第5話 3恐るべき陰謀
翌日の昼、ケンは携帯を取り出すと、カノンにメールを送った。
《お姫様、どうだい、体調は?》
《だいぶいい感じ。おじさんは?》
《おじさんじゃないだろ》
《お兄さん、今どこ?》
《昨日メールしたイルカの検診をするDDP研究所の前だよ。
芝生の庭が広くて、黒いガラス貼りの二階建てだ。
大成功したシリコンバレーのIT企業みたいにきれいなビルだ。》
《気をつけて、相手は悪い人たちかもしれないんだから、絶対、油断しないで。》
《大丈夫、俺はプロの諜報員だよ。じゃあまた。》
総務にはさっきカマをかけてロバートと名指しで電話したら、同じ名前の者が出た。
医療器械の営業のふりをして会えないかと頼んだが、答えはノーだ。
しかし、突撃あるのみだ。パンフレットはネットで集めたページを適当に切り貼って用意してある。
門は開けはなれたていたので、ケンは建物の玄関に入った。
建物への金のかけ方からして受付のデスクには金ぴかのロゴマークを背にした美人の受付嬢がいるんだろうなと想像したが、ガラスの扉をあけると、内部はロゴマークもない殺風景な灰色の壁で、受付のデスクで出迎えたのは制服を着た、いかつい中年の警備員だ。
「どちらに御用ですか?」
ケンは手を差し出して言う。
「あ、はい、私、CNメディカルのケニー・リードマンと言います」
警備員は握手に応じない。
「こちらで医療用器械のご利用があると聞きまして、是非、私どもの製品もご検討いただければと伺いました。担当の方にお会いしたいのですが」
「お約束は?」
中年の警備員は尋問のようだ。
「先ほど、ロバートさんに電話させていただきました」
「ちょっとお待ち下さい」
警備員は内線電話をかけると、険しい表情になってケンを見つめた。
「電話でお断りしたと申してますが」
「ええ、ええ。たまたま近くを通りましたので、ちょっとパンフレットだけでも受け取っていただければと思いまして、お願いします」
「申し訳ありません、当研究所ではお約束のない方とは絶対にお会いしない規則なんですよ、お引き取りください」
「そこをなんとか、パンフレットを渡すだけでいいですから」
「お引き取りください」
「お願いしますよ」
「……」
中年の警備員は無言で立ち上がると脇のドアから若い黒人の警備員も出てきた。
「すみやかに敷地から出てください」
「そこをなんとか、」
「これは警告です、すみやかに立ち去りなさい。さもないと、貴方を不法侵入の現行犯として逮捕します。法律に基づいた合法的な逮捕です。我々には自衛権を行使するオプションもあります」
若い警備員は警棒を伸ばし、中年の方は腰のホルダーの拳銃に手をかけた。
営業してればいろんな客がいるが、逮捕警告に拳銃までちらつかされたのはこれが初めてだ。
しかし、ここまでの過剰な応対は、かえって不自然な印象を受ける。
「わかりました、出ます、今、出ますよ」
ケンは追い立てられて門の外に出た。
あの警備の様子からして、夜間のセキュリティー装置の突破は難しいだろう。
侵入するとすれば、やはり昼のうちに出入り口から堂々とがいい。
なあに万が一捕まったとしても、イルカの研究が凶悪な組織に結びついている可能性はまずない。おそらく自衛権の行使まではないだろうし、警察に突き出されても始末書を取られるぐらいで済むに違いない。もっとも自衛権を行使されれば射殺されることもあり得るわけだが……。
とにかく、恐ろしい陰謀があると思い込んでいるカノンには悪いが、それが落としどころだろう。
ただ何も調べないで、純真なカノンにダメだとは言えない。
ケンはとりあえず全力で調べあげる覚悟で、車に戻ると、スーツをしまい、ウインドブレーカーを羽織り、リュックを背負って、研究所の方向に引き返した。
さすがに正面玄関は警備員が監視しているだろう。
ケンはDDP研究所の裏手の道路を歩いて、塀の隙間から、塀の向こうは駐車場だと確認し、塀の上に警報装置の線などがないのを確かめた。
今、来た道を引き返しながら、ケンは路上に車や人気のないのを見計らって、塀に飛びつき、向こう側に飛び降りた。
