16歳(2)
メルダ河をひっそりと下り、サザラントで貨客船に乗り、エルベ湖に入ったところで船を変え、あたし達は都合3日ほどで王都ヴァッサスシュタットに到着した。
船上の旅は快適で、取り立てて命の危険を感じる問題は起きなかった。というのもメルダ様とエルベ湖の水神エルベ様のご加護を頂いた上、ヘレナさんの手回しで辺境伯家親衛隊による護衛がついていたからだ。
そのときに初めて知ったのだけど、ヘレナさんは辺境伯殿下、すなわち黒竜王カール5世陛下のご側室でいらっしゃった。名目上の辺境伯夫人でもいらっしゃる。もともとタケトを篭絡し、王家お抱えとするために派遣されたのだとも伺った。
王族というのは側室とは言え自分の妻をも陰謀の道具に使うのかと、怒りを通り越し寒気を覚えた。
だけどよくよくお話を伺うと、側室というのはほとんど名目だけとのこと。そもそも陛下と正妻であるヘカテ様が仲睦まじくていらっしゃることは、国の自慢の一つともされているほどだった。陛下とヘレナ様は戦場で何度も背中を任せあった間柄で、今の関係は男女の友情の延長のつき合いだとヘレナ様はおっしゃった。で、そんなヘレナ様と陛下の気に入ったものの間に子ができるなり養子にしたい子がいたなら、その子に辺境伯家を継がせるという。その何番目かの候補がタケトだった、というわけ。
だからって納得できるわけがない。そんなことになったらタケトは便利に使いつぶされてしまう。人の人生をなんだと思っているんだ。
気がついたらずいぶん剣呑な視線をヘレナ様に向けていたようで、タケトとメリッサが泣きそうな顔であたしを見ていた。アンディ君ですらずいぶんと及び腰になっていたのだから、どんな目になっていたのやら。でもヘレナ様は平気の平左のすまし顔。百戦錬磨ならぬ万戦練磨の辺境伯夫人だもの、そりゃそうですよね。
それはともかくそれならそれで、辺境伯家の憲兵の屯所をもっと早くに作ってくれるか、護衛を家にもよこしてくれていれば何年か前の暗殺者の襲撃は防げたのではないですかと意見したならば、そんなことを最初からしていたら目立ってしょうがない、あなたたちはもっともっと早くにさらわれるか殺されるかしていたわよと諭された。
ヴァッサスシュタットに到着し、あれこれとややこしい経路を経て、たどり着いたのは黒龍王親衛軍の演習場と隣接した研究施設。
軍が広大な演習場を持っているのはべつに不思議な事ではない。
攻撃魔法の射程距離は理論上果てしないから。
軍で訓練された魔法使いや魔女の操る攻撃魔法は目の届く範囲、すなわち地平線までならどこまでも飛ばせられる。地面に身長1アムほどの人物が地球と同じ起伏のない天体に直立した場合、地平線は4.7レン先だ。もし1アムの高さの台に立ったなら、地平線は7.9レンほど先になる。空を飛べばもっとずっと遠くまで見渡せる。
もちろん目標発見から着弾後の効果判定といった手間を考えるとそううまくは行かないけれど、理論上はそういうことだ。
「で、最近は投石機やバリスタからの射弾を魔法で加速して射程と威力を伸ばす、ということも研究しておる」
「なんで陛下がここにいらっしゃるのかわかりませんが、そうなのですね」
「余はまだるっこしい話が嫌いでな。ああ、此度は忍びだ。礼儀も忌憚も捨ててものを申せ。余のことはカールとだけ呼べ」
知らない間に現れた黒龍王カール5世陛下に、タケトとヘレナ様以外のあたし達は腰を抜かして慌てて平伏したのだった。
◆
陛下はそういう方だろうな、と予想し覚悟していたおかげで、ぼくはなんとか腰を抜かさずに済んだ。
遠慮すんなと命じられたので、ありがたくお言葉に甘えることにする。
「此度の御恩寵、誠に有難く。しかしずいぶんと手の込んだご招待を賜りました。まさか黒色火薬と鉛玉とは」
「フランキスカの連中が二月にちょっとした内戦をしたのは知っておるか」
「寡聞にして」
「あれはやつらがその内戦で使ったものよ。同じようなものの研究は10年前から行っておったが、先を越された」
僕は絶句した。
黒色火薬を使う銃は、中国、おそらくチンギス・ハーンの征服行の末裔が使ったハンドキャノンにはじまり、ドイツの使用したモーゼルM1891や日本の村田式連発銃まで長い歴史があるが、ただ火薬を筒に詰めて鉛玉を飛ばす、という代物ではない。
武人の蛮用に耐える耐久性と、何十発も何百発も撃った後に冷えても歪まない、そしてできるだけ軽い銃身、すなわち高性能な鉄の生産が必要不可欠だ。銃の歴史とは鉄の発展の歴史に他ならない。この国の鉄はともかく、他の国々の鉄はまだそこまで進んでいないはずだ。
ちょっとまて、なんだって僕はこんなことを知っている?
