第142話 衛生部隊 カンナの受難
開始の大鐘が鳴らされると同時に、魔獣使いの少年、キリルは一気に距離を離す。
それと同時、入れ替わるようにして少年の背後から二つの影が飛び出す。魔犬とシシ豚である。
「かかれ!」
合図と共にシシ豚が直進し、魔犬は迂回するように駆け出す。
その動きは訓練の賜物なのか、実に洗練されているように思える。
それに対して、イーナという少女はおもむろに前へ進み、シシ豚と衝突…したように見えた。
次の瞬間、シシ豚はまるで石にでも躓いたかのうように、少女の肩越しから後ろへ吹き飛んでいく。
「何っ!?」
その光景が信じられないとばかりに目を見開くキリル少年。
しかし主である少年の驚愕など関係ないとばかりに、魔犬は既に少女の喉笛目がけて飛び掛かっていた。
「…は…、ろす…」
少女の口から何か言葉が発せられるが、内容はほとんど聞き取れない。
誰かに何かを伝える為に発せられた言葉で無いだろう。位置的に一番近い私ですらそうなのだから間違いないはず。
(それよりも…!)
私は集中して魔犬と少女の動向を見守る。
加減をするように訓練は受けているだろうが、魔犬の噛み付きをまともに喰らえばトロールですら痛手を負うのだ。
何を祖としているかはわからないが、小人族の彼女が喰らえば致命打は免れないだろう。
治療は迅速に行う必要がある…
「ギッ!?」
魔犬の牙が少女の喉に触れる寸前、少女は下から突き出すように掌打を放ち、逆に魔犬の喉首を捕える。
「魔獣は…」
っ!? まずい!
「殺す!!!!」
瞬間、魔犬の喉首を掴んだ少女の手が爆ぜる。
否、爆ぜたのは魔犬の喉である。
吹き出た血飛沫に、少女の手が真っ赤に染まる。
少女はそのまま、まるでゴミでも放るように魔犬を放りだす。
ピクピクと痙攣する魔犬を見て、少女が目を見開く。
「…? なんで…? ちゃんと、殺したはずなのに…?」
させるものか…。ギリギリだが、なんとか術が間に合った。
でなければ、あの魔犬は即死だっただろう。
獣神流、虎咬は魔力で強化した握力で握りつぶすという、実に単純な技だ。
それ故に、あらゆる生物に有効ではあるが、反面、防ぐ手段も無数に存在する。
今、私が行ったのは水術による保護と治癒の合わせ技だ。派手に飛び散った血液の何割かは、血が混ざったただの水である。
「ファ、ファーガ!? ファーガァァッ!?」
キリル少年が慌てて魔犬に駆け寄る。ファーガというのはあの魔犬の名前なのだろう。
ホッと息を吐く。一先ず、最悪の事態だけは避けられた。しかし、魔獣相手とはいえ殺意を向けた少女には罰則を与えなくてはならない。
「ちょっと! イーナ選手! 使い魔を殺す事は規定違反…ってちょっと!?」
少女、イーナ選手はこちらの話をまるで聞いていなかった。
それどころか、彼女の目は今も自分が致命傷を与えた魔犬しか捉えていなかった。
(ちょっと!? 本気!?)
冗談ではない! 殺す気で技を放ったのですら不味いのに、本気でとどめを刺す気!?
私は慌てて彼女とキリル少年の間に入る。
「や、やめなさい! 本気で殺す気なの!?」
少女の視線が初めて魔犬から外され、私を見据える。
寒気を覚えた。正気の目ではない…
「どいて、ください。魔獣は、殺さないと」
「だ、駄目よ! この大会で使い魔を殺す事は禁じられているわ。殺そうとした貴方は失格よ!」
「関係…無い…。魔獣は…殺すの!!!!!」
凄まじい殺気。だというのに精霊石の反応が無いのは、やはりこの少女の殺意は魔獣にしか向けられていないという事。
明らかに、この少女の魔獣に対する殺意は異常だ…
ただ、今なら他の監視者も駆けつけてきているし、少女の動きを止める事くらいは容易い状況だ。
戦闘専門の者は今日の監視には参加していないが、子供を取り押さえるくらい、今の面子であれば問題無い。
…しかし、その状況こそが、私、いや、私達は油断を招き、隙を作らせた。
「うああああああぁぁぁぁぁぁっ! 許さない! 絶対に許さないぞぉぉ!」
「っ!?」
背後から上がる怒声に一瞬体がすくむ。
同時に、イーナ選手の身につける精霊石が反応。どうやらキリル少年は仮死状態になった魔犬を見て、殺されたと勘違いしたらしい
しかし、この状況でキリル少年が何をしようとも………っ!? まずい!?
立っている地面が揺れる。同時に私は駆け出していた。
(間に合…っ、え…)
技能大会でも出さなかった程の全力疾走。それが功を奏したのか、ギリギリの所でイーナ選手を突き飛ばす事に成功する。
イーナ選手はわけが分からないといった様子だったが、私の下から出現したモノに気付き、目を見張った。
「グッ…」
身を捻ったが躱しきれず、横腹を削っていく巨体。
砂漠蚯蚓…、それも相当に大きい。明らかに普通の砂漠蚯蚓では無いと分かる。
恐らく、これがキリル少年の切り札だったのだろう。他の二匹とは明らかに存在感が違っていた。
「あっ…、ああっ…」
流石のイーナ選手も突き飛ばされた体勢のまま、巨大な砂漠蚯蚓の存在感を前にして立てないでいる。
逃げてくれることを期待していたが、そうもいかないらしい。
脇腹を押さえながら、砂漠蚯蚓の前に立ちはだかる。
「ラーダ! その女ごと食い殺せ!」
他の監視者が慌ててキリル少年を止めるが、遅い。
そもそも止めるのであれば、この砂漠蚯蚓をまず止めなければいけないのだが、この大きさは…、無理、か…
アレを止める事ができそうなのは、正直魔王、いやタイガ様ぐらいでなければ質量的に難しいだろう。残念ながら今日は二人とも不在だ。
ああ…、何故、こんな状況に私は立っているのだろうか?
元々乗り気などでは無かったし、人の為に命を張るような性格もしていない。
今の私を見たら、実の親ですら目を疑ったのではないだろうか。恐らく、この光景を見て、私を連想する者はほぼいないだろうと思う。
ああ、でも、そんな私に今回の話を持ってきた彼女なら、もしかしたら…
そんな益体も無い事を考えていると、目の前に大口が迫って来ていた。
一応最後の悪あがきで水の被膜を張ったが、まあ間違いなく防げないだろう。
せめてあのイーナ選手だけでも…って私は本当にどうしたんだろうな、はは…
変な笑いを浮かべて俯く私。
あーあ、こんな死に方って無い、なぁ…
「止まれ」
……? あれ? 今?
飲み込まれたと思った刹那、何かが聞こえた気がする。
いや…、というか、飲み込まれて、いない…? 一体、何が…?
顔を上げるとそこには、なんとも頼りがいの無さそうな男の背中が目に入る。
男は振り返ると少し笑みを浮かべ、
「もう大丈夫。娘を守ってくれて、ありがとう」
と言った。
なんだか、それだけの事で私の頭の中は真っ白になってしまった。
何故大丈夫なのか? 何故、砂漠蚯蚓は攻撃して来ないのか?
――そんな事がどうでも良くなるほどに、私の胸は激しく高鳴っていた。