謎その4 なぜ玉手箱を渡すのか
その晩、乙姫は酷く魘されていた。ときおり苦しそうに喘ぎ、しかし決して目を覚まさず。
隣で寝ていた俺も何度も目が覚めた。これまでの夜はこんな風ではなかった。尋常な様子ではない。しかし、揺り起こしても、汗を拭ってやっても、乙姫は目を覚まさず魘され続けるばかりだった。
ようやく目を覚ますと、乙姫は虚ろな表情をしながら「少し一人にしていただけませんか」と立ち上がり、ふらりと座敷の奥へと向かっていく。
嫌な予感しかしない。
「なあ女神。久々に質問する気がするんだが、本来の浦島を見送るときも乙姫はこんな感じだったのか」
(ええ、出発前夜に魘されて、そしてかの有名なお土産を持ってくるのよ)
その懸念通りに翌朝、赤い紐で封印された箱を両手で抱えて持ってきたのだ。
「この玉手箱をお持ちください。ですが、決して開けてはなりません」
俺は正直驚いている。二人が愛し合うことができれば、玉手箱を渡す未来は回避できると思っていたのに。
乙姫はその人生全てを、俺と結ばれるために捧げてきた。その想いはとてつもなく強い。だから見捨てて帰るときにせめてもの恨み言として、この玉手箱を渡すと予測していたのだ。
それが、なんだ。
一緒に帰ると言っても、この呪われた結末を回避できないだなんて。
「ねえ、浦島さん……」ゆらりと俺を見上げる。その瞳には光が宿っていない。
「私だけでは、満足できないのですか?」
その唐突な問いかけに「え……」と戸惑いを返すことしかできない。乙姫が俺に恨み言をぶつける事さえ初めてなのだ。
「私には、浦島さんだけが全てなんです。そのためだけに全ての生活を賭してきました。
でも、浦島さんは違いますものね。浦島さんには故郷がありますし、帰るべき場所がある。まだまだ成すべき冒険がある。助けるべき人たちがいる。
だから、私なんて一夜の慰みでしかない。いつか見放されるのに、一緒に行くことはできません」
「違う。俺はお前と添い遂げるつもりだ。だから、お前に一緒に来いと言ってるんだ」
「いいえ、そのような甘言、信じられませぬ! そうやって何人もの女を手篭めにしてきたのでしょう!」
「一体どうしたんだ! 誰かに何か吹き込まれたというのか」
乙姫の言う事は理不尽ではあるものの筋は通っている。しかし、このような邪推に満ちた解釈をするのは、昨日まで乙姫と過ごしていて在り得ない。
まるで一晩で人が変わってしまったようだ。念のために『呪詛看破』をするが、直接的な『洗脳』などの精神操作はかかっていない。
しかし、乙姫は酷く取り乱している。手酷く虐待でもされた後かのように。
――虐待? そういえば昨晩、乙姫は酷く魘されていたが……。
「なあ、乙姫。昨日はどんな夢を見たんだ?」
「夢? 夢って浦島さん、そんな問答をしている場合では」
「落ち着け! ちゃんと呼吸を整えろ! 質問にだけ、答えるんだ」
乙姫の腰をさすり、ゆっくりと息をさせる。幾分か落ち着いたようだが、まだ興奮状態の熱にうかされたように乙姫は呟く。
「竜の夢……、竜に切り裂かれる夢を……」
「竜?」
「鋭い鱗に抱かれ、そして切り裂かれて。大きく巨大なものに貫かれて、全身の毛を逆立てさせられたような。そして酷く不安な気持ちが、一気に私を塗り替えていって。急に何もかもが怖くなって、浦島さんのことさえ信じられなくなってしまって……」
――竜か。そうか、そいつの仕業なら納得できる。
ここは竜宮城だ。紛れもなく竜の所有する城だろう。思えば、あの亀たちの習得していた技も竜に由来するものだった。
竜が全てを従わせていたのなら、この奇妙で大掛かりな計画も成立し得る。余程強大な存在が命じない限り、こんな荒唐無稽な竜宮城方式が成立するはずがない。
「一緒に地上に行くぞ、お前も来るんだ」
「い、いえ私は地上には……」
「いいから来るんだ。俺がお前を絶対に幸せにしてやる。ここに戻るのは、俺が約束を守れるかどうか見届けてからにしてくれ」
