第144話 イーナ②
「イーナ、君は自分が何をしたか、分かっているかい?」
努めて冷静に、穏やかな声色で語り掛ける。
こちらが目を見て話そうとするのに対し、イーナは決して目を合わせようとしなかった。
「…魔獣を、殺そうとしました」
「それは何故? イーナはちゃんと大会の規則については聞いていただろう?」
イーナは、参加する事を止められたくないが為に、俺達どころか兄であるヘンリクにすら参加意思を秘密にしていたのだ。
この大会に対する意気込みも、さぞ強かったに違いない。
だからこそ彼女は、大会規定を聞いている際も真剣そのものであった。
そんな彼女が、隷属する魔獣の取り扱いについて聞き逃しているわけが無いのだ。
「聞いて、ました…。でも、魔獣は殺さないと…、殺さないといけないんです!!」
イーナが膝に活を入れるようにして、無理やり立ち上がる。
恐らく腰を抜かしていたのであろう彼女が立ち上がれたのは、恐怖に勝る感情のせいだろう。
腰を抜かす、というのは精神的な動揺により発生する現象だ。
自律神経の影響だったり、脳の命令だと言った所説はあるが、回復方法はいずれも平静を取り戻す事である。
しかしもう1つ、この状態から立ち直るケースがある。より強い感情により、体が突き動かされるケースだ。
多くの場合、それはより強い恐怖などにより引き起こされるが、彼女の場合は強い憎しみの感情から引き起こされた。
「そこを、どいてください…! そいつも、あの魔犬も、全て、殺さなきゃ…」
「駄目だ。退く気も無いし、殺させもしない。これ以上やるって言うなら、…その、怒るぞ」
くっ…、駄目だ…、俺、叱るのとか苦手らしいな…
「どいて!」
裂帛の気合が叩きつけられる。
大人顔負けの気当たりだが、この程度で怯むような事は無い。
それよりもむしろ、叱れない自分の情けなさに膝を付きそうだった。、
「…何故、そこまで魔獣を殺そうとするんだ?」
「そんなの、決まっている! 魔獣がお父さんやお母さんを…! 集落のみんなを殺したんだ! アイツらは、きっとまた同じように大切な人を…! だから、ちゃんと殺さないと…」
血走った目で俺の背後に佇む砂漠蚯蚓を睨みつけるイーナ。
その殺気に中てられ、飛び出しそうになる砂漠蚯蚓に、大丈夫だと説得をする。
イーナが何と言おうと、俺に退く気は無い。
例え、彼女の牙が俺に向こうともだ。
「トーヤ様…」
いつの間にか俺の傍まで来ていたアンナが、俺の手を握ってくる。
ありがとうアンナ。ああ、分かっているさ。俺にも見えていたよ…。イーナの、感情の揺らぎが。
「アンナお姉さまも、私を、止める気ですか…?」
「………」
アンナは答えない。答える意味など無い、そんな意識が俺に流れ込んでくる。
アンナは魔獣を見て動揺する他の子供達とは違い、非常に落ち着いていた。
それは恐らく、キリル君の操る魔獣達が、あのバラクルが操る魔獣とは違うものだと理解しているからなのだろう。
そして、触れ合う事で『縁』の強まった今、俺にもそれがはっきりと理解できるようになる。
「イーナ…。両親や仲間を失った君の悲しみを、俺は完全には理解出来ていないかもしれない。それでも、仲間を失った悲しみは、少しくらい理解出来るよ」
戦場を経験した事で、俺も仲間の死というものを体験している。
イーナの集落のように、理不尽な暴力に曝されたわけでは無いが、喪失の悲しみは変わらない。
違うとすれば、恨みや憎しみの対象が存在しないという事だが…
「トーヤ様に、私の気持ちがわかるわけ…」
「無いと思うよ。少なくとも、共感は出来ない。無責任に共感できるなんて言うつもりは無いよ」