メタリックな紺色のワンボックスの影にうずくまったケンは、リュックにウインドブレーカーを収め、白衣を取り出して羽織る。白衣というのは多くの研究施設で通用する便利な制服だ。胸に特別許可証と書いた適当な名前と番号のIDカードをクリップで留めるだけで、いよいよ関係者らしく見えるから不思議だ。
ケンは研究室の裏の通用扉を見つけ歩いてゆくと、その前で立ち止まった。
そこには予想通りカード認証の装置が取り付けられていて、ケンには開けられない。
監視カメラは2メートル頭上にある。
ケンはドアと監視カメラに背を向けると、ポケットから煙草を取り出し、いかにも休憩で吸ってるように見せかけながら、扉の内側でロックが外れる音を待った。
何分かたってその瞬間が訪れた。
ケンはドアノブを手でまわし、「あ」と驚いたふりをする。
「あ、失礼」
男は30代半ばで細長い顔に豊かな髪を真ん中から分けていた。
「ロバートさん、まだいますかね?」
ロバートというのは、さっき電話で話した相手だが、セクションが違うと顔ははっきりわからなくても名前はおぼろに聞いている可能性が高い。すると、その名前を出すだけで顔を知らないケンを怪しむ気持ちが一挙に失せる。
「いや、ちょっとわかんないすね」
ケンはその男の名札がダニエルであることと所属部署がデータ管理課であることを記憶に刻みつけた。
「どうも」
あっさりと建物の中に入ることに成功したケンは、スパイ映画の登場人物になったような興奮を覚えていた。
データ管理課は二階の奥にあった。
おそるおそる部屋に入ったが、個人のデスクはパーテーションでしっかり仕切られていて、皆、自分の作業に集中しているので振り返る者もなく、見つかる心配はなかった。
ケンは空いているデスクを探し出して座り、パソコンを操作して、データのディレクトリーを開きにかかる。
四角い枠が立ち上がりパスワード入力を促される。
セキュリティーの一番の問題点は、発行されるパスワードが無意味な記号であればあるほど、デスクの周辺にパスワードをメモしてしまうことだ。
ケンはモニターの周囲を見回し、さっき扉ですれちがったダニエルが妻子と並んで微笑んで映っている写真を少し裏返し、アナログの時計と、ボールペンを手にとってパスワードを探した。
机の引き出しを開けると、鉛筆、消しゴムと調べて、一番奥にあった定規を持ちひっくり返すと、裏面に12桁の数字とアルファベットがメモしてあった。
ケンは小さな声で(ビンゴ!)と呟いて、データディレクトリーに侵入した。
そこにはデイドリームプロジェクトというタイトルがあり、矢と月桂樹を掴んだ鷲が大きな三角形で囲まれた画像がついていた。
ケンはふと疑問に思う。国の印章のような画像を使うのは自分たちがその権力の側にあることを誇示したいためかもしれない。
嫌な予感がひとつ生まれた。
研究所の名前のDDPはデイドリームプロジェクトの略かもしれない。
クリックするとドルフィンとヒューマンの項目が並ぶ。
ドルフィンをクリックすると、日付とシリアルナンバーの最終ディレクトリーを開いた。
(ちょろいぜ)
呟いてケンは、そこに並んだ数十の動画ファイルのひとつを開いた。
すると、イルカの頭がメスで切り開かれて、数センチほどの電子チップが埋め込まれる様子が映し出される。
おいおい、これはなんだ。
ケンの胸にまた嫌な予感が生まれる。
カノンの心配は本当かもしれないぞ。
ケンは日付と実験記録がキャプションとなった次の動画ファイルを開いた。
そこにはプール水面でゆったりと泳ぐイルカとそれを見守る白衣の男二人が映し出された。
「よし、ではアップカーブ発振!」
「10、20、30」
白衣の男がラジコンのコントローラーらしきレバーを操作すると、イルカは急に激しく泳ぎ始め、ジャンプを繰り返し、さらにはプールの壁に体当たりを始めた。
「よおし、いい反応が出たぞ!」
「70、80、90です」
イルカの体当たりは激しさを増し、体に傷を負ったらしく、うっすらと血が噴き出した。
見ているケンは胸の奥が震えるのを感じる。
「よし、ではダウンカーブ発振!」
「マイナス20、マイナス30、マイナス40」
