僕も読んでみようかな」
さて、どうやって彼女にご同行願おうか、あるいはこの場で朝の出来事について訊いてしまおうか――と、僕が考えていたところ、堺は丁寧にも上っ面だけの僕の台詞に答えてくれた。答えるといっても、本のカバーを外して表紙を見せてくれただけだが。
――『アウローラは笑って死ぬ』 神凪太陽 著
文庫本の表紙を誇らしげに見せる堺の笑顔は、一部の男子にとっては得がたい幸福だろう。
「それ、もしかして『怠け者のドグマ』の人?」
普通、こういう時は席をはずすものだろうが、京太にはそんな配慮を望むべくもなく、馴れ馴れしくも堺の手前の机にどっかと腰をかけて言った。
「火乃君も読んでるの?」
短期間であれ同じクラスにいる以上、堺が読書仲間に恵まれていないのはわかる。だから、彼女が喜ぶのは予想外ではなかった。
「もちろん! 俺は神凪太陽の大ファンなんだ。それに明なんか……」
(京太!)
僕は堺の死角から京太に蹴りを喰らわせた。
「痛っ!」
「功刀君も?」
堺はどうやら今日初めて話す僕の名前も覚えてくれているらしい。それよりも余計なことを口走りそうになった京太に殺気を送るので忙しかったわけだけど。
「……?」
堺は小さく首を傾げた。
「まさか同じクラスに同志がいるとは知らなかった。……というわけで、帰りに何処か寄ってかない?」
フォローのつもりなのだろうか。京太は腰の裏に手を回して親指をグッと立てた。
武載駅の近くにある喫茶店にとりあえず入ったわけだが、僕が手でつまんだフライドポテトに何か新しい食べ方がないか考えているのは、京太と堺が『アウローラは笑って死ぬ』という小説の話で大いに盛り上がっているからだ。
「それは違うよ、堺」
「そうかな? でもこの部分なんか彼の嘆きがよく伝わってくるわ」
堺が本を開いて京太に指し示す。僕は目だけでそれを追った。
『ああ、この私! 誰が私をアウローラなどと名付けた! こんなもの、重荷でしかない! 私には誰も照らせない。今にもかき消えそうな雲のように、ゆらゆらと漂っているだけだ。私は何者でもない。アウローラですらない。呼ぶな! 私の名を呼ぶな! 私は違う何者かだ!』
相変わらず京太の好みは理解できない。
(そもそも何人だよ、アウローラって……)
小さく呟いたつもりだったが、どうやら二人には聞こえていたらしい。
「アースト人よ」
「いいや、エピー人だね」
「それは母親の母国じゃなかった?」
「市民権は持ってるんだよ。アースト王はアウローラを招聘したけど、市民権までは与えてない」
二人には悪いが、何を言っているのか、全くわからない。
「おっとこんな時間か。俺、これからバイトだから先に行くわ」
京太は僕に向かって意味ありげに目配せすると、席を立った。「あとはお二人さんでご随意に」ということらしい。
(好きなだけ話しておいて今更だとは思うが)
しかし京太が帰った後は、彼の馴れ馴れしさが妙に心強かったことを思い知らされた。
(話せねぇ……)
どうしてこう、話をかけ辛いのだ、この子は。あるいは僕が悪いのだろうか。
とはいえ、このまま話を切り出せないで帰るほど馬鹿らしいことはない。もじもじしてるだけで、彼女に無用の誤解を与えかねないものだ。
「あのさ――」
今朝のことだけど――とようやく話を切り出そうとしたところ、何を思ったのか、堺が突然立ち上がった。
「功刀君、ゴメン……私帰るね」
カバの形をしたガマグチ財布(古い……)から五百円玉を取り出し、テーブルの上に置くと、堺は慌ててその場を去ろうとした。
(えっ、マジ? 帰っちゃうの? 何で?)
