10:神谷先生の昔話
11年前というと、私はまだ大学生で神谷先生も27歳。松岡に影響されて高校2年生のときに先生の作品にはまった私は、受験で読めなかったぶん夢中で先生の本を読んでいた。
既婚者だとは知っていたけどプライベートなことは後書きにもあまり書かれていなかったし、何より私が作品に興味はあっても先生本人について顔はちょっとだけ好みだと思っていたくらいで、それ以外は本当に興味がなかった。
座って話そうと編集長が言い出して私がロールケーキを取り出し、先生が紅茶を入れた。
「先輩、あっちはいまでも“北上”なんですか。男といなくなったのでてっきり再婚してるかと」
「いや、大学の後輩の北上と名乗った。まあ、もしかしたら旧姓じゃないとピンとこないかもと名乗ったかもしれないけどな」
「そうですか。竹倉、俺の元嫁は北上江菜というんだ。俺の2歳下だから、瀬戸と大学にいた時期が被ってる」
「蒼葉先生の先輩ですか」
私の質問に編集長が答えてくれる。
「そう。学部は違うけど同じサークルだったんだ。でも瀬戸みたいに面白い書評を書くでもなく好きなミステリー作家やジャンルがあるわけでもなく。いったい何が目当てだと思っていたら神谷が目当てだったんだ。こいつ見た目いいからさ、結構もてたんだよ。ま、俺には敵わないけどな」
「言い方悪いですけど、元奥様は先生を上手く釣ったんですね」
「そうそう。さすが俺の部下、言い回しが的確だな」
「先輩はともかく、竹倉はちょっとひどいぞ」
「作品書くことばっかり熱中して彼女がいた時期が少なかったもんね、おまえ。それに北上は美人の部類だったしな~。俺の好みじゃないけど」
「美人なんですか……」
「竹倉、俺も当時は今よりずっと純情だったんだよ。当時彼女もいなかったし、いつも俺の作品褒めてくれたし」
まあ、作家志望の彼女がいない大学生が美人の後輩に作品褒められたら舞い上がるわな。きっとアピールもされてただろうし。なーんか面白くないけど。
「でも宗佐以外のサークルメンバーは北上の目的を分かってたんだよな~。特にデビューが決まった頃からの宗佐への尽くし具合はすごかった。お前、それにほだされたんだろ」
「それはあったかも。でもちゃんと好きだったんですよ。だから彼女が大学を卒業してすぐに結婚したんです」
「結婚されたのはじゃあ24歳くらいで離婚が27歳……え、じゃあ結婚生活3年くらい?!」
まあ、結婚期間は人それぞれだけど。ものすごく好きだったはずの元奥様はどうして。
思っていたことが顔に出ていたらしく、先生は私のほうをみて自嘲気味に笑う。
「北上が欲しがっていたのは、大学時代は“将来有望な恋人”結婚してからは“売れてる作家の妻”のステータスだよ」
「そうなんですね」
元奥様ってある意味目的が明確だ。あれ?でも“売れてる作家の妻”ってステータスは当時からあったんじゃないだろうか。卯月が私に鼻息も荒く勧めてきたときには知名度も上昇してて“売れてる”部類と言ってよかったはずだ。
「竹倉、なに不思議そうな顔してんだよ。俺に言ってみろ」
「編集長。先生ってもうその年齢のときには知名度ありましたよね。私が高校2年生のときに親友が熱烈に“すごい作家だ”と勧めてきたくらいですし」
「でもな、北上が……。な、宗佐」
「まあね。前にも話したけど、その頃ってまだ上手くオンとオフのバランスが取れなくてさ。仕事に熱中してたら、“愛がない結婚生活は辛いから離婚してくれ”と手紙残して不倫相手といなくなった」
「え、そこで愛を選ぶんですか。すごいですね、元奥様」
「なに感心してるんだ、竹倉」
「編集長、私は感心してません。驚いてるんです」
私と編集長が言い合いになりそうになったとき、先生が割って入った。
「とにかくだ。その手紙を置いて北上がいなくなったあとにサイン捺印済みの離婚届が送られてきたから、俺も弁護士通して向こうの親に連絡したあと、さっさと提出したんだよ。これで俺の離婚話は終わりだ」
先生は私に話をしたことで、なんだかさっぱりとした表情になった。
「それで宗佐、もし北上が出版社に来たらどうする」
「連絡をください。俺がそちらで会います。とにかく目的を知らないと何もできないし」
「分かった。竹倉、もし“北上江菜”と言う女性が来たらお前は一人で対応するなよ。絶対に俺を呼べ。俺がいないときは直接宗佐に連絡しろよ」
編集長はそれだけを私に言うと、また先生を連れて仕事部屋のドアを閉めてしまった。低い声で話しているものの、時々聞こえてくる“弁護士”“金銭”の言葉。
私は片づけを再開させながら、ドアがいつ開くのかを気にしていた。




