9:不機嫌になる電話
電話をとった森川編集長の顔つきが曇った。
「これはまた久しぶりだな」
「―断る。だいたい今さら何の用事がある」
うわあ、会話をするごとに編集長の機嫌が氷点下。私も同僚も思わず仕事をしながら気になってしまう。
口は悪いし態度は横暴だけど、誰に対しても基本友好的な編集長があんなにあからさまなんて珍しすぎる。
「いったい誰なんでしょうね」
「昔の彼女とか?」
「えー、普通会社になんてかけてきますか。携帯あるのに」
「着信拒否とかしてたら会社しかないだろ」
机で仕事をしながら隣の席の先輩と小声でしゃべっていると、頭の上から声がふってきた。
「確かに電話相手は女性だが、俺の昔の彼女じゃないぞ」
「―あ。編集長、電話終わったんですか。お、そろそろ先生と打ち合わせの時間だな。いってきまーす」
先輩がはははっと笑ってごまかしながら、席を離れていき私だけが逃げ遅れた。
「竹倉。今日は神谷のところに行くのか」
「はい、原稿が完了したので間違いなく部屋が大変なことになっているはずですから」
「まったく、あいつはしょうがねえなあ。あ、俺も神谷に用があるから一緒に行く。行ける準備が出来たら言ってくれ」
「はい、わかりました」
私が担当になってから、何度か編集長が一緒に行くことはあったけどなんだか今日はいつもと少し様子が違う気がする。
「なんだ?俺のイケメン具合に今さら気づいたのか。そんなにまじまじ見て」
「見ていませんよっ!!編集長、そろそろ出ようかと思うんですけど」
ちょっと心配して見ただけなのに……でも、ごまかされた気分だ。
先生の髪の毛には少しだけ寝癖がついている。どうやら私が行くと伝えた時間まで昼寝をしていたようだった。
そして部屋は、私の予想を裏切らないものだった。
「洗濯はしてあるぞ」
「当たり前です」
「神谷、お前竹倉にきったないパンツの洗濯もさせる気だったのかよ」
「そんなわけないじゃないですか。いつも洗濯を終えると掃除までする気力がなくなるんですよ。で、そこにいつもタイミングよく竹倉が現れるんです」
「その言い訳、全然通用しませんから」
私はそれだけ言うと、さっさと床に散らばっている本に目をやった。いつもなら先生にも掃除を促すところだけど、編集長が私と一緒に来たのは先生に用事があるからと想像がつく。
案の定、編集長は先生を仕事部屋に連れて行きドアを閉めてしまった。いつもなら私が聞いててもおかまいなしに先生と話しているから、今回の用事はよっぽど大事なことなんだろう。
担当の私には知らされないことなのかと思うと、ちょっと悲しいけど私がまだまだ未熟ってこと。よし、もっともっと仕事を頑張らなくちゃ。とりあえずはここを足の踏み場がある状態にすることに専念しよう。私は内心気合をいれて、先生のばらまいた本の山の片付けに取りかかった。
あらかたの本を元に戻し、お掃除シートで床のホコリをふき取り部屋がさっぱりする。買って来たフルーツたっぷりロールケーキでも出すかなと思っていると、先生と編集長が部屋から出てきた。編集長は電話をとったときみたいに渋い顔してるし、神谷先生も眉間にシワをよせている。
「竹倉、掃除任せちゃって悪かったな。いま、大丈夫か?」
「はい、先生」
「おい宗佐、おまえ本当に竹倉に話すのか?」
「竹倉は俺の担当だし、彼女には知っておいてほしいんです。これからのこともあるし」
「ふーん、これからね。まあ確かに“これから”知っておいたほうがいいかもな」
「先輩、何言ってるんですか」
「なんだ、違うのか」
四捨五入すれば40の男2人で何をじゃれあっているんだろうか、と思わず冷ややかに見ていると編集長と目が合ってしまった。
「竹倉、視線が冷たいぞ。ほら宗佐さっさと話せよ。俺まで怒られちゃうだろうが」
先生や編集長に呆れることはたま~にあるけど怒ったことはありませんよ、と口に出していうべきだろうか。でも先生の様子が一転して真剣な顔になったので、私も気を引き締めた。
「竹倉、今日そっちに森川先輩あての電話がかかってきただろう。その相手は、俺の元嫁だ」
「え、元奥様って……先生、たしか離婚されたのってだいぶ前と聞いていますけど」
「そう、もう10年いや11年前になる。全然音沙汰なしだったのに今になって急に俺に連絡をとりたいと言ってきた」
「そうなんですか」
「まったく……あっちが何を考えているかさっぱり分からない」
「ふん、北上は昔から自分本位な奴だから、誰もあいつの考えてることなんてわからねーよ。分かったつもりで結婚した当時の宗佐が馬鹿だったんだよ」
元奥様は「北上」さんって言うんだ。先生が一度は結婚したくらい好きになった人はどんな人なんだろう。なぜか私の心がすこしだけ重くなる。