今、彼女に帰られたら、たまったものではない。
「ちょっと待っ――」
あっという間に、堺は店の外に飛び出してしまった。何だろう。凄く慌てている。そんなに僕と二人でいるのが辛かったのだろうか。
ふとテーブルの上を見ると、堺愛読の文庫本が置き忘れられていた。
正直、届けてやろうという気持ちと、これで堺を追う口実ができたというのが、半々だ。
僕は堺を追って店の外に出た。走って武載駅に行けば間に合うだろう。
好奇心に狩られて、手に取った堺の本を読むべきだったのかもしれない。僕が『アウローラは笑って死ぬ』の冒頭を知ったのは、随分後になってからの話だ。
『逃げゆく者は追うな。追えば、君はそれを殺さなければならない。だから追うな! 殺せば、世界が変わる。君が変わって、世界が全く違うものになる。変わったものは、もう戻らない。多くの人は、それを地獄と呼ぶ!』
武載駅に着く寸前で、僕は堺の後姿を視界にとらえた。
堺は何故か駅を通り過ぎて、線路脇の小道に入って行った。僕が彼女を見失ってしまったのは、調度その時に日が沈んで暗くなったからだ。
何故だろう。奇妙な感じだ。その原因はすぐにわかった。今世間を賑わしている、月曜日失踪事件が頭をよぎったからだ。
薄暗い小道に入った僕は、堺の姿を探した。建造中のビルから間断なく工事のうるさい音が聞こえてくる。だというのに、この道はあまりにも閑散としている。
案外簡単に見つかった。というのも、堺は考え事でもしているのか、道の真ん中で立ちつくしていたからだ。
「――っ!」
声をかけようとした瞬間、僕は息を呑んだ。
影。
大きな影が、堺を覆った。それはすぐさま僕の足元に伸びてきて、僕までもすっぽりと覆いつくした。
堺が上を向いた。僕は、彼女に引き寄せられるように上を向こうとしたが、途端に首の筋肉がつりそうになった。何かしらの嫌な予感。それが、僕に硬直を強いた。あたりが妙に静かになった。いや、うるさい。うるさいのは、僕の鼓動だ。鼓膜を内側から叩くように鳴っている。
うるさい。
それが、何かが空気を割いて僕の頭上に降り注いでいる音に変わった時、僕は戦慄とともに空を見上げた。
鉄骨。右手にある工事中のビル。その最上階が、まるで爆弾でも爆発したかのようにぐちゃぐちゃに壊れていた。鉄骨、ビルを覆うシート、鉄パイプ、それらが空中でくるくると回転しながら、僕目掛けて落ちてきた。
「うぅ……」
辛うじて――一切が金縛りの中にある僕の全身の中で、辛うじて喉が小さな呻き声を上げた。そして鉄骨が髪先にかする距離まで来た時、禁縛は解け、代わりに恐怖が僕の全身を支配した。
「うわあぁぁぁ――!」
大きな影と激突する刹那、世界が急速に回転した。轟音とともに鉄骨群が地面に叩きつけられるのを見た。僕はようやく、何者かに押しのけられたことを知った。
アスファルトの地面に激しく擦ったのか、肘裏が熱い。いや、それ以上に、僕は地面にはいつくばる自分の真横に立つ人の異形に驚いていた。
黄金の髪。純白の――これは鎧なのだろうか。着物姿に近い格好で、しかし盾らしきものが両肩を覆うように、何の原理なのかわからないが宙に浮いている。細く白い顎に薄い唇は、確かに女性のそれだ。彼女の手には、和服には到底似合わない両刃の直剣が握られていた。
僕は、地面にはいつくばった姿勢のまま、その女を見上げていた。つい五分前まではすぐそこの喫茶店でくつろいでいたのが信じられない。
「ちょっと坊や、生きてる?」
荘重な――というか奇妙な――いでたちとは違って、明るく軽い声でその人は言った。
「……な、なんとか。というか一体……」
「長ぁく話してるヒマはないわ。巻き込んでしまった以上、アンタに訊かなきゃいけないことがある。逃げるか、アタシに協力するか、今、決めな。アタシの名前は、華棟木=アルフェンティーナ」
「カムナギ? アルフェ?」
ゲームのキャラクターみたいな名前だ。あるいはコスプレ劇か何かか。それもこんな路上で。
(んーな訳ないだろっ!)
