4話
この大陸で人の住める場所は限られている。
険しい山脈、切り立った崖が連なる渓谷。
雄大な自然を前に、往々にして人は無力だが、それだけならば特筆するほどの事では無いだろう。過酷な環境にあってもなお人が生き抜き、文明すら築いてきた事実は歴史を紐解くまでもなく明らかだ。
しかし、『自然』という一言で片付けられない不条理な要素が存在する事を、エージは前世の記憶を取り戻すと同時に知った。
『魔素』である。
魔素自体がどうというわけではない。肺を焼く異物でも皮膚を溶かす毒でもない。
吸い込んだところで害も無く、濃過ぎる魔素を取り込んだとしてもせいぜいが酩酊状態になる程度。
この魔素を抽出する事で発展してきた魔導文明の恩恵を考えれば、魔素を神の吐息と例える狂信集団の教義も言い得て妙な気さえしてくる。
そう、魔素自体に問題は無い。問題があるとすれば、人類を脅かす強大な魔物達が総じて魔素を好むという事だ。
魔素が濃い地域には魔物が巣食う。濃度が増し魔物が魔物を呼ぶ連鎖の果て、更に強大な魔物が我が物顔で闊歩し、生態系を形成するようになれば、もうそこは立派な人外魔境だ。
そうして手に負えなくなった地帯、人が住むことのできない死の領域を人は『魔境』と呼び、魔境を避けるようにして、かつての人々はいくつもの国を築いた。
肥沃であること。資源が豊富である事。そして、魔素の薄い地域であること。
多種多様な種族が蠢くこの大陸の歴史は、限りある土地を奪い合う血みどろの歴史。
そんなろくでもない時代、当たり前のように傭兵家業は人手不足だ
「という事だ。他に質問は?」
「私を家に帰しなさいよッ! この誘拐犯ッ!!」
想像通りの展開に、エージはガックリと肩を落とした。
宿営地となった廃村には、辛うじて雨露を凌げる廃屋がいくつもある。ここはそんな廃屋の内の一つだった。
捲れ上がった床板と、朽ちかけたテーブルの上には盛大に埃がつもり、歩くたびに冗談みたいに舞い上がる。淡く揺らめく魔導灯の明かりで浮かび上がる埃を見ていると、呼吸する事に不安を覚えるほどだ。
精一杯凄んで見せる少女を特に拘束したりはしていない。
しかし彼女の漆黒の瞳に力は無く、怯えと困惑が浮かんでいる。気丈に振舞っているようにも見えるが、混乱でどうしていいかわからないのだろう。
きちんと手入れしているであろう細く艶やかな黒髪は今や埃まみれで酷い有様だ。
「念のためにもう一度言うが、俺は誘拐犯じゃねえ。いるかどうかわからん神に誓ったっていい」
「ウソよ! だって私気付いたらこんなところにいたのよ! 変な薬を嗅がせて連れてきたに違いないわッ! それにアンタ、見るからに怪しい恰好してるじゃない!!」
そう言われて自身の姿を確認してみる。
軽甲のブーツに脚絆、関節部をガードするプロテクターも軽甲で、まがりなりにも操縦者として、上半身はシャツの上から最低限の帷子を着ているだけ。
左わき腹に装着したホルスターには、投擲用ナイフが4本と、緊急搭乗を想定して、腰の下げ物は小剣1本である。
いかにも軽装の戦士といった出で立ちで、操縦士としてはごくごく普通の格好だ。
俺が手を広げて首を傾げると、少女のこめかみに青筋が浮かぶ
「ナイフ! そんなにたくさん刃物持ち歩くなんて不審者よ! そんな恰好で歩いてたら逮捕されるんだからッ!」
「ああ、これか」
エージがホルスターに収めたナイフの一本を無造作に引き抜くと、丹念に磨かれた銀の刃が淡い暖色の灯りを受けヌラリと光った。少女がヒィッと息を呑んで後退る。
脅すつもりなどなくとも、刃物などカッターと包丁しか見たことが無いであろう少女にとって、実際に血を吸った事のあるナイフは刺激が強過ぎるのかもしれない。
平和な国でぬくぬくと育った少女が、気付けば見知らぬ土地。
死体の海を呆然と眺めていたら馬鹿デカい鉄人形に捕まって廃屋に軟禁された挙句、見知らぬ男が光物をチラつかせている現状。
考えてみればお漏らししないだけ大したものだ。
「こ、殺すの……!?」
「殺さねえよ」
しかし、とエージは溜息を吐いた。厄介事はいつだって突然やってくる。
そして曲がりなりにも、情け容赦ないこの世界で生き延びてきた経験上、関わらないのが長生きする秘訣であることを知っている。長生きしたいと思ってないが、むやみに死にたいとも思わない。
目の前の不運な少女がたとえ同郷の者だとしても、関わるべきではないのだ。
「いいか、よく聞け。俺は俺たちの仕事場にノコノコとやってきたガキンチョをとっ捕まえただけだし、扱いに困ったから売っ払おうか迷ってるだけだ」
気を失った少女を連れ帰り、引き取ると宣言してしまった事を後悔している。
こうして考えてみても、なぜそんな事をしてしまったのかわからない。自分の身元を明かさないのが精いっぱいの現実逃避だ。
同情があった。
ロクでもない連中に捕まり、ロクでもない連中に売られ、ロクでもない人生を送るであろう少女を一瞬憐れんだ。
刺すような夕日を受けた横顔を、10数年前の自分と重ねてしまった。
無責任に、思わず手を差し伸べてしまった。
だから今、こんなややこしい事になっている。
「そ、そんな事、警察が許すはずが―――」
「ここに警察はいない」
まだ現状を理解すら出来ないであろう少女に無慈悲に告げる。
残酷だとは思うが仕方のない事だ。日本の常識など害にしかならない事を痛いほど知っている。日本に戻る方法はわからない。ならば彼女も今のうちに認識を改めておいた方がいい。
言葉を失う少女にエージは淡々と告げた。
「お友達も、先生も、父ちゃんも、母ちゃんも、誰も、誰一人もいない」
「う、ウソよ…… 信じないわっ! そんな――ッ」
「お前は見ただろう、あの光景を。死体の山を」
「だって…… だってッ!」
少女のあどけない顔がくしゃりと歪む。
アーモンド型の瞳が波打ち、口をへの字に唇を噛みしめる。気の強さを示す一本眉は今や、無残なほど垂れ下がっていた。
脇に置かれた水色のランドセル。ひょっこり顔を出したリコーダーと、肩紐にぶら下げられた交通祈願のお守りに胸が詰まりそうになる。
「い、嫌……だよ…… お、お母ざん…… 」
口では否定しても、目に焼き付いた光景が離れることは無い。
不幸な事に、少女は聡明だった。
日本では起きるはずの無い惨劇を目の当たりに、考える事を放棄しない強さがあった。
エージの宣告は呼び水でしかない。本当は彼女は自分の身に起きた異常事態を理解し始めていた。感情の決壊は時間の問題だった。
だからこそ、エージはあえて感情の籠らない声で言ったのだ。
「お前は、独りだ」
夜風がまだ肌寒い春の終わり。
時間は巻き戻せない。目の前にあるのはただただ無慈悲な現実。
「うあああぁぁ~~っ」
深く激しい慟哭が、蒼黒く染まる夜空に儚く消えた。