SS:ピンチですよ!
戸崎結衣は考えていた。
それは特別なことではなくて、仕事で毎日行っていることだ。
ある商品の魅力を相手に伝えるにはどうすれば良いか。
例えば、実用性を求めた若者に「有名なブランドが〜」と伝えても響かないし、ステータスとして高級品を求めている顧客に「なんと定価の九割引です!」なんてトークをしたら鼻で笑われる。
商品を売る為に最優先されるのは、商品が持つ魅力を理解することである。そのうえで適切な顧客を発見することが重要となる。マッチ売りの少女よろしく闇雲に売り歩くのではなく、雨宿りしている人を見付けて傘を売れということである。
商品の魅力を理解することは誰にでも出来るけれど、適切な顧客を発見することは難しい。故に、人の普遍的な感情を色として識別している結衣は、物を売る人間として誰よりも優れている。
そんな結衣が次に売ろうと考えていたのは、自分だった。
もちろん転職を考えているわけでは……いや、これもある意味では転職なのだろうか。25歳にもなって「職業はお嫁さんです」というのは少しばかりふわふわしているから、専業主婦とでも表現しておこう。
結衣は悩んだ。
ただの一度も踏み入ったことの無い市場である。
ここでは何が求められているのか。
それを伝える為にはどうすれば良いのか。
そういったノウハウが結衣には皆無だった。
さて、最も重要なのは収入だろうか。
続いて容姿やスキル、互いの相性なんかも判断材料になりそうだ。
……どれも客観的な評価が難しいですね。
何かこう、とある人物から見た相手の金銭的価値は「相手の収入ー自分の収入」といった具合に、明確な基準は存在しないのだろうか。という思考回路から察せられるように、結衣は少し……致命的にズレていた。
しかし幸いなことに彼女は勤勉だった。
知識を得たいのなら本を読めば良いのだ。
結衣は早速本屋で足を運び、それらしいタイトルの本を購入した。
恋愛力アップ! 〜愛のある結婚を目指して〜
男が求める理想の嫁
Re:バツイチから始める結婚生活
結婚できない女の特徴
結婚する為に必要な101のこと
このみすぼらしき独身女性に祝福を
などなど、結衣は全部で十二冊の本を買った。
会計の際にレジの店員が親指を立てたことの意味は、きっと考えたら負けなのだろう。
さておき、もちろん一晩で全て読破した。
そして翌朝から実践した。
当然ながらいきなり結婚というのは難しくて、まずは交際に持ち込む必要がある。
その為に重要なのは、とにかく相手に自分を印象付けることらしい。印象付けるというのは、何も長く話をしろということではない。例えば毎日同じ電車の同じ場所で見かける人とか、そんな具合に自分の存在を相手に認識させることが重要なのだそうだ。
よって結衣は彼の行動パターンを調査した。
彼は午前8時20分の電車に乗り、午後6時頃に駅へ戻ってくる。
行きの時間は決まっているが、帰りの時間は日によってムラがある。
ならば狙うのは行きの電車以外に無いだろう。
毎朝グウゼンノデアイをする為には、仕事を少し調整するだけで良い。
それは営業職である結衣にとっては容易なことだった。
ある時は駅の前で。
ある時は駅に行く道の途中で。
ある時は改札で。
結衣は必ず日に一度は彼の前に現れた。
「最近よく会うな」
「ええ、偶然ですね」
会話も完璧である。
だが結衣は慢心しない。
本にはこうも記されていた。
挨拶は当然として、さりげないボディタッチなども効果的でしょう。
結衣は悩んだ。
彼とは駅でグウゼンノデアイをしただけなのだ。その設定を守るならば、どう足掻いてもさりげないボディタッチが可能なシチュエーションは生まれない。
満員電車を利用するという手については論外だ。それはボディタッチではなく密着である。交際する前からそんな大胆なことは出来ない。
そこで結衣は曲がり角に目を付けた。
フウンニモブツカッテシマウことで、さりげないボディタッチを演出したのだ。
これには高度な技術が求められた。
まず曲がり角を利用しているから、相手の姿を詳細に確認することが出来ない。失敗すれば他の人とぶつかることもあるだろうし、ぶつかり方を間違えたら痛い思いをする。だがしかし、結衣は的確な情報収集能力と驚異的な集中力をもってフウンニモブツカッテシマウことに成功し続けた。
……ふふっ、完璧な一ヶ月でした。
月曜日の仕事帰り、結衣は鮮やかな月の下で静かに笑う。
ここまでやれば自分を印象付けるという点においては完璧だろう。きっと彼はふとした瞬間に私のことを思い出してしまっているはずである。と結衣は思った。
……さて、次のステップへ進みましょう。
聖典にはこう記されていた。
二人の仲が進展してきたら、思い切って食事に誘いましょう。
……この選択は重要ですよ。
彼との関係を考えるならば、二人で食事に行こうなんて言葉はド真ん中にスローボールを投げるようなものだ。とはいえ、子供を同伴させるのは如何なものか。
そもそも何を食べに行くのか。
彼の食の好みなんて知らない。
うみゃい棒はコンポタ味が最も好きだったという記憶はあるけれど、十年も経っていれば好みは変わっているだろうし、食事に誘って駄菓子巡りをするというのは斬新過ぎる。
となると、相手の好みについては直接聞き出す以外に無いだろう。
さて話はふりだしに戻り、どうやって誘おうか。
何か上手い口実があれば……ある。絶好の口実があるではないか。
彼は、ほんの二日前に引っ越しをしたのだ。
そのお祝いということであれば、何ら気を使う必要は無い。
……ふふっ、彼のことですから、引っ越し祝いをしてくれるような女性は私以外にいないでしょう。きっと大喜びするに違いありません。
しかし、この案では必然的に子供達も同伴することになる。それどころか、例の女性も一緒に来ることになるだろう。
そうなのである。
結衣には競合相手が存在するのだ。
……負けませんよ。
結衣は思う。
彼女は同じ部屋で生活していれば、そのうち結婚しているかのような間柄になることを狙っているに違いない。それは彼の反応を見て確信している。
つまりは草食系なのだ。
もしかしたら、向こうにも恋愛がどうこうという発想が無い可能性すらある。
だが、あったとしても、もう遅い。
結衣は一ヶ月前からアピールを続けていたのだ。同棲という事実に胡座をかいて油断している相手に負けるはずがない。
次の一手で、全てを覆す。
その後は……その後は、どうしようか。
全てが計画通りに進行し、それで……交際することになったら、どうしようか。
想像力に翼が生える。
思わず頬が緩む。
そうこう考えているうちに、部屋の前に着いた。
「ただいま帰りました」
「ママー!!」
ドンっ!
扉を開けた途端、ゆいが全速力で飛び付いてきた。
「どうかしましたか?」
「ピーンチ! たいへんだよママ! ピンチ! ピンチですよ!」
駄々をこねる子供のようにジタバタして「ピンチ!」と繰り返すゆい。結衣は冷静に身を屈めて、ゆいと目線の高さを合わせた。
「落ち着いてください。ゆい、まずは状況説明ですよ」
「りょーくんがけっこんしちゃう!!」
……はい?