現に、頭上から鉄骨が降り注いでいる。これが、劇なわけがない。ならば、現実だ。ここは、僕の知らない現実だ。
アルフェとかいう女の表情が険しくなった。彼女は、視線を僕から前方に移した。
(そうだ! 堺は?)
忘れていたわけではない。思い起こす暇すらなかっただけだ。
僕もまた、彼女の見やる先に視線を移した。だが、そこに堺の姿はなかった。まさか鉄骨の下敷きになったのだろうか。そんな想像、したくもない。
と、その時、先ほどまで堺がいた場所に、一人の男が立っていた。
漆黒のコート、黒光りするブーツ、そして墨塗りしたような明るみとは無縁の髪色。長身の男は、静かに――ただ静かに僕らに向かって佇んでいる。
「華棟木よ。私の問いに答える気になったか?」
低く、威圧感のある声。僕に向けて放ったわけではないのに、男の言葉は、僕の心臓をわしづかみにした。そしてこれは直感だが、彼はアルなんとかいう女の敵だ。
「あら、ガモーネ。いつからアタシにそんな口をきけるようになったの?」
着物鎧の――と表現するしかない――女は、手に持った剣の先を男に向けた。
ガモーネと呼ばれた男は、小さく笑ったようだった。どうやら彼の視界に、僕は入っていないのだろう。
「強がるな、華棟木。お前はすでに、この世界から消えうせようとしているではないか」
黒コートの手には、長細い棒があった。彼はそれを眼前の敵に向けた。
「ハッ! 笑えないね、ガモーネ。下賎な身で指揮杖まで持つのだから」
「ほざけ!」
飛んだ。いや、弾丸のように弾けた。それまで僕の隣で立っていた着物鎧の女が、一瞬で黒コートの前まで跳躍したのだ。
金属の激突する甲高い音が鳴った。一回、二回と、武器が交差する度に、衝撃だろうか、突風にも似た何かが僕の顔を打つ。
小石がはじける。鉄骨が、二人の激突に巻き込まれて宙に浮く。
(化物かよッ!)
こんな場所にいたら死んでしまう。僕は、慌ててその場から逃げようとした。すると、彼らに背を向けた僕の眼前に、鉄骨が落ちてきた。
「動くなよ小僧! お前はもう巻き込まれたのだ! 顔を見せろ。憶えておいてやる!」
黒コートは指揮杖の先で横たわる鉄骨を叩いた。するとそれは、宙に浮き、僕目掛けて飛んできた。
「うわっ!」
僕が生きていたのは、着物鎧の女が、辛うじて鉄骨を弾き返したからだ。あの、細身の直剣で。
黒コートが僕に目をつけたのは、それだけの余裕が彼にあったからだ。戦況は、いかにも着物鎧の方に不利だった。
「ははっ! どうした、華棟木? 自慢の<直剣>が泣いているぞ!」
「うっせぇ! 三下に本気出すほど華棟木の名は安かねーのよ!」
明らかな強がりであることは傍目にもわかる。着物の女は肩で息をしているが、黒コートは冷静沈着に彼女の攻撃をいなしている。
「今となっては<直剣>もそこまで力を失ったか。華棟木よ、今一度問おう。我が主に従え。お前は本来、こちら側にいるべき人間なのだ」
「お断りよ。アンタの使い走りになるくらいなら、死んだ方がマシだね」
「……では、死ね!」
着物鎧の女は、虫の息というわけではない。彼女の宣言どおりに相当な反抗を試みるだろう。黒コートもそれを知っていたのか、突然標的を変えたのだ。
黒コートが指揮杖を振り上げると、着物鎧は剣を構えた。黒コートは先ほどと同じように右手に持った指揮杖で鉄骨を叩いた。
叩かれた鉄骨は、しかし着物鎧の女ではなく、僕の方に向かってきた。
「選べ、偽善者! さあ、選べっ!」
先ほどと同じように、僕を救うか、それとも自分に向かってくるかを問うたのだろう。
高らかに笑ったのは、男には最初からわかっていたのだ。彼女がどちらを選ぶか――
(……ってマジか?)
