試しの鎖
明美は成就社手前の旅館の一つを覗いた。
「おじさん、お弁当ある?」
「頂上までか?今日はシャケとコンブのおにぎりだけどいいか?」
旅館の主であろう、名前こそ知らないが顔見知りであった。
明美は弁当をザックにしまい込み、50人の団体が早朝その旅館を発ったことを聞いた。
石鎚山の登山ルートとしては、成就社からの「表参道ルート」、面河渓から上がる「裏参道ルート」、そして土小屋からの「土小屋ルート」の3つが主となる。その中で容易さから「百名山を登る会」とかの企画ものツワーのほとんどが、「土小屋」にバスで上がる。「土小屋」泊で翌朝「弥山」ピストン、または前日に「頂上小屋」まで行き1泊、翌朝にご来光などとコース設定される。
それに対し、「表参道ルート」は宗教色が出てくる。白装束をまとい、法螺貝を吹いて登山する(登拝という)人々に必ず出会う。特に一年に1回の「御山開き大祭」の期間は全国より崇拝者が集い、講を組み、「頂上社」を目指す。また、その期間の7月1日のみが女人禁制が敷かれる。
明美は宗教とは関係ない。ただいつものように、登山前に成就社に参り、道中安全を祈願する。当日は成就社から天狗岳頂上まで望むことができた。(いい天気だわ。暑くなりそうね。)
神門をくぐり、デイパックに付けていた2本のトレッキングポールを伸ばし歩き出した。成就社からは「八丁坂」の軽い下りである。木々の間からは行く手に弥山、天狗の北壁が見え隠れする。20分ほどで下りが終わり、急な登り坂となる。(さあ、最初の試練だわ。)
「はい、ご苦労さん。こちらが第一発見者の佐野さん?」
「そうです。」
「それでは、消防の救助隊の人は表に出て待機下さい。鑑識が到着したらホトケの移送をお願いしますから。・・・現場は動かして無いですよね。」
愛媛県警刑事部捜査第一課 瀬部警部である。部下一人を連れ警察のヘリコプターで上がってきた。
「ほやきんど、多い日で二千人もの登山客があるのに、もうちょっとましなヘリポート造れんのかなぁ。なぁ、河野よぉ。」
「そうですね。」
同じく捜査第一課 河野巡査である。河野は時間が無かったのか、スーツ姿に革靴である。上着のポケットから白手袋を取り出し、両手にはめた。
「お前、山に来るのにその格好はないやろぉ。帰りは歩きやぞ。」
「えっ、そうなんですか?」
瀬部警部は自分だけ背中に「愛媛県警」と入った作業服に編上げのアーミーブーツであった。
「佐野さん、発見した時と様子は変わっとらへんですか?」
「ええ、びっくりして山頂に駆け上がりましたけど、特に変わってはありません。」
遺体は休憩用の長椅子に横たわっていて、足を土間に投げ出している状態であった。
「おっかしいなあ。見るからに登山者なのに荷物一つない。ズボンのポケットにも何もない。」
「おい、河野ぉ、鑑識が来るまであまり動かすなよ。お前頂上山荘に行ってよぉ、聞き込みに行け。鎖はぁ、無理や、巻き道あるからよぉ。」
鑑識は土小屋から徒歩で現場に向かっていた。平日であったが、二の鎖分岐には、複数の登山者が上がってきていた。登山者に不審がられながら、河野はスーツ姿で頂上まで上がっていった。
明美は「前者森」への登り尾根である、丸太の階段を一歩一歩登っていた。
(階段って疲れるのよね。歩幅も合わないし。うんっ、靴ひもがほどけかかっている。)
段差を利用し、ひもを結び直し終え、顔を上げた。
「キャっ。」
思わず大きな声を上げてしまった。目の前に一人の男がおり、見下げられていた。男は、大きな声に動じるでなく、すうっと体を起こし、先を歩いて行った。
(さっきのベッコウおやじだわ。気になったのだったら、声をかけたらいいのに。)
山では登山者同士挨拶する。また頂上なり、休憩時なり、近くの人にふつうに話しかける。『どちらに行くのですか?』『どこから来られたのですか?』などと、一つの山を共有しているとでも思っているのであろうか、本当に登山の情報を仕入れようとしているのであろうか、特に明美のような、山ガール風情は、老若男女に声をかけられるものである。これが下界であれば、単なるナンパである。
幸い、ベッコウおやじは歩みも早く、すぐ視界から消えたので、気を取り直して再び階段を登り出した。明美が幸いと思ったのは、何も話さない、気持ち悪いオヤジと抜きつ抜かれつの同行とならなかったからである。
「八丁坂」鞍部より、一度休憩をとり、小一時間、「試しの鎖」分岐に来た。
(今日はすべての鎖に挑戦しようかしら。)
「試しの鎖」は石鎚の鎖場で最も急と言われる。分岐を左に行けば近道があるが、明美は右に折れ、鎖に取り掛かった。前のグループが20m上に行ったであろうか、夫婦らしき二人連れが後ろについたので、
「お先に失礼します。」
「おじょうちゃん、お気をつけて。」
ビニールの手袋をして、岩場を登った。登り48mで「前者森」ピークとなる。展望良好で少しづづ頂上に近づいていることがわかった。行く手が見通せると先への困難さが感じられる。
(あそこまで行くの?)
「試しの鎖」は18mを下らなければならない。戻るところもないので、進むしかないが、下りのほうが足の置き場が見えず、恐怖感が湧いてくる。
売店を過ぎ、20分ほどで、「夜明峠」に着き、また休憩をとった。8人ほどが同じように休んでいたが、太陽の熱がじりじりと強く感じられた。