この世界に中国なんて国はない。ドイツなんて国はない。モーゼルなんて企業や村田少佐なる技術将校もいなければ、チンギス・ハーンという偉大な征服者もいなかったはずだ。
急にものすごい吐き気とめまい、ひどい頭痛が僕を襲った。
隣で陛下が構わずにしゃべり続ける。フランキスカの魔女協会は我が国への亡命をずっと前から始めている。秘密裏に進めさせているが、すでに200名以上の魔女が捕らえられ、オークどもの餌食になっている。鉄砲の試験生産はもうすでに開始しているが弾道が安定しないので改善したい。大砲も同様。むしろ投石器で榴弾を投げつけたほうが良いのではないか。バリスタの投射能力を上げるために魔法加速レールを増設したが、初速秒間600アムを何とかして達成したい。その前にバリスタと投石器の装填速度を上げねばならん。そうなると大砲の改良に注力したほうが成果は大きいのではないか、などなど。僕の脳髄はそれにいちいち反応して自分ですら理解しかねるほどの量の知識を吐き出そうとする。
僕は陛下の声と脳髄から湧き上がる知識の奔流に圧倒され、吐きながらその場に倒れ、意識を手放した。
◆
「こやつのようなもののことを、一部ではギフトと呼んでおる。文字通り彼らの知識は贈り物にほかならぬからな。しかし実在を知っておるものはごくごく僅かだ」
陛下は汚れるのも構わず自ずからタケトを抱え上げ、吐瀉物でタケトが窒息しないように手際よく処置された。そのまま医務室へ向かう。
医務室のベッドに寝かされたタケトは、なにかうわ言をつぶやきながらうめいていて、痛々しい。
あたしはベッドのそばに膝をついて鎮静の魔法を弱く掛けた。あまり強くかけるとかえって悪いことがある。
「ギフトどもの知識は多岐にわたるが、多くは役に立たないものばかりだ。どう考えても実現できない要素が多すぎる。だが、たまに我々の知識というか、文明の発達度でも実現可能な技術を示唆するものが現れる。タケトのようにな」
「それがタケトを召し抱えられようとした事情ですか」
メリッサが私の袖を引っ張る。今日のあたしは随分刺々しいらしい。それをいうならここ最近ずっとそうだけれど。
「うむ。だが好き勝手にやらせておいてよかったとも思っておる」
「とは?」
「汝らの研究論文は余も読んだ。あれはタケトの言葉がきっかけで始めた研究も多いのだろうが、あくまでもきっかけに過ぎぬ。汝らは創意工夫によって、ギフトのではなく、汝らの技術を開拓していった。数多の研究者どもは汝らの論文を読み、いま我々に達成できる技術を作っていった。それこそが余の求めていたものに他ならぬ」
「お褒めに預かり光栄至極。ですがあたし達を一度に召喚なすったということは、それでは済まなくなったということでしょう?」
「悔しいことにな。いや、こうなることは予想していた。フランキスカにもギフトは現れた。それどころか彼奴は陸全土を呑みこもうとしている。2月の内戦はその先触れだ。彼奴はオークどもを銃と大砲で武装させ、西の国々をすでに併呑し、2月の内戦で国を乗っ取った。近いうちにこちらへも攻め寄せるだろう。まず間違いなく1年以内に戦端は開かれる。こちらへ亡命してきたフランキスカの魔女の証言を組み合わせると、そうなる」
苦々しげな声音で陛下がお答えになられ、あたしはその時はじめて陛下のお顔を拝見した。
陛下はまるで、内臓を誰かに鷲掴みにされたかのような苦悶の表情を浮かべておいでだった。ひょっとして、陛下は今日ずっとそんな表情をされていたのではないだろうか?