着物鎧の女は、僕の方ではなく、黒コートに向かってまっすぐに走りだした。まるで「それくらいは自分で避けろ」とでも言わんばかりに。
黒コートにとっても、これは意外だったようだ。彼は、僕を助けるために自分に背を向ける敵を討つ気でいたのだ。それが、自分に向かってくる。とんだ読み違いだ。
「甘く見てんじゃねぇッ!」
風を切る勢いで、着物鎧の女は黒コートに斬りかかった。
二人の動向を気にしている暇は、僕にはない。僕は一目散に横に飛びのいて、飛んでくる鉄骨をどうにか避けた。
閃光。
次に僕が見たのは、口の端を意地悪く曲げて微笑む黒コートと、側面から長い槍のようなもので衝かれて吹き飛ぶ着物鎧の姿だった。
「馬鹿め! 私独りなどと、誰が言ったか!」
援兵だ。何者かは知らないが、工事中のビルの奥から、槍というよりは、鞭のようにしなる長い刃物が伸びてきた。
「うぐぇ……!」
着物鎧の女は、肩のあたりを漂っていた盾で辛うじてそれを受けたものの、その場に踏みとどまれずに地面を転がっていった。
彼女はすぐさま立ち上がると、黒コートを睨めつけて言った。
「お前は殺す! 必ず殺すわ! ガモーネ!」
迸るような怒気が、あたりに充溢した。着物鎧の女は、<直剣>を構えて目を閉じた。
「ほう、使うのか? <真直の頴>を? 確かに、それ以外に方法はない。だが、そこの餓鬼も道ずれになるぞ」
「くどい、ガモーネ! アタシはもう、訊いたんだよ! 彼は自分で決める。巻き込まれたのだから!」
何て勝手なことを言うんだ。自分から巻き込んでおいて、僕に決断を強いるなんて!
逃げるか、協力するか――と、彼女は言った。
(逃げるに! 決まってるッ!)
誰が好きこのんで化物同士の戦いに首を突っ込みたくなるだろう。
二人に背を向けて逃げる間際、着物鎧の女は、確かに僕に言った。
「選んだのね。じゃあ、逃げな。大丈夫。逃げられるから。きちんと走りなよ。振り向いちゃダメ」
着物鎧の女はそれだけ言うと、<直剣>を深く構えなおした。
黒コートは飛びのいて距離をとった後、指揮杖をビルの壁につき立てた。
「我が命に従え、下賎なるものよ。<石心>に従え。心無きものよ」
僕は、その後の二人を目で追わずに一目散に走り出した。鉄骨を叩けば、鉄骨が浮くあの指揮杖。それでビルを叩くということの意味を、ほんのわずかな経験ながら僕は理解したからだ。
「畜生! 堺! 無事でいてくれ!」
そう叫ぶしかなかった。そして僕は理解したのだ。着物鎧の女が、何故斬りかからないままでいるのか。何故、僕を庇い立つように、その場を動かないのか。ほんの少し前まで、彼女は僕に危険を自ら乗り切ることを強いた。だが、今は違う。僕を生かすためにそうしているような気がする。
僕は立ち止まり、振り返った。何故か、彼女の姿を見なければいけないような気がした。
「獣のように吠え立てよ! 戦士のように衝き立てよ! 天に向かって逆立て! <真直の頴>!!」
女の持つ<直剣>が俄に黄金光を帯び、大太刀のように形を変えるのを見た時、何かがーー何かが僕の頭の中に流れ込んだ。
辺り一面の稲畑。地平線まで続くその中に、一本だけ天に向かい直立する頴があった。傍には女がいた。女は頴を刈り取ると、それを高く翳して見せた。まるで天に衝き立てるようにーー
須臾の間に、それは僕の頭の中を通り過ぎた。
瓦礫となった鉄骨の群れが、着物鎧の女に降りかかった。彼女は敵に向けていた<直剣>を横手に持ちかえると、薙いだ。瓦礫が弾け、空気が裂けた。その隙間を、着物鎧はひた走り、黒コートに突進した。僕の目が最後にとらえた彼女は、喉元まで剣先を突きつけておきながら、薄皮一枚届かずに鉄骨に激突する姿だった。
