19話
「ところでエージ、小鹿ちゃんの様子はどうなんだ?」
反射的に小さく舌打ちする。話を逸らすために面倒くさいネタを。
触れられて困る話ではないが、好んでしたい話でもない。
だんまりを決め込みたかったが、女三人の視線がキツかった。
ルールーは興味に目を輝かせ、エメラダが探るようにエージを見る。ライラは顔こそ微笑んでいるものの、路地に引っ掛けられたのゲロを見る様な目をしている。
エージはエールを一気に飲み干すと、乱暴に口元を拭った。
「どうもこうもねえ。ずっと不機嫌そうにベッドで丸くなってる。事あるごとに野良犬みたいにキャンキャン吠えて、俺が寝ようとベッドに入ったら蹴り出すんだ、俺は犬ころみたいに冷たい床で寝てるよ。体中が痛い上に寝不足だ」
「変態め」
「鬼畜ですぅ」
「病気だな」
「張っ倒すぞ馬鹿ども」
疲れた中年オヤジのようにエージは力無く項垂れる。
「……死ねばいいのに」
「お前だけ反応がおかしいぞライラ」
その時、カウンター付近のテーブルから派手な物音が鳴る。テーブルが倒れ、料理が床にぶちまけられ、食器が砕ける音だ。
喧嘩かなとそちらに目を向けると、何やらガタイの良い店員が、みすぼらしい恰好の男の襟首を掴んでいた。
「金が無ぇだと!? ふざけやがって!」
「か、堪忍してくれ…… 腹が減って死にそうだった―――お、おい! 客に乱暴するな!」
「金が無ぇお客様は仕事をしてねえお客様だ! 仕事をしてねえお客様には最新のお薬を飲んで2週間クソして寝るだけの簡単なお仕事をご紹介します! なに、3人に1人くらいは無事に帰ってくるし、その内半分は頭がイっちまってるが大した問題じゃない。神の思し召しに違いないからな」
ガタイの良い店員が喚く客を片手で引き摺って外に出る。
―――俺は悪くない。世の中が悪い。どいつもこいつも俺を馬鹿にしやがって。くたばっちまえ。
悲鳴にも似た訴えは次第に遠くなり、やがて消えた。
その頃には店内は何事も無かったかのような喧噪を取り戻していて、手早く片付けられたそのテーブルには、次の客が当たり前のように座って注文をしていた。
先ほどの騒ぎなど誰も気にしていないし、話題にも上がらない。気まずいからではなく、話題にもならないというだけの話。
それはエージとテーブルを囲む仲間たちも同様だった。
最近、随分と昔に捨てたはずの感情が時折顔を出す。あのガキと出会ってからだ。
ソーセージを手で摘まみ、前歯でブツンと噛み千切る。口内に溢れるクセの強い脂と肉汁を冷えたエールで洗い流す。
苦味だけが口の中にやけに残った。
これが現実だ。21年間、元の世界の価値観など通用したことが無い。
それを思い知らせるためにあえて少女を任務に連れて行ったのだ。
間違った事はしていない―――はずだった。
「あのガキは完全にヘソを曲げちまった。難民を見捨てた俺たちを怒ってんのさ。親の仇みたいな目で俺を見る。口もきいてねえよ」
「拗ねてんのか?」
「違ぇよ。正直、もう売っぱらっちまおうかと思ってるんだ。最近は特にどいつもこいつも俺を変な目で見やがるし、ろくでもない噂話には辟易してる。いい頃合いなのかもな」
ふと窓に映る自身の姿に目が留まる。灰色の髪、灰色の瞳、そこに日本人らしき特徴は一つも無い。
前世が日本人だとしても、どっぷりこの世界の価値観に浸かってきた。
流行ったテレビ番組の名も、ハマっていたネット小説のタイトルも、毎日啜った味噌汁の味さえ思い出せないというのに。
早く孫を見せろと煩かった母親、酒を飲んではクダを巻く父親、早く忘れたい事ばかりが忘れられない。
「まあいい、この話は終わりだ。湿気た話題で飲む酒は背筋が震えるほど不味いからな」
