世良彩人と柊ノ木美麗衣
――キャンバスに描かれた、一枚の絵がある。
もちろん、ただの絵ではない。
『女神の水浴び』――"作者"によってそう名付けられたそれは、俗に『裸婦画』と呼ばれる代物だ。
キャンバスの上で広がる世界には、無防備にもこちらに背を晒し、シャワーを浴びる少女の姿。
年齢は高校生くらいだろうか?
腰元まで届きそうな程に伸びた黒髪が特徴的で、湯気の向こうには、大人びた雰囲気とは裏腹にどこかあどけなさを残した横顔が窺える。
また、身に纏った泡やほんのり桜色に染まった肌、水滴る髪の様子は非常に艶かしく、それでいて何とも言えぬ奥ゆかしさを醸し出していた。
それらはきっと、もはや写真と言っても通用するほどの写実性や、濃淡・陰影を完璧に生かしきった繊細かつ絶妙なタッチなど、元来"作者"の持つ類い稀なる画力と、極限まで磨かれた技術があってこそ得られた成果なのだろう。
その凄まじい完成度から、専門家たちからも高い評価を受けることはまず間違いない。
けれど、そんな評価にさえも、"作者"は決して納得しないのだろう。
理由はたった一つ。
『女神の水浴び』が、"不完全"であるからだ。
もちろん、今のままでも充分に素晴らしく、一つの作品としてしっかりと完結されている。
しかし、そうではないのだ。
"作者"――もとい"彼"に言わせれば、今の『女神の水浴び』には明らかに不足しているのものがある。
それは――――。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
「――と、言うわけでおっぱい見せてくれ。 美麗衣」
四月中旬――未だひんやりとした冬の冷気が残る朝。
『カスミ荘』のリビングには、そんなことを宣う彩人の声が静かに響き渡った。
「…いや、どういうわけですか」
あまりに唐突すぎる彩人のセクハラ発言に、対面キッチンに立つ美麗衣は呆れ顔で突っ込む。
猫柄の可愛らしいエプロンを身に纏った彼女は、朝食作りの真っ最中だ。
手元には卵パックが置かれており、使用中の調理鍋からは、味噌汁の芳香がリビング中へと放たれていた。
「どうもこうも、 "これ"にはお前のおっぱいが必要なんだ!」
バンッ!
真剣な表情でとんでもないことを口走りながら、彩人は右手に持っていたキャンバスを美麗衣の眼前に掲げる。
――『女神の水浴び』だ。
美麗衣の視界には、無防備にもこちらに背を晒し、シャワーを浴びる少女の姿が映り込む。
「―――――」
時間にして二、三秒。
少女――『女神』との邂逅を果たした美麗衣は、しばらく無言で彼女を見つめた後、徐に右手を動かして――
突如、包丁を振り上げた。
「うおおおおおっ!?!?!?」
「きゃっ!? な、なんですか急に」
彩人の大絶叫に、美麗衣は思わず体をビクつかせる。
「『なんですか』…っじゃねーよ! お前いまその包丁をどうするつもりだった!?」
キャンバスを両手でギュッと抱きしめ、必死の形相で問う彩人。
そんな彼に対し、美麗衣はきょとんと可愛く首を傾げて、
「…? その駄作にぶっ刺すつもりでしたけど?」
「怖ぇーよッ!! ナチュラルサイコかお前は!?」
「なっ……ち、違います!! …というか、どうせ駄作なんですからいいじゃないですかっ!!」
「全っ然良くねぇんだよ! つーかさっきから人が一生懸命描いたものを駄作呼ばわりしてんじゃねえ!」
「うるさい! だいたい、"彩人兄さん"はいつも――――」
「はぁ!? それを言ったらお前だって――――」
売り言葉に買い言葉。
我を忘れた彼らは、近所への迷惑も一切省みることなく、互いに怒声を浴びせ始めた。
彩人――世良彩人は画家である。
年齢は今年で十七歳。高校二年生。
同年代の他の男子と比べるとやや小柄ではあるが、端正かつ爽やかな顔立ちの好青年で、外ハネ気味の癖っ毛とちょこんと生えたアホ毛が特徴。
画家としての実力も素晴らしく、昨年は日本で開催されたコンクール全てにおいて最優秀賞を獲得してみせたほど。
また、それがきっかけで仕事として絵を描くことが増えてきており、コンクールの賞金も相俟って高校生ながらかなりの収入を得ている。
一方の柊ノ木美麗衣は、腰まで届きそうなほどの長い黒髪と、花を象った髪飾りが特徴的な美少女だ。
年齢、学年ともに彩人の一つ下。
彩人同様、非常に整った容貌をしており、柔らかく大きな瞳は人当たりの良さそうな印象を与える。
女性としては背も高いほうで、スリーサイズは上から順に83,56,80とモデル並み。
『彩人兄さん』――彩人のことをそう呼んでいる通り、柊ノ木美麗衣は世良彩人の実の妹である。
苗字が違うのは、幼い頃の両親の離婚が原因。