振り返らずに逃げろという忠告を無視した報いか、瓦礫は、僕の頭上にも降り注いだ。もう、僕を守る何者も、この場には存在しない。飛びのいたとしても、その先に鉄骨が落ちてくる。
『世界が全く違うものになる。変わったものは、もう戻らない。多くの人は、それを地獄と呼ぶ!』
何故か、京太と堺が話していた本の一文を思い出した。確かに、これは地獄だ。何をしても、どこに行っても助からないのだから。
世界が、ゆっくりになった。僕が鉄骨と激突する瞬間、それはゆっくりになった。
脇腹に衝撃を感じた。何かが瓦礫の間から伸びてきて、僕を衝いた。それは確かに、先ほど着物鎧に一撃を浴びせた長い鞭と同一のものだった。
強烈な眠気が僕を襲った。
「すぐに忘れなさい。いるべきではない場所に迷い込んだ時は、逃げてもいいのよ……」
誰かの声が聞こえた。
意識を取り戻した時、僕は硬いベッドの上にいた。
「アカちゃん!」
「母さん……?」
何故、母が目の前にいるのか、僕はすぐに理解した。母のすぐ傍に看護士がいたからだ。工事現場の倒壊に巻き込まれた僕は、幸運にも生き延び、病院に搬送されたといったところだろう。
「ああ、よかった! どこか怪我してない? 大丈夫? 痛いところがあったら先生に言うのよ」
過保護というかなんというか、いつまでも子放れのできない人だ。
「あの――」
そういえば、さっきから興奮してる母さんの横に――
「――って、堺!」
何故か堺がいる。
話を聞いてみるに、僕と同じく工事現場が倒壊に出くわした堺は無事で、僕が瓦礫の中で倒れているのを見つけたということらしい。
「よかったぁ、無事で……」
医師は怪我はないと言っていたらしいが、それでも目を覚ますまでは安心もできず、ついには二十一時をまわろうとするこの時間まで待っていてくれたようだ。
「大丈夫なの? 急いでたみたいだけど」
「ううん、大丈夫。それよりも他にどこか怪我してない?」
堺はどうやら、僕が追いかけたことを知らないらしい。ふと、彼女の手に土で汚れた本があるのに気付いた。僕の視線に気付いたのか、堺は申し訳なさそうに言った。
「功刀君のすぐ傍に落ちていたの。もしかして……これを届けてくれたの?」
「まあ、走れば間に合うと思ったんだけど、堺って案外歩くの速いね」
「ご、ゴメンなさい。私のせいであんな事件に巻き込んじゃって……」
謝ることはないだろう。少なくとも僕は、堺があの化物たちの戦いに巻き込まれなかっただけでも安心したのだから。
「君が謝ることはないよ。それよりも汚れちゃったね」
「汚してゴメン」と言うつもりだったが、それだと先の堺と同じことを繰り返してしまうのでやめた。
「汚れただけだもの。まだ読めるわ」
そう言って、堺は小さく笑った。あの、黒コートの邪悪な笑みに比べたら、天女の笑顔に見えても仕方がない。
僕が堺に見惚れでもしていたのだろう。母さんはいたずらっ子にも似た怪しい表情で、堺の肩に手を置いた。
「あら、そうだったの。アカちゃんも男の子になったのねー」
その「アカちゃん」というのをやめて欲しい。学校の連中に知られたら僕の人生が危うくなる。
僕の母。功刀咲子。三十六歳。細く垂れた目が印象的で、息子の僕が言うのもなんだが、相当に美人で、大学時代は学内のマドンナだったらしい。おしとやかで、滅多に怒らないが、怒ったとしてもたかが知れていて、男にとっては都合が良いのかもしれないが、母親としては逆に息子から心配されるような人だ。
頭を強く打った覚えはないが、医師が検査を強く勧めるのでそれをこなしたあと、帰路についた。時刻は二十三時を回っていた。
「こんなに遅くまで付き合ってくれなくてもよかったのに」
と、帰りのタクシーの中で僕が堺に言うと、母さんは軽く僕の頭を小突いた。
「こら、命の恩人になんてこと言うのよ!」
