第179話 異空間
建物に入ると、予想外の光景に少し拍子抜けしてしまう。
俺が予想していたのは、もっと研究施設的なものであり、機械や専用の機材に溢れる部屋だったのだ。
しかし、招き入れられた部屋は、それとは正反対と言っても良い程に「普通」の部屋だった。
ここは一般家庭におけるリビングの様相そのものであり、とても「博士」などと呼ばれる人物の部屋には思えない。
「部屋が普通で意外だったかね? まあ、君の想像するような施設の類は全て地下にある。ここはただの生活スペースなので、気軽に寛いでくれたまえ」
…施設が存在することは隠す気が無いのか。
俺を油断させるのが目的かとも思ったが、そういう事でも無いらしい。
「…それじゃ、遠慮なく」
俺は勧められるがままに案内されたソファに腰を掛け、一息つく。
「ふむ、もっと警戒されると思ったが…」
「警戒はしてるよ。ただ、なるべく面に出さないようにしているだけだ」
「…そうは見えないがね。いやいや、大したものだよ本当に」
博士とやらは、嘘偽りなく素直に感心した様子であった。
別にこちらとしては嘘を言っているわけではないし、余裕ぶってるわけでもないんだがね…
まあ、もしこの男が俺の過去を知っているのであれば、それと比較して評価しているだけという可能性もあるか…
「ファルナ君、お茶の用意をお願いできるかね?」
「畏まりました。日本茶で宜しいでしょうか?」
「ああ、構わないよ。トーヤ君もそれでいいかね?」
「……」
俺は無言でコクリと頷く。
日本茶、という単語に色々と突っ込みたかったのだが、俺は我慢して言葉を飲み込む。
恐らく、これから話す内容はここがどんな場所なのか、彼らは何者なのか、といったものになるはずだ。
この程度の些細なことに、一々確認を取る必要は無いだろう。
「さて、一応君を招く上で、ある程度話す内容はまとめたつもりなんだが、どうするかね? プレゼン形式にするかい? それとも質問形式が良いかい?」
「…聞きたいことは山程あるが、まずはそちらの話を聞いてからにしようと思う。その方が効率が良いだろうからな」
「…そうか。ではまず、この世界、魔界について説明させてもらおうか」
博士はそう言うと、リモコンのようなものを手に取りボタンを押した。
すると、天井部から垂れ幕のようにスクリーンが降りてくる。ちょっとしたシアターのようであった。
「博士、その前に自己紹介をしてはどうでしょうか?」
映し出される内容に身構えていると、せっせとお茶の用意をしていたファルナから声がかかる。
確かに、ファルナはともかく、俺は博士の名前すら聞いていなかったな。
「おお、そうだったね…。自己紹介が遅れてすまない。私の名は稲沢 俊二。ファルナ君からは博士などと呼ばれているが、元々はただの研究者だよ」
そう言って稲沢と名乗る男は握手を求めてくるが、俺はそれに応じない。
稲沢という名前から、この男が日本人であると予想することは簡単だが、だからといって友好的な関係を築ける理由には足り得ないからだ。
そもそもファルナにしても稲沢にしても、日本人の容姿とは大分かけ離れている。
本当に日本人かどうかも怪しいレベルだ。
「私はちょっと複雑なのですが、魔界ではファルナと名乗っています。以前は滝川 榛名という名前だったそうなので、それを捩っただけなのですけどね。あ、ちなみに八十八という呼び名は88番目の元素であるラジウムから取っています。まあ、意味は余りありませんけど、暫定でそう呼んでもらっていたら定着してしまいました」
「……」
「おいおい、ファルナ君、いきなり情報量が多くないかね? ほら、トーヤ君も少し困っているぞ?」
全くである。「魔界では」だの、「以前は」だの、「ラジウム」だのと一々突っ込みどころが多すぎだ…
この女、わざとこんな言い回しをしているのか?