つい最近までは離れて暮らしていたのだが、春休みに再会を果たして以降、"ワケ"あって二人暮らしをしている。
――それぞれ"問題"を抱えながら。
「はぁ…はぁ……さ、さあ! 早くその駄作をこっちに寄越してください!」
息を切らしながらも、美麗衣は力強く告げる。
その瞳の奥では、未だ怒りの炎が轟々と唸りを上げていた。
「…く、くそ……まだ言うか…。 お前は一体、『女神の水浴び』のどこが気に入ってないんだ……?」
「存在そのものです!!」
「………ごめん、お兄ちゃん今のは流石に傷ついたわ」
彩人がどこか凹んだ様子で告げると、
「知りませんよ! そんなものを描く彩人兄さんの方がどうかしてるんです!」
「そんなものって………俺はただ、"お前"のシャワー姿を……」
「いや、どう考えてもおかしいでしょう!? 実妹のシャワー姿を絵にするなんて!!」
繰り返しになってしまうが、世良彩人は画家である。
そしてそんな彼が最も得意とするのが、裸婦画――つまり裸の女性を描いた作品だ。
裸婦画は一種の肖像画であるため、その制作にはモデルが必要とされる。
よって今回(に限った話では無いが)、彩人は『女神の水浴び』のモデルを美麗衣にやってもらった。
…もっとも、「やってもらった」という言い方にはあらゆる意味で語弊があるのだけれど。
「……"また"、覗いたんですね?…(ニコッ)」
怒りを孕んだ硬い声色で訊ね、美麗衣がどこか影のある笑顔を浮かべる。
「――ッ!?」
それを目にした途端、かつて感じたことがないほどの悪寒が彩人の全身を襲った。
――や、やべぇ…
ゴクリ、と堪らず息を呑む彩人。
虹彩の失せた瞳から迸る凄まじいまでの殺気に圧倒され、うまく言葉が出てこない。
しかし、このまま黙っていても状況は悪化していくだけ――。
「………よしっ」
脳内におけるさまざまな葛藤の末、ようやく腹を括った彩人は、次の瞬間、大きく息を吸い込んでこう告げた。
「の、覗いてなんかないんだからね!(裏声)」
「……………」
「…み、美麗衣さん……?」
「……………」
「…あ、あの……なんで"包丁を振りかぶって"――」
シュッ
そんな子気味の良い音と共に、美麗衣の右手から勢いよく包丁が放たれる。
「うおおおおおっ!?!?!?」
畏怖と驚嘆が入り混じった叫び声を上げながらも、彩人はなんとかそれを躱すことに成功した。
「お、おま……殺す気か!」
「…っ!? 生きてる!?」
「マジで殺る気だったんすか!?」
「……何か問題が?」
「大アリだよ! このナチュラルサイコがっ!」
「むっ……妹のシャワー姿を覗くようなヘンタイに言われたくないです!」
「だから覗いてねえって言ってんだろ! こちとら前回半殺しにされたのがトラウマになってんだよ!」
「……だったら、一体どうやってあそこまでの作品を描き上げたって言うんです?」
「妄想」
「スゴいですねっ!?」
彩人の衝撃的すぎる一言に、美麗衣は自分が怒っていたことも忘れて賞賛の声を上げた。
愕然とした様子で「嘘だ…」と繰り返す彼女を見て彩人は得意げに鼻を鳴らし、「うんうん」と感慨深そうに腕組みをする。
「我ながら、なかなか良い絵が描けたと思ってるよ。 ここ二週間、寝る間も惜しんで全裸のお前を妄想してた甲斐があっt」
「――このヘンタイ!! そんなくだらないことに二週間も費やさないでください!!」
「く、くくくくくだらないだとッ!? ――この愚か者ッ!! じっくり時間を掛けて隅から隅まで妄想してやらないと美麗衣のカラダに失礼だろうが!」
「いや、さっきから失礼被ってる私がなんで怒られてるんですか!?」
「あぁ!? "お前"が"女神"を侮辱するようなこと言ったからに……あれ? 何言ってんだ俺?」
「…本当ですよ……」
疲れた表情で呟き、こめかみを押さえる美麗衣。
彩人は若干顔を赤らめ、しかし気を取り直すように咳払いをして、
「と、とにかくだな……美麗衣、俺はお前のおっぱいが見たい」
「清々しいくらい最低ですね」
「願わくばマ◯コも見たい!」
「◯ねばいいのに……」
「フッ…いくらでも言うがいいさ。 俺は"もう一度"お前の裸を見るまでこの世を去る気はない」
なぜかドヤ顔で言う彩人に、
「………彩人兄さんは、どうしてそんなに私に拘るんですか?」
美麗衣はふと、伏し目がちに訊ねた。
自分なんか――どこかそんなニュアンスを含んだそれは、決して初めて抱いた疑念ではない。
美麗衣は知っている。
周りからどんな評価を受けていようと、自分は"あの人たち"には到底敵わない、ちっぽけな存在であることを。
美麗衣は知っている。
彩人が"あの人たち"のことを、一体どれほど大切に思っているのかを。
――それなのに、どうして?