「おばさん。私、恩人というほどのことは……」
堺が困ったように笑った。
結構近場に住んでいるという堺をタクシーで送り届けた後、僕と母さんはようやく我が家に着いた。母さんは、抜けているように見えるが周囲に気を使う人で、堺の両親に対して懇切丁寧に感謝していた。僕もそれに加わったわけだが、今度の土日あたりに菓子折りでも持って行くのだろう。
「ただいまぁ……」
「ゴハン作るね。軽くしか作れないけどいいよね?」
「大丈夫」
へとへとになって帰宅した僕らを出迎える人はいない。リビングの電気はついているから、人はいるのだ。だというのに、出迎えはない。いつものことだが、息子が危機に瀕したときくらい、顔を出せばどうなのだろう――と思わなくもない。
アイツは、リビングのソファーでくつろぎながらテレビを見ていた。
くしゃくしゃの髪。煙草の臭いのこびりついた家着。アオカビの生えたような顎。それが男の特徴だった。
「あら、お父さん、起きてたの?」
と言ったのは、母さんの方だ。僕の口からは出ない言葉だ。
「ああ、今さっきな」
「今日は大変だったわぁ」
アイツはどうやら僕が病院に搬送された事実を知っていたらしい。知っていたのに、今まで寝そべっていたということだ。怪我を負っていないということまでは、母さんが伝えたかどうかは知らない。是非とも僕が重症を負った時の反応がみたいものだ。
「先方に失礼はなかったか?」
話を聞いた第一声がこれだ。僕の父――功刀大洋にこれ以上の説明は無意味だろう。
息子を労わらない父親に別の呼び方があれば便利なのだけど、とにかく僕はアイツに小さな復讐をしたくなった。
「父さん、ちょっといいかな?」
「何だ? 今日はもう寝てろ」
カチンとくる一言だ。この人との会話でそれ以外を求めるのには無理があるが。
「僕を助けた人さ。クラスメートなんだ。僕を助けた時に彼女の本がぐしゃぐしゃになっちゃって、新しいのを買って返したいんだ」
「それで、小遣いじゃどうにかならんから出せと?」
「まあ、そんなところ。タイトルは確か、『アウローラは笑って死ぬ』だった」
「ああ、そう。書斎にあるから明日持って行ってやれ」
「サインくらいつけてよ」
「アホか……」
全く面倒くさそうに父は言った。僕としても堺にこのことを明かす気分にはなれないから――とても友達に紹介できる父親じゃない――それはそれでよかった。
「ん? 母さん」
食卓を見やった僕は首をかしげた。茶碗も箸も三人分用意されてる。親父は食事を済ませているから、どう考えてもおかしい。
「一人分多いよー」
「あっ、ゴメン。うっかりしてたわ~」
一体何をうっかりすれば、家族を数え間違うのだろう。我が母らしいといえばそうだが。
食事を済ませて、父の書斎に入った僕は、書斎とは名ばかりの散らかった部屋の中から目的の本を発掘しなければならなかった。表紙がビリビリに破けた、これなら堺が持っている方がまだ読めると思わずにはいられない状態で見つかった時は、思わず嘆息した。
作家は自分の作品を実の娘のように慈しむものだと思ったが、実の息子に冷ややかな態度でしか接することを知らない奴だ。『アウローラは笑って死ぬ』も、随分と酷い仕打ちにあったに違いない。自分で作ったものすら大事にできない男のどこに母さんが惚れたのか不思議でならない。
こうして、堺の飛び降りに始まり、謎の着物鎧と黒コートの戦いに巻き込まれ、さらにはビルの崩落で終わる大変な一日が終わった。
やれやれ、本当に今日はとんでもない一日だった。だが、これは一日目でしかなかったのだ。僕はすぐにそれを思い知ることになった。
何故なら、僕は振り向いたのだから。脅威から逃げ去る間際に、再び脅威に目を向けたのだから。
第一話「バッド・マンデイ」了
第ニ話「堺密の秘密」へ続く