すると今度は一転してイルカの動きが止まり、プールの底に沈む。
「マイナス70、マイナス80、マイナス90、」
イルカは仰向けになって力なく浮いてしまう。
大変だぞ、これはイルカの意識や感情をコントロールする虐待実験なんだ。
ケンの嫌な予感は黒い雪だるまのようにどんどん膨らみ始めた。
カノンの言う通り、あのイルカはここから逃げて、それで追われているのかもしれない。
よし、とにかく証拠だ。
ケンはUSBメモリーを取り出して、スロットに差し込む時、一瞬ためらった。
記録された実験が極秘の虐待実験であれば、セキュリティはかなりのものだろう。
当然、このディレクトリーへのアクセスと操作が全て監視されている可能性は高い。
構うもんか。
ケンは自分のUSBメモリーをスロットに差込み、映像ファイルをコピーした。
その時、もっと恐ろしいことに気づいた。
待てよ、さっき扉ページの次にヒューマンて項目があったぞ、まさか……
ケンは震える手で、ディレクトリーを引き返し、ヒューマンのフォルダーを開いた。
そこにはイルカに比べて圧倒的に少ないものの複数のファイルが並んでいた。
おそるおそるクリックして動画をプレイすると、いきなり人間の側頭部が現れた。
ケンは寒気が体を駆け巡るのを感じた。
頭髪は完璧に剃りあげられて、側頭のこめかみに四角いマークがつけられている。
その四隅にドリルの先端が迫り、穴を開けてゆく。
次は超小型の丸ノコが四隅の穴を結んだ辺を切り開いてゆく。
まるでオートメーション工場の組み立てロボットの作業を見ているようだが、したたる血がその野蛮さを証し立てている。
まもなく四角い窓が開いた。
すると、脳が少し切り裂かれ、イルカの時より小さい1センチほどの電子チップが埋め込まれてゆく。
なんてことだ。
ケンは鼓動が直接耳の中に聞こえてくるような気がし、口は開いたまま呼吸ができない。
イルカの時と同じように日付と記録がキャプションとなった動画ファイルを開く。
そこには壁中にクッションを張り巡らせた保護室に腕の自由を奪う保護服を着せられ監禁された坊主刈りの中年男が映し出された。一見したところ頭に傷は見えない。
今度は男たちは覗き窓のこちら側にいるようだ。
「よし、ではアップカーブ発振!」
「10、20、30」
声が響くと、坊主刈りの男は急に壁を蹴り始めた。
「よおし、速い反応だな!」
坊主刈りの男は大声で叫んで蹴った。
「ふざけんな、ここから出せ」
さらに坊主刈りの男は体当たりを始めた。
「お前らを告発して、地獄に送ってやる!」
「70、80、90です」
坊主刈りの男の体当たりは激しさを増し、頭突きを始めて壁に血がついた。
「まずい、ダウンカーブ発振!」
「マイナス20、マイナス30、マイナス40」
するとイルカの時と同様、動きが止まり、坊主刈りの男は床に座り込む。
「お願いだ、もう許してくれ」
「マイナス70、マイナス80、マイナス90、」
「もういい、殺してくれえ」
「死なせてくれえ」
なんてことだ、イルカの実験は人間の意識を操る基礎研究だったんだ。
こいつはとんでもない巨悪の陰謀だ。
落ち着け、落ち着け、まずコピーするんだ。
ケンは取り乱しそうな自分に言い聞かせてファイルをコピーした。
安心するな、こういう時スパイドラマではもう一枚バックアップしとくんだ。
このディレクトリーが監視されていたら、USBメモリーにコピーしたのはばれている可能性がある。さらに残された時間はあまりないかもしれない。
ケンは机の引き出しを開けて、ダニエルの個人所有らしいデジタルオーディオプレーヤーを見つけた。
たくさんのファイルは無理だから、自分のUSBメモリーのファイラーからイルカと人間のファイルをひとつずつ新規フォルダーにいれ、圧縮してデジタルオーディオプレーヤーのメモリーの最後に転送する。そしてデジタルオーディオプレーヤーは引き出しに戻した。
ケンが部屋のドアを開けて外に出たとたんに、体格のいい男が立ちふさがった。
「お前、その名札、おかしくないか?」
「あ、いや、これは、」
ケンが視線を落として言い終わらないうちに、強烈なボディブローが襲いかかり、ケンは床に崩れた。