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第3話 1イルカショー その2

 そよぐ風は濃い潮の匂いを運んでくる。

 ショープールの五十メートル先は海なのだ。  

 日差しは楕円形プールの水鏡に届いて、キラキラと跳ね返り、客席にオーバーハングしている屋根に天気図のような模様を映し出していた。

  

 突然……プール中央の水面が盛り上がったかと思うとブルーグレイの美しい流線型がみっつ跳び出した。

 その三頭のイルカは水しぶきをひいて宙を舞い上がり、くるりと一回転して水面に消える。プールの縁に沿ってイルカたちの影がぐるりと一周し、今度はさっきと逆方向から跳び出してくるりと回転し、また水中へ。

 まもなく水中から顔を出した三頭のイルカは、客席の中央部を振り向いて、立ち泳ぎのままバックしてケケケエと笑い、ケンとカノンは夢中で拍手を送った。


 もう少し車を走らせればシーワルドという世界的に有名な施設がある。シーパークはシーワールドのおこぼれの客で成り立っているとも言えるマイナーなマリンパークだった。

 しかも、日陰に入ると少し肌寒い感じもする平日の昼、イルカショーを見ている客は全部で二十名に満たない。

 ケンはイルカのトレーナーにちらりと目をやった。

 トレーナーは男女一名ずつの白人、男の方は三十歳ぐらいマッチョとまではいかないが筋肉質で、よく日焼けしていて、見るからに海が好きそうなタイプ。女の方は二十代前半の赤い髪で、すごい美人というわけではないが、まなざしに愛嬌があってイルカを見る表情が輝いている。