俺は半ば強引に乙姫を抱えて連れだし、亀の元へと急いで、出発を促した。亀は乙姫とも潜水のために『契約』の連結を繋ぎ、元の村へと海路を急ぐ。亀は俺が不機嫌な様子を見て取ったのか、事務連絡以外の話題を振らなかった。
長い道中で、俺は乙姫に地上の楽しいことを話して聞かせた。海にはないたくさんのこと。朝と夜があって、夜は星が綺麗なこと。風がとても気持ちいいこと。自分で獲った魚の旨さ。畑仕事で大地の恵みを実感できること。野山を駆け回る様々の動物たち。
楽しげに話して、乙姫の気を引こうとした。乙姫は不安が大きいようだけれど、時折頷いては不思議そうな顔をして、少しは気を紛らしてくれたようだった。
(着きましたよ、浦島さん)
亀は幾分か沈んだ声で到着を告げた。
まぁ沈んだ声にもなるか。亀は恐らくこれからの光景が予測できているはずだからな。
筋書き通りなら、浦島の目の前には変わり果てた故郷の姿が広がるはずだ。数百年が経過して、知り合いもなく、己の栄華も時代の果てに消えた。『ご愁傷様』という態度を取らざるを得ないのだろう。
――でもな、そんな同情は必要ないんだ。
(帰ったぞ、合図をしろ)と俺は『使い魔』に命令する。
すると警笛のように鳴き声が甲高く村中に響いた。
その声を聞き、村人たちが俺たちの居る海岸に駆け付けてくる。「おお、あれが」「本当に帰ってきたぞ」「なんと立派な」などと口々に興奮を囁き合いながら、次々とその数を増やしていく。
突然駆け付けた数十の群衆に乙姫と亀は戸惑い、辺りをせわしく見渡す。そして、後列よりお伴と共に長老らしき者が姿を現し、俺に一礼をした。
「浦島様、村の一同でご帰宅を待っておりました」
「ああ、ちゃんと村を守ってくれてありがとう」
「いえいえ、すべて『千鶴』さまの御力によるものです」
「ああ、そうだな。あいつが頑張ってくれたんだろう」と空を見上げると、一匹の鶴が後光を放ちながら飛来する。
(ま、まさかこの鶴は……、ならば我が軍勢は……)亀は鶴と俺を交互に見ながら、動揺を隠せないようだった。
「そうだよな。俺が村を離れた後、お前の仲間の亀たちがこの村を壊滅させて略奪するはずだったんだろう。だけど、それはうまくいかなかった。村は俺のことを覚えたまま、元の形を保っている。もちろん浦島邸も向こうに見える通り無事だ」
そして、着地して胸を張る鶴を紹介する。
「こいつは『千鶴』、俺の使い魔の鶴だ。俺の攻撃能力の全てを分け与えている。いくら亀が襲ってきても、口から翼から雷電と水流を放って撃退できるってわけだ。だからな、お前が海中で見た俺の強さはあの時点では本当だったんだよ」
亀は悪事を暴かれた犯人のように項垂れている。まぁ今の状況は敵陣で罪状を読み上げられているようなものだ。ここから『打ち首、獄門』と言い渡されても自然な流れだ。亀とて軍属たるもの、覚悟が決まっているんだろう。
でも、亀をそうするつもりはないし、まだやってもらうことがあるんだよな。
「千鶴、あれから何年が経ったんだ?」
(304年にございます)
「乙姫、聞いての通りだ。俺は故郷が滅んで自暴自棄になる必要もない。さらにこんなに時間が経てば、どんな知り合いも生きていない。
だから、俺が頼りにできる女は一人だけ。
乙姫、お前だけなんだよ」
「浦島さん……」
乙姫は涙声になり、感極まっているようだった。
「遥かな時間が過ぎて、どの友人も居なくなってしまったのに、私のことを気遣ってくださるだなんて……! ああ、浦島さん、私はあんな酷いことを言ったのに!」
「いいんだ。もう時間は過ぎてしまったんだ。あの譫言も、お前が悪夢に苦しめられて言ってしまったことなんだから」
本来の浦島なら、こう平気ではないだろう。あいつは村の皆を本当に大切にしていた。だから、乙姫のことよりもそいつらを失った悲しみに打ちひしがれたんだろうな。でなければ、あいつが自棄になって玉手箱を開けるはずがない。
まぁ俺はここで生活していた時間も浅いしな。乙姫が最優先だ。だから、こんなことも言ってやるのだ。
「村の皆! 浦島太郎は帰ってきたぞ!