「相棒、良くないぜ? 良くない目をしてる。豆のスープを出されたベルトランと同じ目だ。どうやったら飯場長に見つからないよう逃げれるかばかりを考えてる」
「スヴェン、聞こえなかったのか?」
一口、エールを口に含み、目だけで視線をスヴェンに向ける。
ピリッとした空気だ。
「もう一度言う。話は終わりだ。俺はまずい酒を飲みたくない」
イライラしていた。
自発的に団の炊事場に飛び込んだ少女の、汗まみれな笑顔に、
必ず元の世界に帰ると断言した少女の、澄み切った瞳に
寝静まった後、家族に会いたいと、密かに溢した少女の涙に
イライラしていた。目を逸らし、少女に聞こえないよう舌打ちをした。
あまりにも違い過ぎる二人が交わるはずがなかった。最初からわかっていたはずだった。
「不味い酒も良い事はある。どうしても美味い酒は飲み過ぎちまうからな。いざという時に勃たなくなるし、酷いときは記憶が飛んじまうんだ。そして朝起きて腕枕してる人妻に聞くのさ『あなたは誰ですか?』ってな。それはとても失礼な事だ」
「いい加減にしろよスヴェン。傭兵のルールを忘れるほど酒で脳がやられちまったか? 他人の事情に『我関せず』、だ。そのルールのおかげで俺たちは背中を気にせず戦える」
例えば、エメラダの限りなく桃色に近い金髪がそうだ。
それがとある亡国の高貴な血筋の象徴である事を知っていても口にする愚か者はいないし、通常より3回りも大きい彼女専用の重砲撃型アーマーの出所を探るアホだっていない。
知りたがりは早死にすると相場が決まっている。
「スヴェン、俺はまだあのガキの名前すら知らないし、これからも知ることはないだろう。奴隷落ちするガキの事なんて知ってもしょうがないからだ。簡単な話さ。ガキは素晴らしい変態野郎に可愛がられ、俺は売った金で酒と女を買う。痺れるほどケツのデカい女と喉が焼けるほど上等な酒だ」
エメラダが、もちゃもちゃと肉を食いながら、むっと何か言いたそうにエージを見る。
そしてライラは険悪な空気を気にした様子も無く、嬉々としてエメラダの世話を焼いていた。
スヴェンがグイっとテーブルに身を乗り出して不敵な笑みを浮かべる。
「とても良いアイディアだ。可愛い可愛いベイビィちゃんは子犬みたいにお前に懐いてる。なに、ドレスに染みを作らないようスバゲティを食う事より簡単な事さ。首輪を嵌めるも檻に招き入れるもお前次第。おめでとうエージ。これで晴れて自由の身だ。ろくでなしの人生に幸あらんことを」
「はわわわわッ」
ルールーがオロオロしながらも止めに入ろうか逡巡している。
2割は仲間を想うゆえに、そして残りの8割はこの店の支払いを心配するあまりだ。
「何が言いたいんだ?」
低い声で唸るようにエージは言う。
額に額が触れるほど身を乗り出した。スウッと目を細めて右の口端だけを持ち上げる。
大の男2人が至近距離で睨み合っている。主義主張は関係なく、売られた喧嘩は買うものだ。
日本と違って忍耐は美徳ではないし、最終的に腕力がものを言う。
傭兵は一度舐められたら終わりな事を、誰もが深く理解している。
一触即発の空気だ。どちらかがジョッキを机に叩きつけて立ち上がれば、そのまま乱闘は開始される。
しかし、意外な事にスヴェンがスッと顔をひいて、そのまま背凭れに体を預けた。エージの顔に少しの困惑が広がる。
「エージ、俺はお前を心配してる。これは本心だ。こいつら女衆含めたヴァイヲン小隊の総意でもある。団長なんかは特に酷い。息子がインポ野郎になっちまったと涙すら流していたよ」
「心配だと? 心配されるような事は無い」
スヴェンが溜息をついてギロリとエージを睨む。