心の中で問い、美麗衣は泣いてしまいそうなほどに弱々しい視線を彩人へと向ける。
…が、複雑な美麗衣の心境とは裏腹に、彩人の答えは至って単純なものだった。
「好きだからだよ」
「……え?」
「だから、好きなんだ。 お前の…その……」
「--っ!」
彩人の表情に、美麗衣は瞳を大きくして驚いた。
ほんのり赤く染まった頬に、合わない視線。
そのいつもとは明らかに違った様子が示す、彼の言葉の意味はつまり――――。
「本当……なんですか?」
「…おう」
「――! で、でも…」
「『私たちは兄妹なんですよ?』…ってか?」
「……………」
「…まあ、お前の言いたいことは分かるよ。 兄妹でこんなの、絶対に普通じゃない」
「だったら……」
「――けど、やっぱ諦めるとか嫌なんだ。 俺はもう二度と、自分の『好き』に嘘は吐きたくないから」
それを告げる彩人の瞳は、まるで"何かを思い出す"ように切なげで…悔しげで、ギュッと美麗衣の胸を締めつけた。
いったい何が彼にそんな顔をさせるのか、美麗衣には分からない。
けれど、その二つの感情はよく知っていた。
彩人はきっと、自分と同じなのだ。
悩んでいて…苦しんでいて…しかしそれでも、前に進もうとしているのだ。
――そんな人の願いを断ることなんて、美麗衣には出来なかった。
「そ、そこまで言うなら…その……分かりました」
「――っ!? それってつまり……」
「いいって、ことです……」
「マジでっ!?」
「っ! い、いきなり大声を出さないでください」
「あ…わ、悪い。 …でも、本当にいいのか?」
「…私だって、自分の『好き』に嘘は吐きたくないんです」
俯きながら答え、美麗衣は震える手でスカートの裾をギュッと握り締める。
頬は熱く、ドクドクと脈打つ心臓の音がやけにうるさい。
――とうとう言ってしまった…。
本当は言うつもりなんてなかったのに。
意志薄弱な自分に呆れてしまう。
…でも、不思議と後悔だけはしていなかった。
「美麗、衣……まさか、お前も…」
静まり返ったリビングには、彩人の唖然とした声だけが響く。
――そうだよ、お兄ちゃん。 私はずっと…ずっと前から…
「――全裸が好きだったのか!?」
「………は?」
「はは、そうかそうか。じゃあ早速、今日から脱いでもらうからな! 覚悟しとけよ?」
「いや、あの……」
「ん? 場所の心配か? 安心しろ! 学校の個室でもいいし、世良の家でもいい。なんなら、ホテルのスイートルームだって用意してやる!」
「――だからっ! そうじゃなくてっ!!」
「うん?」
「…どうして私が全裸好きで、しかも脱ぐことになってるんですか?」
「え? でも……"いい"んだろ?」
「だ、だからそれは、彩人兄さんが―――!」
そこまで言いかけると、不意に一つの不安が美麗衣の頭を過った。
自分は何か、大きな勘違いをしていたのではないか――と。
美麗衣は小さく息を呑み、若干顔を引きつらせながら、
「も、もしかして彩人兄さんがさっき言ってた好きっていうのは…」
「…? もちろん美麗衣の裸のことだが?」
「――――ッ!!!!」
途端に、美麗衣の顔面が、ボンっと音がなりそうなほど見事に茹で上がる。
「――◯ねッ!! ◯ね◯ね◯ね◯ね◯ねッ!!」
「うわっ…ちょ…痛っ…モノを投げんじゃ…」
「うるさい!! 彩人兄さんのバカッ――!!」
「…っ!? ぎゃ、ギャアァァァッ!!!!!」
――グチョッ
「グチョ……?」
突如として部屋に響いた生々しい音に首を傾げ、彩人は閉じていた瞳を開ける。
「―――――」
一番最初に目に入ったのは、前方に真っ直ぐ伸ばされた右腕。
あの絶叫の中で、咄嗟に伸ばしてしまったのだろう。
ゆっくりと視線を正面へ移すと、そこにはかの武蔵坊弁慶を彷彿とさせる勇ましい雰囲気を漂わせ、自身を庇うキャンバスの威風堂々たる姿が……ん? キャンバス?
「――ッ!?!?!?」
その刹那、彩人の顔面からおよそ血色と呼べるものは消え去った。
「み、みみみみ女神ィィィィィッ!?!?!?!?」
顔を真っ青にして、キャンバスの中の少女へと慟哭を放つ彩人。
しかしそんな彼の叫びも虚しく、すっかり"卵まみれ"になってしまった『女神の水浴び』は、完成初日にしてお蔵入り作品と化してしまうのだった――。