第7話 5.ホーライ博士 前編
5.ホーライ博士
暗い空には雲が広がり、星も隠れてしまった。
ケンは防水仕様の腕時計を見つめた。
鯨まかせの漂流を始めてから、すでに一時間は経っている。途中、ブイにも、流木にも出くわさない、岸辺の明かりもいよいよまばらに頼りなくなってきた。
そろそろカノンがまた泣き出すかもしれない。
ケンは溜め息が出そうなのをこらえて、前方の海を睨みつづけていた。
と、どこからか唸るような音がする。
鯨ではなさそうだ。
何の音だろう。
ケンが不思議に思いながらあたりを見回すと、漆黒の海の沖合に船の影が灰色に浮かびあがっている。距離は20メートルぐらいか。
「ッ!」
一瞬、喉が枯れて声にならなかったが、
「おおーい!」
ケンは声を張り上げた。
カノンもジュリも振り向いて「助けてー」と急いで手を振る。
それほど大きくはないクルーザーだが、屋根にはパラボラアンテナのドームが見えて重装備の船だ。
「助けてーっ!」
「こっちだーっ!」
波が静かなのが幸いだった。
ケンたちの声はクルーザーに届いたらしく、屋根についている探照灯がポッと灯もり、ケンたちを照らし出すと、三人はホッと息をついた。
近づいてきたクルーザーの甲板に人影が現れてケンたちに尋ねる。
「どうしたんだ?」
ケンは「船から飛び込んだんです」と答える。
「船から?」
「ディナークルーズの船です。
男に拳銃で狙われ海に飛び込んだんです。
こっちは今、鯨の背中に乗って漂流しているところです。
鯨は近くに何頭もいるからそっちも気をつけて」
「鯨の背中?
わかった、今すぐ助けてやるからじっとしていろ」
声の主はそう言ってキャビンの奥に消えた。
クルーザーはその場で旋回し、バックでゆっくりとケンたちに近づいた。
五メートルほど手前でクルーザーが止まると、ケンはカノンを抱いて、ジュリは泳いでクルーザーの後部デッキに這い上がった。
そこには白髪まじりの乱れた頭に銀ぶち眼鏡をかけた中年男性と、金髪を後ろで束ねた中年女性が並んで待ち受けていた。
ケンは手を差し出しながら、
「ありがとうございます、本当に助かりました、ミスター?」
「私はホーライだ。こっちはワイフのエリザベス」
「ありがとう、ミスター・ホーライ、ミセス・ホーライ。
僕はケン・フリードマン。こっちは友人のジュリ・ロナルドとカノン・キャロライン」
ケンたちはホーライ夫妻と握手して礼を言う。
「本当に助かりました」
「ありがとうございました」
「礼には及ばないよ。海の上じゃ、遭難者を助けるのは当然の義務だ」
「そうよ、よかったわ。
寒いでしょう、今すぐ、ココアを入れてあげる」
ケンたちは3メートル四方ほどのセンターキャビンに通された。
その片側の壁はモニターテレビやパソコンの端末、オシロスコープといった機器類で占められ、反対側にはロングソフアとミニバーがある。
そこでケンたちは毛布にくるまりココアをもらった。
漂流ですっかり凍えた体には熱いココアがなによりうまい。
そこでミスター・ホーライがカノンとジュリに言う。
「君たち女性から、温かいシャワーを浴びて体を暖めなさい」
「それがイイわ、すぐバスローブを用意するわ」
「どうもありがとう」
カノンとジュリはシャワーを浴びにエリザベスの案内で下の階に降りて行った。
ケンは毛布に体をくるんだままミスター・ホーライにいきさつを説明した。
「そりゃ大変な話だ。
どういう理由があるかしらんが、殺すだなんて、君は、よほど知られたくない事をつかんだんだな」
「かもしれません。けど、僕にはそんな記憶はないんです」
淡い不精髭のミスター・ホーライはケンの話に相づちをうったが、急に立ち上がり、棚から小型の無線機を取り出すと戻ってきてスイッチを入れた。
「どうかしましたか?」
「電波のサーチだ。
君の今の話だと、そのマックスというイルカには衛星追跡用の発信機が埋め込まれている可能性があるのだろう。
そして君もその組織に一時期捕われていた。
もしかすると君の体内にも発信機が取り付けられているかもしれない」
