第246話 侵入者
――亜人領境界・前線基地
前線基地の内部、作戦本部とも呼べる部屋の中は、重苦しい雰囲気に包まれていた。
「…まさか、リンカ様が…」
北西域を守っていた将達は、北東の状況を今になって知らされる事となった。
士気の低下を防ぐ為、ザジ大将軍が情報封鎖を行ったからである。
「…その事も気がかりだが、今は東域の状況の方が重要だろう。ザジ殿、現在魔族達はどの程度まで進軍しているのですか?」
その空気を払うように声を上げたのは、サイカ将軍である。
リンカの扱いを軽んじるつもりは無いだろうが、魔族達の侵攻が進めば亜人領自体の危険に関わる事になる以上、まずはその状況を知るのが先決であった。
「魔族達は、北方境界近辺に留まっているようです」
答えたのはザジ大将軍の側近であるスーラだ。
スーラは猿系統の獣人だが、優れた視力を持っており、情報収集能力に秀でている。
今回もザジの命により、東域の情報収集を一手に任されていた。
「何故だ? リンカ様の率いる北東軍は壊滅したのだろう? 侵攻しない理由は無いと思うが…」
「…どうやら、魔族側に想定外の事態が発生したようだ」
「想定外の事態…? それは、先程急に魔族達が引き上げた事と何か関係が…?」
「恐らくだが、な」
ザジはそう言うと、スーラに説明を指示する。
その間、サジは目を瞑り、頭の中で情報の整理を行っていた。
(紫紺の戦旗、か…。それが間違いないのであれば、『あの女』が関わっているという事になるが…)
ザジにとっては古い記憶であり、苦い記憶でもある『あの女』との戦い。
戦の巧者として名を馳せたザジが、今対峙している凱以上に厄介と感じたのが『あの女』――紫であった。
紫はその当時、まだ少女と言って良い年齢だった筈だが、戦場における活躍は凄まじいものがあった。
本人の武力は勿論のこと、知略や計略といった戦術にも優れており、当時の亜人領の将達にとって最も手を焼かされた敵将と言えるだろう。
しかし、紫はある時を境に全く戦場に現れなくなったのである。
一体何があったのかと、荒神の軍内でも騒がれた事があるが、結局詳細については不明のままとなった。
元々魔族内でも煙たがられるような存在であった為、内部で問題でも発生したのだろうと片付けられたのだが…
(…それが今になって現れた? 一体何のために?)
紫は元々勝利に対する執着が薄く、ただ戦を楽しんでいるような気配があった。
それが魔族内で問題となり、処罰や粛清の対象になったのだとザジも思い込んでいた。
…しかし、紫紺の戦旗とは紛れもなく紫の率いる部隊の象徴である。
色に強い執着を持つ魔族達が、それを騙るとは到底思えない。
(となれば、やはり本物……………ん?)
その時、ザジは扉の向こうに何かの存在を感じ取る。
ザジ以外の者は誰も気づいている様子が無い。
(私ですら見逃しかねない程の隠形…。ソウガ殿に匹敵するか、あるいはそれ以上…)
そんな存在がいるとは俄かに信じがたいが、現にあの扉の前にいるのだから信じるほか無い。
問題は、何の目的で侵入してきたかだが…
どうすべきがザジが考えを巡らせていると、コチラに気取られた事を察したのか侵入者が隠形を解いた。
その瞬間、他の者も侵入者の存在に気づいたようで、一気に警戒度が高まる。
「そこにいるのは誰だ!」
カンカ将軍の代理であるクウラ副将軍が、剣を抜き放ち扉の向こうへ問う。
『…私は、左大将、トーヤ様の使いです』
その言葉に、部屋に集まった全員が驚愕の表情を浮かべる。
…それも当然だろう。
侵入者の口から、二年前に行方不明となった左大将の名前が出たのだから。
「馬鹿な!? 左大将だと!? そんな事がある筈…」
二年も前に行方をくらました左大将の使いなどと名乗られても、信じられないのは当然だ。
…いや、例え誰の使いであろうとも、このようなカタチで現れる者の言葉など、信じられる筈が無かった。
「…何か証明するものは?」
そう問うたのはサイカ将軍である。
ザジの率いる西域の将は、元々境界近辺を守る者達である為、左大将と直接面識の無い者も多い。
しかし、サイカ将軍はこの場で唯一、左大将と面識があった。
サイカ将軍であれば、侵入者が本当に左大将の使いであるかどうかを判断できるかもしれない。
『私は以前、サイカ将軍と直接会っています。その時私は、トーヤ様のお傍にいましたから』
「トーヤ様の…。もしや、闘技大会の際、トーヤ様の傍らにいたエルフの…?」
『…覚えておられのようで幸いです。サイカ将軍が確認して頂く事で、私がトーヤ様の使いである証明となりませんでしょうか?』
その言葉に、サイカ将軍は指示を仰ぐようにザジを見る。
ザジとしても判断に迷う所だが、ここで問答をしていても埒が明かないのは確かである。
「…いいだろう。入りなさい」
「ザジ殿!?」
「落ち着きなさい、クウラ殿。何、私であれば、おかしな事をすれば見逃さぬよ。安心されよ」
侵入者が隠形を解いた以上、ザジにはその行動の全てが筒抜けであった。
何かおかしな動きをすれば、扉ごと刺し貫けばいいだけの事である。
『…それでは、失礼します』
扉を開け、侵入者が部屋に入って来る。
その一挙手一投足を見逃さぬよう注視していたザジは、侵入者の容姿を見てやや眉を吊り上げる。
(エルフ…。それも相当に若いな…)
侵入者への警戒は解かず、ザジはサイカ将軍に確認を促す。
「…間違いありません。この少女は、トーヤ様の娘さんでしょう」
(娘…? 左大将には、娘がいたのか…?)
「…サイカ将軍、訂正をお願いします。私はトーヤ様の娘ではなく、妻です」
そう言って、エルフの少女――アンナはにこやかに笑って見せた。