そう、どんなに似たような境遇に立たされたとしても、完全な共感なんてものは普通は得られない。
体験、経験なんてものは、受け手の感覚や考え方に左右されるものであり、万人が同じ答えに辿り着くことはあり得ないのだから。
「でも、少なくとも俺には、イーナが迷っているように見えるよ」
「っ!? 私は! 迷ってなんか!」
「じゃあ、なんでさっき、あの魔犬を殺さなかったんだ?」
「それは! その女が…」
「水術で防いだから、か? でも、本当にそれだけか?」
「そうに決まって…、っ!?」
そうに決まっている、と答えようとするイーナが、何かに気付いたかのように言葉を詰まらせる。
どうやらうまく誘導できたらしい。しっかり、気付いてくれたようだ。
イーナの放った技、獣神流、虎咬は、魔力により握力を強化し、握りつぶすというシンプルな技である。
その威力は魔力の多寡により上下するが、特に調節しなくとも石を砕く程度の握力は得られる。それが例え子供であってもだ。
それ程の威力の技を憎しみ任せに放たれたのであれば、どうなるかは想像に難くない。
水術による防御は、確かに間に合っていた。
しかし、いくら魔獣とは言っても、喉という急所に加減無しの虎咬を受ければ、恐らく防御越しだろうと関係なく即死していたと思われる。
にも関わらず、あの魔犬、ファーガ君は、致命傷とはいえ即死を免れた。
それはつまり、あの虎咬は少なからず加減されていた、という事である。
「なんで…?」
技を放った本人が、何故自分が加減をしたかを理解していない。
恐らく、イーナにとっても無意識の加減だったのだろう。
それこそがイーナの感情の揺らぎ、迷いの正体だ。
「それは、イーナの憎しみが、純粋な憎しみじゃないからだよ」
「何、を…?」
「イーナのそれは、多分使命感だよ。君の憎しみは、それを燃料に保たれた、自己暗示に近いものだ。でも、それは完全じゃない。だから迷いが出たんだよ。そういった迷いは、拳や剣筋に表れやすいからね」
『縁』による共感で得られた、アンナの知覚。
それにより、俺はイーナの心情をしっかりと把握する事が出来ていた。
強い負の感情、これは憎しみだ。そしてそれに寄り添うように恐怖と、迷いの感情が存在している。
そこに強い意志、使命感が加わり、恐怖と迷いを抑え込んでいる。しかし、それは完全ではなく、実に曖昧で不安定な感情図…
「っ…、な…、わた…し…、は…」
奇妙なくらいの明るさ、そして沈み込むような陰鬱さ、そんな浮き沈みの激しいイーナを、俺は躁鬱か何かと勘違いしていた。
いや、そういった部分も少なからずあったかもしれないが、恐らく本質は違ったのだと思う。
彼女はただ、皆の前で明るく振舞おうと努力し、恐怖が憎しみに勝らぬよう、魔獣を殺すという使命感で感情を押し殺していただけなのだ。その結果が、この不安定な感情図を定着させた要因なのだろう。そして、いつ瓦解するとも分からないその感情図を保つためには、彼女は憎しみの矛先を、魔獣に向け続けなければならなかった。…これは、彼女の事をしっかりと気にかけなかった俺の責任も、相当に重い。
「トーヤ、様…。それは…、トーヤ様の、勘違いです。私は魔獣が憎い…、それ、だけなんです! …どいて下さいトーヤ様、じゃなきゃ、例えトーヤ様でも…」
「…イーナが本当にその気なら、やればいい。俺は抵抗しないよ」
「っ!?」
「トーヤ様!?」
俺の台詞に、イーナは驚愕し、アンナは非難めいた声を上げる。
アンナには悪いが、これは俺も退く気が無い。本当にイーナが俺を排してでも魔獣を討つというのなら、そうすればいい。