「35年前の戦で我が国はオークどもに蹂躙された。そのことは汝らも覚えておろう。その再現はなんとしても避けたかった。そのためにポルトラントと同盟まで結んだというのに」
あたしもメリッサも下を向いて唇を噛んだ。35年前の戦で陛下とヘレナ様は前線に立ち、5年かけて侵攻してきたオークどもを退けた。
だけどその過程で出た犠牲のなんと大きかったことか。
その時にあたしとメリッサの片親、そのまた片親も命を失っている。あたし達はみんなそうだ。
それにあたしたちはその時何が起きたかをこの目で見ている。
エレノア母さんは私とメリッサを押入れに隠して戦って、オークに犯されながら食われて死んだ。メリッサの母親のミルダさんもだ。私とメリッサが助かったのはベローネ母さんとメリッサのもうひとりの母親ヒルダさんが駆けつけて奴らを焼き払ったからだ。
忘れようたって忘れられない。
ちがう、本当は忘れていたんだ。
タケトが来てからあの日のことを忘れることができていた。
タケトが来てからあの日のことを夢に見ることがなくなった。
なのにまたあれが繰り返されようとしている。
すべての物音が水の中で聞くみたいに不鮮明で、くぐもって聞こえる。
メリッサがどうしても戦は避けられないのかと言っている。
陛下がそれは無理だと言っている。
誰かがそれなら仕方がないと言っている。メリッサの声だ。
嘘だ。
メリッサがそんな事を言うはずがない。
だって、メリッサはあたしのこともタケトのことも大好きだもの。
あの日々を捨てたいなんてメリッサが言うはずない。
いやだ、いやだ、いやだ。
「シレーヌ?」
「いやだ!!」
誰かに肩を掴まれ、あたしはそれを振り払って叫んだ。
「タケトを、あたしのタケトをあんな目に合わせるものか!! 出て行け! みんな出て行け!」
◆
重く、じっとりとした空気に息がつまり、僕は目を覚ました。
ひどい頭痛と吐き気があり、意識が集中しない。
ここはどこだか思い出そうとして、少なくとも札幌市東区のオンボロアパートではないことに思い至った。
部屋の中は真っ暗で、入り口らしき開口部から光が入ってきている。
そこは透明な壁で塞がれ、その向こうには何人かがたむろしていた。
赤い髪の小さなシルエットが、透明な壁を叩きながら喚いているが、音は全く聞こえない。
そして僕の腹の上に誰かが突っ伏し、ぶつぶつ何かつぶやいていた。
「……かあさん?」
朦朧とした意識で呼びかけると、ぶつぶつ声はピタリと止まった。声の主は僕の魔法のお師匠さま、魔女シレーヌだった。顔も思いだせない母親ではない。
彼女の目の焦点はどこか遠いところに結ばれていて、ぼくの背中に冷や汗が流れた。
お師匠さまは少なくとも表面上は落ち着いていたので、何があったのかを聞いてみた。
彼女はそれに淡々と答えてくれて、ぼくはこの国にに何が起ころうとしているのかをすっかり理解した。
ぼくの知っている歴史の中で近似的な出来事は、ナポレオン・ボナパルトによる東方進出、欧州大陸制覇だろう。民族浄化も伴うから、あるいはナチス・ドイツか宗教原理主義の皮をかぶったテロ国家か。どっちも似たようなものだ。
敵対勢力のギフト自らが大陸制覇に乗り出したということは、相手はそれなり以上の野心家であるということだ。あるいは本当にナポレオンその人なのかもしれない。いや、ここ数十年はおとなしくしていたオークたちの征服欲を大いに刺激したその手腕からして、ひょっとしたらあのちょび髭の伍長殿かもしれない。まさかなんとかいう宗教指導者ということはないだろう。
けれどそれもどうだっていい。
問題はどうやって敵の進行を食い止め、あるいは被害を局限するかだ。僕が求められている役割はそのための知恵出しだ。
けれどもっと大事な問題が目の前にある。
「ねぇ、タケト。一緒に逃げよう? 戦争なんて、あたし、いやだよ。ここにいたら巻き込まれちゃう。だから、ねぇ、逃げよう?」
お師匠さまは焦点のぼやけた目で僕に抱きつき、その豊満な肢体を絡ませながら蠱惑的に僕にささやく。
