響子
秋の空は吸い込まれそうなほど高くて、息ができないくらい遠かった。
薄い橙色に溶けていくような雲に、一度触れてみたい。無理だとわかっているけれど、思わず手を伸ばさずにはいられなかった。気まぐれな風に流されて、ふわふわと漂い、わたしから逃げようとする。そんなにわたしが嫌いだろうか。わたしが手に入れたいと思ったものは、簡単に指の隙間からこぼれていく。
家族も友人も恋人も、いつのまにかいなくなっていた。気がつけば一人ぼっち。
わたしのことを好いてくれるのは、わたし自身だけ。
でも、きっかけがなければ一人だということにすら気づかなかったのだから、さほど日常に支障をきたすほどの寂しさは募らせていないのだろう。あんがい、わたしはタフな人間だ。
一人ぼっちに慣れている。
そう思うとなんだか、自分がちょっぴり特別な気さえしてくる。
さっき、わたしは一人ぼっちだと言ったけれど、厳密に言えば孤独ではない。わたしと同じように一人を孤独だと感じない仲間がいるのだ。
ここに二人。
わたしと同じ、一人ぼっちの仲間がいる。
須賀透くんは11歳だというのに、大人びた雰囲気の小学生で、あまり子どもらしくはない。彼と話していると小学生と話しているというより、親戚のお兄さんと話している錯覚に陥る。言っていることもしっかりしていて、ご両親の育て方が成果を上げているのだと思う。
いまも雲を捕まえようとしているわたしを見て、半ば呆れ顔だ。ランドセルを汚したくないからと、胸に抱えて座っている。きれいな体育座りだ。おかしくて少し笑ってしまうと、不思議そうにこっちを見る。わたしが「なんでもないよ」と言うと納得したらしく、そのまま遠くを見据えた。横顔がうっとりするほどきれいだ。大人になったらわたし好みの男性になりそうだなと、密かに楽しみにしている。
そのすぐ隣に座っている西野成海くんは、女の子みたいな男の子だ。少しくせのある髪は肩まで伸びていて、鬱陶しいのかひとつに結んでいる。大きな瞳はくっきりとした二重まぶただけれど、いまは少し眠そうだ。彼はわたしと同じアパートに住んでいる。わたしは半年前に引っ越してきたが、成海くんはお母さんと二人でずっと暮らしているらしい。ちなみにわたしは2階、成海くんは1階だ。なるべく下に生活音が響かぬよう、そろそろと生活している。……というのは言い過ぎたけれど、なんとなく成海くんは騒々しいのが苦手そうだ。
透くんと成海くんは仲が良いのか、学校帰りにこうしてプラプラ寄り道をしている。たいていはここ、はにわ広場で時間を潰していることが多く、下校時間にここに行くと、ただぼんやりとしている二人の姿が見受けられる。
はにわ広場は、特に子どもが好んで集まるような遊具は無い。今にも消えそうな街灯と、薄暗いトイレ。くすんでしまって元の色がわからないベンチが二つ。猫の糞で汚れている砂場。どうしてはにわ広場なんていう名前がついているのかは、よくわからない。はにわはまったく無いのに。
近所の親御さんは、きっとここで子どもを遊ばせたくはないだろう。暗くなると街灯だけがぼんやりと明かりを灯しているこの広場は、なんだか薄気味悪いのだ。こんなところを好むのは、孤独ではない一人ぼっちたちだけで充分だ。
傍から見れば、わたしと彼らはどう映っているのだろう。
変なお姉さんと、不思議な小学生。まさか誘拐犯に見られてはいまいな。
夕方にも近い、朱が溶け込む世界のなか、私たちは空を見上げていた。雲を目で追って、くすぐったいように目を細める。あの空の向こうまで飛んでいけたのなら、どれほどよかったか。
わたしはなんとなく、この幼い二人も、この地上に馴染めないのだと悟っていた。
透くんの横顔を盗み見る。わたしの邪な感情に気づかないでおくれ。
「こんなに空ばっかり見て楽しいわけ?」
静かな時間を裂いたのは成海くんだった。さすがに飽きてきたのか、透くんの頬を指先でつついている。透くんはされるがままで、「べつに楽しくはない」と答えた。とても微笑ましい。
「響子ちゃんも暇なのかよ」
「暇じゃないわ。こうしてきみたちと一緒に過ごしている時間は、暇じゃないわ」
わたしは彼らよりも10歳年上だけれど、決して「さん」付けで呼ばれたくはなかった。「響子ちゃん」と親しみを込めて呼んでほしいのだと頼むと、年上を気安く呼ぶことに抵抗があったのだろうけれど、快く了承してくれた。
「でもそろそろ日が暮れるわね。成海くんはわたしと帰るからいいとして、透くんは大丈夫?おうちの人、心配していないかな」
「あー……。どうだろう。夕ご飯はまだできていない気がする」
落ち着いた声。透くんは声もいい。わたしの宝物だ。
きれいな、ガラス玉のような。
名前のとおり、透き通るような声だった。