無線機の周波数のデジタル表示がぐるぐると変わり、突然、赤いLEDランプが点灯して、スピーカーがキィーと唸りを上げた。
その音はアンテナをケンの体に向けると一層大きくなった。
ケンは青くなった。
自分の知らない間に、体の中に発信機が埋め込まれているのだ。
これで自分が恐ろしい敵に睨まれていることが、さらにはっきりした。
「うむ、やはりそうだ、頭のあたりに発信機がある」
「これじゃあ逃げ切れないってことですか?」
「とりあえず応急処置をしよう」
ミスター・ホーライはキッチンからアルミホイルとタオルを持ってきた。
「一番、怪しいのはここだな」
ミスター・ホーライはケンの頭にアルミホイルをターバン状に巻いた。
すると無線機の唸りが沈黙し、赤いLEDランプも消えた。
「すごい」
「知識は応用して初めて実用になるって例だ。携帯は?」
ケンは「さっき海水につかったから」と言いながら携帯電話の画面を開いた。
そこには何の画面も映っていなかった。
「やっぱりダメですね」
「じゃ携帯はいいだろう。
もし監視衛星が高精度のカメラを装備して君をずっと追尾していれば話は別だが、そうでなければ、巨悪組織の連中は、たった今、君が海に沈んだと判断するだろう」
ミスター・ホーライはアルミホイルがずれないように、さらにタオルでターバンを巻く。
「後は私の同級に外科医がいるから、手術で発信機を外してもらえばいい」
「僕はミッションインポシブルみたいなスパイ映画とか好きなんですが、現実にこんな事件に巻き込まれてみると、最悪で生きた心地がしないだけですね」
「ハハッ、映画で遭う災難には台本があるから心配ないけど、君には台本がないからな。 ま、当分は姿を隠す他に手がないかもしれないな。
よければ、君の力になろう。
うちの別荘兼研究所がモントレーの手前にあるんだ、そこにかくまってあげよう」
「ありがとうございます。
実際、自分一人じゃ途方に暮れてしまう状態です。お世話になります」
「ああ、これも何かの縁だよ。遠慮しないでいい」
「ところで、ホーライ先生はなんの研究をしているんですか?」
ケンが聞くとミスター・ホーライはにっこりとうなづいた。
「私はイルカと鯨の生態と言語を研究しているんだよ」
「はあ、それでか。
実はさっき挨拶した時、お名前に聞き覚えがある気がしたんです、最近はイルカや鯨の特集が流れているから、雑誌か何かでホーライ博士の名前を見ていたんでしょう」
「トム・クルーズほど有名じゃないがね」
ケンは「ハハッ」と噴き出した。
「しかし、ケン、君の連れのカノンちゃんやジュリちゃんは君以上に怖かっろう、いたわってあげなきゃいけないよ」
「ええ」
ケンは微笑んでうなづく。
「こんなこと言うと笑われるかもしれませんが、カノンがテレパシーを使えたおかげで鯨も僕たちの漂流に協力してくれたのかもしれません。
最初はちょっとカノンも鯨も戸惑ったみたいだけれど……」
ホーライ博士は驚いて嬉しそうな声で聞き返した。
「テレパシーを使えるって!」
「ええ、先生はテレパシーを肯定されてるんですか?」
「鯨、イルカの言語を研究していると、音だけで説明つかないことが出てくるんだ。
音による言葉を発してないのに話を交わしているとしか思えない時がある。
それで私は彼らに音に依存しないテレパシー能力があるのではないかと仮説を立てて、テレパシーの証明実験を計画していたんだ」
「僕は最初は信じなかったんですが、カノンがテレパシーでイルカが救いを求めているので助けたいと考え、僕に水族館に連れて行ってほしいと頼んできたのがそもそもの始まりなんです。
まあ、嘘とは思わないけど、子供の発想だから本気で取り合ってはなかったんです。
そしたら今夜は、彼女がテレパシーで傍にいた男が拳銃で僕らを殺そうとしていると読み取ったんですよ。
実際、彼女のテレパシーがなかったら、僕たちは今頃死んでいたでしょう。
テレパシーって本当にあるんですね」
「うむ、もし証明できれば世紀の大発見だ」
ホーライ博士は手を振り、目を丸めて、笑顔を向けた。