そして、今ここに宣言する! 俺はこの乙姫と夫婦となる!
新しい住民として、温かく見守ってくれ!」
乙姫の腰に片腕を回し抱き寄せて、高らかに結婚を宣言する。
村の者達は拍手喝采で、指笛がしきりに響き、「幸せにしろよー」と叫ばれ、祝福してくれていた。
これにて一件落着! 宴じゃー!
……といきたいところだが、俺には最後に成し遂げるべきことが残されている。
「千鶴、俺の言いつけどおり、ずいぶんと鍛え上げたようだな」
首筋を撫でると、千鶴は嬉しそうに目を細めた。
「これなら、どんな相手だって倒せるだろう。
だから、千鶴。お前の力を貸してくれ」
千鶴は同意を示すように、高く鳴いた。俺は右手に力を込めて、『百獣使役乃要』の最終特技を発動する。辺り一面は眩い光に包まれる。
「――『主従合一』!!」
使い魔は主人の力を『付与』されて、任務を代行する存在。故にその与えた力を『返還』させるのは『百獣使役乃要』の基本中の基本だ。そして、その技能を極めたとき新しい段階に到達できる。
つまり、分け与えた以上に使い魔の力を得ること。俺は人外の力を獲得できるのだ。数百年鍛え続けた鶴の霊格が、俺の強さに加算される。
光が収まったとき、俺は背中に新たな感触を得ていた。
第3、第4の腕が生えたような感覚―― 一対の翼――を獲得したのである。千鶴と一体化したことで、その羽を得たのだ。
「ああ、浦島さん、なんと神々《こうごう》しい!」
乙姫も感激してくれているようだ、良かった良かった。うん、でもこれ、ただの飾りじゃないからね。れっきとした飛行能力だよ。今ならそれはもう自由に空を飛べると思う。
亀に目を向けると、どうやら震えが止まらないようだった。そうだよなぁ。一般人は次元が違いすぎて、もはや「すげー!」としか言えないだろうが、鍛えてきた亀ならば今の俺の凄さは十二分に分かると思う。
だから、亀さん、最後の協力をしてもらうよ。
「亀さん、お前と俺の『契約』は生きている。俺が極めた『百獣使役乃要』の技能を駆使して、その『契約』の連絡を遡らせてもらうぞ」
亀は俺の指し示す意図を理解し、驚愕に目を見開き口をあんぐりと開けるが、気付いたところで関係がない。
お前には仕えている本当の主人がいるはずだ。そいつを探らせてもらうぞ。
亀の体中に俺の霊気を張り巡らせ、霊脈を把握していく。そして、その中に遥か虚空へと延びている線があった。
俺が辿っている間、亀はずっと身を震わせていた。
(竜様を倒しに行くと言うのですね)
「ああ、お前の本来の主なんだろう? でも悪いが倒させてもらうよ」
(いえ、あの力に恐れを成し、生計のために従っていたことだけですから。倒すのであれば私のことは気になさらず、お好きにどうぞ。私にも実力はあります。士官の道なら、すぐに見つかることでしょう)
「お前は優秀だもんな。じゃあ遠慮なくやっつけるわ」
亀から目線を上げると、乙姫と視線がぶつかる。心配そうな顔ばかりしているな。初めて海底から地上に来て、この立て続けの展開じゃあ無理もないか。
「今度は空に行って来る。必ず帰ってくるから、待っていてくれ」
「はい、私ももう浦島さんしか頼りにできませんから。帰りを信じて待っています」
「ありがとう。お前のためにも必ず帰ってくる」
今の俺ならば、空の果てでも海の奥底でも行けるだろう。この悲劇の根源を、今俺は断ち切りに向かう。
「待っていろ、竜よ。お前のふざけた竜宮城方式、終わらせてやる!」
その居場所を把握した俺は、天空の彼方へと飛び立つ。
これがこの物語の最終決戦になる。
<おさらい>
謎その4 なぜ玉手箱を渡すのか
その真相 自分と離縁しようとする者への乙姫の抗議、
あるいは全てを失い生きていられない者への介錯。
しかし、いずれにしても極端すぎる発想。
その実は竜の揺さ振りにより引き起こされた絶望であった。