「折角聞く姿勢になってくれているのに、こちらから餌を撒くような真似をしては彼もやり辛いだろう? 興味を引きたいのはわかるが、今は抑えてくれ」
「…すみません。ちょっと調子に乗りました。トーヤさんも気にしないで下さいね? もし確認したければ、あとでいくらでもお答えしますから」
…まあ、いいか。
この稲沢の話を聞けば、そちらの疑問もいくつか解消されるかもしれないしな。
湧き上がった疑問は、ひとまず頭の片隅に追いやっておこう。
「さて、ただの自己紹介で話を折ってすまない。早速だが本題に入るとしよう」
そう言って稲沢は、レーザーポインタでスクリーンをヒットする。
「まず、この世界について説明しよう。この画面に映し出されている星、ご存知の通り地球なのだが、見ての通り周囲が桃色をしているだろう? これが今我々のいる魔界の空が桃色である理由でもあるんだが…」
稲沢はボタンを操作し、画面を切り替える。
映し出されたのは、何やら科学の教科書に載っているような、図や記号の羅列だ。
「まあ、難解なのでこの図を見ても理解はし難いと思うが、これは我々なりに導き出したこの空間の組成表のようなものでね。この地球は、我々の知る宇宙とは異なる空間に存在している。この空間については…、そうだね、直感的に解りやすく説明すると、所謂『異空間』というやつだ』
…異空間と来たか。
確かに、魔界の空や星々にはなんとなく違和感を感じていたが、本当に異世界の類だったとはな…
「まあ、『異空間』と言っても、完全に別世界というわけでもないのだがね。どこまで再現されているかは我々にもわからないが、この地球も、そこに存在する海も空も大地も、全て我々のいた世界のものと変わらないものなんだよ」
「…動植物以外は、か?」
質問は全てを聞くまでするつもりが無かったのだが、考えていたことを思わず口してしまった。
「いや、実のところ、この『異空間』には植物は存在していたが、動物は存在していなかったんだ」
存在していなかった? どういう事だ?
「…説明しよう」
俺の怪訝な表情に応えるように、稲沢は再びスクリーンを切り替える。
「我々がこの『異空間』の存在を観測したのは、西暦で言うと2055年になる。誰がどのような意図で、どのような技術で創ったかは不明だが、この『異空間』には鏡面のように我々の元いた世界が再現されていたんだ。限りなく本物に近い模造品。非常に高度なジオラマと言い換えても良い。それが今我々のいる魔界の正体だ」
………?
まずいな、ちょっと理解が追いつかないぞ…
この世界が、何者かにより生み出されたとか、はっきり言って俺の想像を超える内容であった。
ここは我々の居た世界とは異なる世界、異世界ですと言われたほうが余程わかりやすいぞ…?
「より高度な仮想現実と言った方がわかりやすかったかな? 曖昧ですまないね…。我々も完全にはこの『異空間』の事を理解してないんだ。そこは勘弁して欲しい」
稲沢はそこで一旦言葉を切り、ファルナが用意した茶を飲む。
気づけば俺の口も乾燥していて、潤いを欲していた。
少し抵抗はあるが、今更毒を盛られるような事もあるまい。俺も茶を頂くとしよう。
「ふぅ…。では、話を戻すが、この『異空間』は今説明したように元となる現実を再現しているのだが、いくつか再現されていない部分もある。中でも大きな違いは、人工物の類が存在しない事、そして微生物や植物を除く生命体、動物が存在しない事だ」
これには思わず口を出しそうになったが、ギリギリで踏みとどまる。
恐らく俺がここで話の腰を折るより、このまま話を続けてもらう方が効率は良いはずだ。
「この『異空間』に存在する地球がどの時点の地球を再現しているか、正確な事はわからない。しかし、我々の調査した結果では、少なくとも人類が存在し、文明を築き上げた後であることは間違い無いと判明している。にも関わらず、ここには当初、人工物は無かったのだよ。我々の持ち込んだもの以外は、ね」
…成る程、ね。
そういう事であれば、先程の「存在していなかった」という言葉も理解できる。
要するに、人工物、そして動物も、全て後から持ち込まれたものだという事だ。
「察しの通り、人工物も動物も、全て後からこの『異空間』に持ち込まれたものであり、元々は存在しなかったものだ。そして、何故そんな事が起きたか…、今度はその発端となった事件について説明しよう」
稲沢の表情に、若干苦いものが混じる。
そして、切り替えられたスクリーンには、再び謎の記号の羅列が映し出された。
「今いるこの場所、これはとある人工島に作られた研究施設なんだが、私はここで、あるものの研究を行っていた。それが、この画面に映し出されているものだ」
稲沢はそこで一旦言葉を切り、俺に向き直る。
「私は度重なる研究の末、我々生命体とは異なる、もう一つの生命と呼べる存在を発見した。それが元素生命体…、今、君達と共にあり、掛け替えのない存在となっている『精霊』という存在だ」