エメラダは正面から、ライラは横目で、ルールーは上目遣いで。
いつの間にか、テーブルの全員が口を噤んでエージを見ていた。
口さえ挟まないものの、何か言いたいことを腹に溜めている。
「鏡を見てみろよ相棒。最近のお前は世界がまるで笑顔と幸福で出来ていると信じ切った顔をしてる。戦場でポックリくたばっちまう奴の特徴だ」
お前は何を言ってるんだと鼻で笑おうとして頬が引き攣っていることに気付く。喉からは乾いた笑いしか出てこない。
やっとのことで絞り出した反論は、自分で聞いていても言い訳じみたものだった。
「そ、そんな事は無い。ちゃんと仕事はこなしてるはずだ」
「なあエージ―――」
たっぷりと数秒の沈黙。
スヴェンがゆったりと足を組み替え、エメラダがコトリと食器を置いた。
低く、厳しい声がエージにぶつけられる。
「エージ、お前あの乳臭い魔導士を殺さなかったのか、それとも殺せなかったのか、どっちだ」
「――ッ」
数瞬、視線を彷徨わせて手元のエールを見下ろす。
前世で口にしていた上品で洗練されたビールとは違い、それは薄茶色に濁っていて、口に含むと雑味と酸味とえぐみが鼻に来る。
しかし、呑めば確実に翌日に残りそうな気の抜けた粗悪なそのエールが、エージは好きだった。
最初から好きだったわけではなかった。眉を顰めながら飲むにつれ、少しずつ馴染み、沁み込んでいった味だ。
そうして仲間たちとエールを交わし、心から美味いと笑った時、初めて本当にこの世界の人間になった気がした。
「以前のお前なら確実に殺していた。戦場だったし、相手は魔導士だった。たとえ杖と入歯とおしめが手放せない老婆でも、妖精さんがキャベツ畑に赤ん坊を届けに来ると信じてるガキでもだ。口笛吹きながらブッた切って空を見上げながら小便引っ掛けるくらいの事は平気でしていたはずだ。それが俺たち戦争屋の仕事だからな」
もう戻れない。
金欠の学生時代に夢中で貪った牛丼も、給料日に襟を正して食べたうな重も、初めてのデートで食べたシェフの気まぐれナントカ風も。
全ては思い出の中の出来事だ。あの味を舌先に乗せたまま生きるには、この世界は酷く厳しかった。
忘れていたし、忘れようとしていた。それなのに……
「魔導士を生け捕りにした。ああ認めてやるさ。お前は大きな仕事をやってのけたのさ。俺たちは目ん玉が飛び出るほどの報酬を手にしたし、人妻は熱く潤んだ目を向けるようになった。結果オーライだ。だがなエージ、あそこは間違いなく殺す場面だ。下手したらお前は死んでいた。俺たちも今頃神の国でバカンスを楽しんでいたはずだ。なのにお前は殺さなかった。なぜだ」
思い出してしまったからだ。
前世では当たり前だった価値観を。戦場ではクソの役にも立たない良心を。
まだガキだと分かった瞬間、反射的に剣の軌道を逸らした。今までガキなんぞ戦場で数えきれないほど殺してきたというのに。
「答えろエージ。これは重要な事だ。お前はあの少女を引き取ってから変わった。この先、本当に敵を殺せるのか?」
戦場は一瞬の迷いで命を落とす。
判断のミスは自分だけじゃなく仲間にも降りかかる。殺してナンボの世界でそれは致命的だ。
濁ったエールの表面には、出来の悪い洗剤のようなあぶくに囲まれるように、21年間見慣れた自身の顔が映っている。そこに、前世の自分の面影はかけらも無い。
エージは既に日本人ではなく、この世界に生まれ落ちた前世の記憶があるだけの転生者だ。
迷う要素は一つも無かった。
「殺せるさ」
「誓えるか?」
探るような目つきの団員たちを見回してエールを一気に飲み干す。
ジョッキをテーブルに叩きつけると、エージは吐き捨てるように言った。
「ああ、誓うよ」