「あたしとタケトならどこへ行っても大丈夫だよ、きっと立派にやっていけるよ。だから、ねぇ」
それはあまりにも甘美な誘惑だった。
誰もぼくたちのことを知らない土地で、オークどもの恐怖から隔絶された土地で、誰にも邪魔されず二人だけでひっそりと暮らしていく。
けれどそれは。
「──だめです。ダメですよお師匠様。きっとどこにも逃げ場なんて」
「ダメじゃないよ? よその大陸にまで逃げちゃえば」
「メリッサさんたちと一緒に暮らしたあの日々を捨てるっていうんですか」
僕はそれは嫌だった。
ヘレナさんの言う通り、日々は常に変化していく。僕たちの関係性も変わろうとしている。
だけど、みんなを切り捨ててまでなんて。
「……タケトはあたしが大事じゃないの?」
「大事です! とても大事なお師匠様ですよ! あなたは僕をここまで育ててくれた。僕に教育を与えてくれた。僕はあなたに返しきれない恩義がある。でも、みんなだって大事なんだ。みんなを見捨てて逃げ出すなんて。お師匠様だってメリッサさんのことが好きじゃないですか」
「メリッサはもうメリッサじゃないよ。タケトの知恵を王様に差し出そうとするメリッサなんて」
「お師匠様、僕は、みんなを守りたい」
「もういい。もう良いんだよ、タケト。君がそういうのはわかってた。だったら──」
お師匠様の目が急に焦点を結んだ。その瞬間、部屋の調度品に火がついた。
魔法でお師匠様が火を放ったのだ。
かなりの速度で煙が部屋の中に充満していく。
部屋の開口部から煙が──出ていかない!
「お師匠様?! 何をしたんです!」
「空間断絶結界。空気を液体化する実験のために作った、透明な気密容器を作る魔法だよ。既存のいかなる武器や魔法も、この結界を打ち破ることはできない」
煙が部屋に満ちるとともに、酸素が急速に失われていく。
頭痛がひどくなり意識が遠のく。
「タケトは誰にも渡さない。あたしはタケトがいなきゃ何にもできない。いまのあたしはタケトがいたからこそなんだよ。だから誰にも渡さない。さぁ、一緒に眠ろう、タケト」
ひどく穏やかな表情でお師匠様はそういうと、彼女はそっと僕に口づけをしてくれた。
とても優しく、甘いキス。
でもこのままでは彼女も僕も死んでしまう。
絶対にダメだ。
とりわけ彼女が死ぬことだけは。
僕はそれを死んでも許さない。
僕はこぶしを握るしかなかった。
◆
次に目を覚ますと部屋は変わっていて、メリッサが私の手を握ったまま眠りこんでいた。
見回すとタケトはいなかった。
あたしが目を覚ましたことに気がついたアンディくんが語るところによれば、あれから起こったことはおおむね次のとおりだった。
タケトはあたしのみぞおちを殴って気絶させた。術者の意識がなくなれば結界は消え失せる。
医務室の火事は結界が開け放たれ酸素が補給されたことによって爆発的延焼が起きそうになったけれど、それはタケトとメリッサが大量の水を召還してぶちまけたことで押さえられた。
ひと眠りして落ち着いたタケトは黒龍王様とヘレナさまに謝罪し、自分の身柄と引き換えにあたしを不問にするように訴え、それは受け入れられた。
タケトはアンディくんとメリッサにあたしの世話を頼むと、黒龍王様や王立軍付の錬金術師たちと一緒にどこかに行ってしまった。
それから4日ほどであたしたちは解放された。
解放されたとはいっても軟禁状態から解放されたというだけ。実際は3人そろって招集され、王立魔法軍に編入。あたしとメリッサは研究部門に、アンディ君はその護衛ということになった。
家に戻ることはできないのかとまだ付き添ってくださっていたヘレナ様に問うと、あたしたちの家はフランキスカの密偵たちによって焼かれてしまった、とのことだった。あたしが気を失ったタケトにつき添っていた時のことだそうだ。
それを聞いたときのあたしの心は何も感じていなくて、自分でも妙だと思った。
でもそれよりも、タケトがあたしのもとを去ってしまったさみしさのほうが、ずっとずっと、大事なことのように思われた。