第243話 亜人領境界 防衛戦⑬
荒くなる息をなんとか整えながら、甲の攻撃を躱していく。
回避に専念する事で、魔力と体力の両方を節約しているのだ。
攻めを得意とする私にとっては悪手とも言える行為だが、そうせざるを得ない程、私は追い詰められていた。
「クック…、驚くべき身体能力だな。ここまで私の攻撃を躱した者は、お前が初めてだぞ」
「…………」
その言葉には紛れもない賞賛の感情が込められているが、同時に上から見下ろすような余裕も感じ取れた。
…実際、甲にはまだ十分な余力があるのだろう。
私とは違い、奴はまだ息すら切らしていないのだから…
「グッ…、リンカ様、申し訳ありません…」
また一人、私の兵士が力尽きて倒れる。
もう、まともに立っているのは私を含めて六人しか残っていなかった。
…最早、生き残ってここを脱出することは不可能と言っていいだろう。
「シッ!」
私は魔素の槍を回避した直後、『疾駆』から飛び蹴りを放つ。
これまで防戦一方だった私が急に攻撃をした為か、甲は一瞬眉を顰める。
しかし、だからといってその蹴りが通る筈も無く、甲は難なく防いでみせた。
私はその反動を利用し、一気に距離を取る。
「リンカ様!」
私の行動から意図を察した隊員達が、同様に距離を取り私の周りに集まる。
「…済まない。どうやら、ここまでのようだ」
「何を言いますか。まだまだこれからでしょう?」
サンジはそう言ってニヤリと笑って見せた。
…そう。ある意味ではこれからとも言える。
ここからの私達は、守りを考えず、本物の獣となるのだから。
「…ほう、その顔つきから言って、決死の特攻でもしかける気か?」
「…ああ、ここからが本当の戦いだと思え」
文字通り、私達はこれから、本物の獣になる。
つまり、『獣化』するのだ。
『獣化』は『半獣化』とは異なり、外見も意識も本物の獣と化す禁術である。
得られる戦闘能力は『半獣化』を凌駕するが、禁術とされるからには当然理由もある。
一つは、完全に理性を失う事。
そしてもう一つは、完全に変化してしまうと元の姿には二度と戻れないからである。
そうなってしまえば魔獣となんら変わりない存在と化す為、例え戦場であっても、その使用は固く禁じられていた。
しかし、今この状況において、それは大きな問題にはならないだろう。
ここには、私たち以外の味方はもう残されていないからだ。
「成程、成程。という事は、かつての獣王が使ったという『獣化』を、お前達も使えるといった所か」
「っ!? 貴様、何故『獣化』の事を知っている!?」
『獣化』は禁術という事もあり、獣人の中でも一部の者達にしか伝えられていない。
魔族であるこの男が、一体何故その存在を知っている…?
「別に、驚くことも無いだろう? 私達魔族が魔素の操術を秘匿していたんだ。お前達獣人に同じような秘め事の類がある事くらい、想定の範囲内だよ」
…そういう事か。
確かに、かつての魔王達の戦いについては、魔界全土にその内容が伝わっている。
その中には魔族の王ゾットと、父の戦いについても当然記されていた。
ゾットは膨大な魔力で魔素を操り、父は獣と化してそれに対抗した…、という逸話は獣人であれば知らない者の方が少ないだろう。
「しかしだ、ここまでそれを出し惜しんだという事は、何らかの問題を抱えているのだろう? 察するに、制限時間があるか、制御が効かないといった所か」
…やはりこの男、頭は悪く無い。
粗野な見た目や顔つきからは想像出来ないが、広い視野と冷静な判断力を持っている。
「そう考えると、確かに面倒そうではあるな。…であれば、こちらも一つ手札を切るとしようか」
そう言って、甲が隊員に合図を送る。
それと同時に、自らも少し下がって地面に屈みこんだ。
「よっと」
そして、地面に倒れ伏していた私の隊員を仰向けにし、腹に拳を打ち付ける。
「っが…」
隊員の口からくぐもった嗚咽が漏れる。
「さて、見ての通り、お前の隊員はまだ生かしてある。特に女は崩様への献上物であり、私達の報酬でもあるからな」
「…下種め」
ありったけの侮蔑を込め、甲を睨みつける。
甲はそれを何も感じていない風に受け流し、彼女を肩に担ぎ上げた。
「私は戦いは好きだが、狩りは嫌いだ。知性の無い獣を相手にする趣味は無い。よって、お前達の特攻に付き合う気も無い。取引をしようではないか。お前達がこのまま投降するのであれば、この者達には手を出さない事を誓おう」
「………」
私は迷った。
既にこの場での勝敗は決していると言っていい。
だからこそ、決死の覚悟で可能な限りの抵抗を試みるつもりだった。
しかし、ここに来て別の選択肢が提示されたのである。
「リンカ様、迷う必要はありません。我々は、ここに残った時点で既に覚悟を決めていました」
ボタンの言葉に、他の隊員も同調する。
しかし、そうは言っても、やはり私の気持ちとしては譲れない部分もある。
「ぃぎぃっ!?」
私が葛藤していると、甲はおもむろに肩に担いだ隊員の耳を引き千切って見せた。
「悪いが、時間稼ぎをされても困るのでな。決断は早くしてもらおうか」
そう言うと、今度はもう片方の耳を掴んで下卑た笑みを浮かべる。
私がまた迷う素振りを見せれば、躊躇いなく耳を引き千切るつもりなのだろう。
今は辛うじて息をしているが、このまま続けられれば獣人と言えど長くはもたない…
私は意を決し、顔を上げる。
「…わかった。条件を呑も―――!?」
条件を呑む――そう言おうとした瞬間、目の前で不可思議な事が起きた。
甲の担いでいた隊員の姿が、突然かき消えたのである。
「っ!?」
それだけでは無かった。
他の者達が担いでいた隊員達も、次々に姿を消していく。
一体、何が起こっている…!?
「やれやれ、ギリギリだが、間に合ったようだな」
誰もが混乱状態である中、気の抜けたような声が背後から聞こえる。
咄嗟に振り返った私の目に、少し疲れた表情を浮かべる男の姿が映った。
「…待たせて悪かった。助けに来たぞ。リンカ」