「どうした? 俺は無抵抗だ。アンナにも手は出させない。今なら簡単に排除できるぞ?」
俺がアンナを制しながらそう言うと、反応するように、イーナが一歩前に出る。
しかし、その一歩でイーナの歩みは止まってしまう。
「っ…、やっぱり、できま、せん。トーヤ様は私や、兄さんを救ってくれた恩人、です…。それを、排除するなんて…」
「じゃあ彼、キリル君ならどうだ? イーナが彼の魔獣を殺そうとするなら、彼は間違いなくイーナの前に立ち塞がるよ。…だって、彼にとってあの魔獣達は、かけがえのない仲間なんだからな」
「っ!?」
ビクリと反応するイーナ。
悲痛そうな表情とともに発せられた反応は、初めてそれに気づいたというような反応ではない。
最初から気づいていたのだ。ただ、それから目を背けていただけで。
俺はイーナに近づき、彼女を両肩に手を置いて腰を落とす。
「…イーナ、俺の目を見てくれ」
「っ!? できま、せん!」
「何故…?」
「そんな事、したら、私は…!」
俺は少し強引に、しかしなるべく優しくイーナの頭を押さえ、こちらに振り向かせる。
ビクリと少し抵抗を見せるも、すぐにそれは弱まり、彼女はやっと俺の目を見てくれた。
「イーナ、君の心情に気付いてやれなかったのは俺が悪かったと思う。もう少し気遣ってやれていたらと、後悔で一杯だよ…。父親扱いを受け入れておきながら、なんとも情けない話だがね。…まあ、そんな情けない俺なんで、今後はなるべく感情は吐き出して欲しいな。俺の為だと思って…、頼むよ?」
自分で言っておきながら、何を情けない事をと思うのだが、俺はどう足掻いても父親としては経験不足だ。
そんな俺が背伸びしても意味が無いし、空回りするだけだろう。
だからせめて、正直に気持ちをぶつけようと思ったのだ。
「なん…で? トーヤ様は、こんな…、ひぐっ…、私…、みたいなのに…」
「みたいなの、はないだろ? 前にも言った通り、俺にとってはイーナも家族なんだよ。家族だから心配だし、家族だから守りたいと思うんだ。だから、みたいなのとか、自分を卑下するような事は言わないでくれよ」
「だって…、うっ…、ひぐっ…、うえぇぇぇん…」
声を押し殺すように、でも殺しきれない、そんな泣き声を上げるイーナを思わず抱きしめてしまう。
今なお感情を殺そうとする彼女のいじらしさに、体が勝手に動いてしまったのだ。
「あとで、沢山話を聞かせてくれ。今まで言えなかった事も、全部聞くからさ」
肩に顔を埋めてむせび泣くイーナ。
その頭を撫でてやりながらそう言うと、彼女は静かにコクリと頷いてくれた。
ホッと一息をついた瞬間、冷やり、と冷たい視線を背後に感じる。
それは割とよくある事なのだが、それを切っ掛けに会場中の視線が俺達に向けられている事に気付く。
『これは、何と言いますか…』
いや、何も言わないでいいですよ…?
この、何とも言えない生暖かいような視線は、辛辣な視線よりも余程居た堪れない気持ちになってくる。
しかし、イーナは未だ泣き止まず、俺の方でスンスンと泣き続けている。こ、これはこのまま退くしか無いか!?
「す、すいません! お騒がせしました! 私達はこれで退散しますので、どうもお騒がせしました!」
俺はイーナを抱きかかえ、そのままそそくさと演習場を後にする。
(クッ…、衆人環視の真っ只中だという事を失念していた…。しかも、結局叱れなかったし…。俺って本当に情けないな…)
すっかり目立ってしまった俺は、色々と後悔しながらも、なるべく人目を避け、あてがわれた自室へ逃げ帰る。
しかし、そんな努力も空しく、この後俺は、親馬鹿大将などと呼ばれるようになってしまった…