 ケンは客に笑みをふりまき、話しかけているトレーナーたちが真剣なプロフェッシヨナルだと感じ好感を抱いた。

 もちろんイルカたちも自分たちがマイナーなマリンパークにいるなんて事情は知らないから手抜きなんてありえない。


 ショーの進行役でもある女姓トレーナーは、片手にマイクを持ち、観客のためにしゃべる。

「さて次はイルカ君にお兄さんの持っている輪をくぐりぬけてもらいましょう。ジョン、キティー、ボビー、準備はいい?」

 イルカたちは口を開いてキイと返事をし、横腹を見せ胸びれで水面を叩く。そして水に潜るとプールの反対側に泳ぎわたった。

 男のトレーナーは新体操で使うような大きな輪を持って、プールに突き出た浮き堤防の先端に進んだ。

 水底のみっつの影はプールの向こう正面でふたてに別れ、大きな弧を描いてトレーナーの側に戻ってくる。

 女のトレーナーが「さあ、跳べるかな」と期待を盛り上げる。

 まず左側からのイルカが跳び上がり、きれいに輪をくぐり抜ける。それが着水しないうちに今度は右側からのイルカが跳躍する。こちらもあざやかに輪をくぐり抜ける。 

 さらにひと呼吸置いて、三頭目が左側から跳ね上がった。  

 ジャンプした時はこれも見事クリアかと思われたが、次の瞬間、このイルカは空中で姿勢を硬直させて、そのまま輪に噛みついて、一瞬、宙ぶらりん……。  

 そしてケケケと笑って輪から落ちて、胸びれで水しぶきを飛ばしてふざける。  

「こら、ボビー!」

 女のトレーナーは片手を腰に当て、わざとらしく怒る。

「いたずらっ子にはゴハンもあげないわよ。ちゃんと輪をくぐってみせなさい」 

 男のトレーナーは輪をフリスビーのようにして高く放り上げる。  

 イルカのボビーは急いで輪の落下点に泳ぐと、まだかなりの高さにある輪に向かってジャンプした。

 三メートルもの高さで、見事、イルカは輪をくぐり、続いてその輪を水しぶきの糸があざやかに追いかける。

「すごい!」

 ケンは思わず叫んだ。

 カノンは「うわあ」と声を上げプールの前の柵まで駆け寄った。

「ボビー、やればできるじゃない。さ、ご褒美をあげるからこっちおいで」

 女のトレーナーはイルカのボビーを呼び寄せると頭を撫で、開いた口に魚を投げ入れてやった。

 突然、男のトレーナーが警告する。

「濡れると困るコは一番上の席まで急いで上がりなよ、少しならいいコは傘を開いて」 観客が急にキャーキャーと騒ぎ出し、イルカによる水かけが始まる。

 カノンは上には上がらず、階段をおりてプールの縁に近寄り透明な傘を開いて水しぶきを受け止めて楽しんだ。

 しかし、席にじっとしていたケンは水をかぶった。

 イルカたちはそれからも見事な芸を次々と見せてくれた。

 空中で宙返りを入れたり、横に回転跳びをしたり、ビーチボールを鼻ではねてキャッチボールをしたり、彼らの芸は尽きなかった。


 イルカたちは客などまるで気にすることもなく、純粋に自分たち自身も楽しむために遊んでいるという雰囲気だ。

 遊びの天才である彼らには狭いプールに閉じ込められている不満すらないように見える。

 元気ないたずらっ子のように泳ぎ回り、笑い声をあげるイルカたちを眺めていると、彼らが百パーセント幸福なんだと思えてうらやましくなってくる。

 ケンは声を出してつぶやいた。 

「お前たちはいいよなあ。

 生まれた時から、学校もないし、仕事で頭を悩ますこともないし、出世や、収入とか考えてあくせくしないでもいい。悩みを抱えた地上動物がいることさえ知らないんだろうな。狭いながらもプールは天国だよな」

 ケンは「あー」と溜め息をついて、ぼやき続けた。 

「俺なんか学校の成績もパッとしなかったし、仕事はまあまあとしても。

 そもそも、なんで俺が小娘の誘いに乗ってこんなとこでイルカショーを見てるか、お前たちわからないだろ?」  

 ケンはイルカたちを見つめ、自分の左頬をぴたぴたと叩いた。

「これだよ、これ。

 昨夜、とうとう、パティーに振られたんだぞ。しつこいわよなんて、思い切り俺にビンタくれやがって、今もまだこんな赤く痕が残ってんだぞ。あんな浮気なプロデューサー野郎にすっかり騙されて、俺を振るなんて、ああ、いいこと全然なしさ。イルカ君、どうしたらいいと思う?」


 その時、イルカたちは並んで立ち泳ぎしていたが、急にキキキイと笑った。

 ケンは苦笑してイルカたちに向かって言った。  

「なさけねえ、イルカにまで笑われたか」

 ケンは昨夜パティーにくっきりと赤く手形をつけられた頬を撫でると、悔しさをぶつけて声を上げた。  

「もう、忘れた。あの女のことは忘れた。猛烈に、強烈に忘れたぞおーっ」  


 女のトレーナーは会釈するようにうなづくとマイクで言った。

「それじゃあ、ここで会場のお友達の中から二人のお友達を選んで、イルカ君と握手をしてもらいましょう。誰にしようかなあ」

 女のトレーナーは客席をみまわす。

 カノンはケンの元に戻り自分とケンの手を上げて「はい、はい、はい」と叫んだ。

「じゃあ、そこの赤い帽子をかぶった女の子と背広のお兄さん、どうぞこちらへ降りてきてください。

 今回、残念だった皆も、タッチ券を買うと裏のタッチプールでイルカと握手できるから、がっかりしないでね」 

 そう指名され、カノンはいやがるケンを引っ張ってスタンドを降りた。 


 カノンと、頬を押さえたケンがライトブルーに彩色されたプールサイドに立つと、女のトレーナーが握手してくる。

「ようこそ、パシフィックパークへ。私はジュリよ。

 まずはお嬢ちゃんからお名前とお歳を聞かせて」

「こんにちは、カノンです、十二歳です」

「そちらのお兄さん、頬はどうかしたんですか」

 ケンは左手で左頬を押さえたまま、右手でジュリと握手する。

「いや、なんでもない」

「昨日、夜の博物館で、熊の剥製にびんたされたと言ってたわ。」

「シッ、カノンは黙って」

「ふふ、意味不明ね、お名前とお歳を願いします」

「ケン、二十七歳」

 ジュリは突然ケンが驚くことを言う。

「さっき、あの女は忘れたーと、おっしゃってたようですが」

 ケンは恥ずかしさで真っ赤になった。

「き、聞こえてた?」

 ジュリはうなづいて微笑んだ。  

「ええ、困ったことに、ここは意外と客席の話声がはっきり聞こえるんですよ。

 何か会場にメッセージありましたら」

「ハハハ、その、えー、ケン・フリードマン、恋人募集中です」  

「ところでこちらのお嬢さんは年齢からするとお子さんではないでしょう、どういう関係ですか?」

 トレーナーが尋ねると、カノンが笑いながら割り込んだ。

「お姉さん、妬いてるなら大丈夫よ、私はこんなおじさんに興味ないもん。」

「まあ、おませね、」

 ジュリは苦笑した。

「ケン、お仕事は?」  

「広告代理店の営業」  

「お仕事はいいんですか?」 

「ズル休みだから」

 ケンはうっかり正直に答えてしまって照れ笑いを付け加えた。

 ジュリもクックッと笑みをもらし、カノンが弁護するように言った。

「私が誘ったの、だからおじさんの罪はジョージョーシャクリョーして下さい」

「難しい言葉知ってるのね。せっかくのずる休みなんですからたっぷり楽しんで行ってください。

 じゃあ、カノンちゃんからイルカと握手しようか。

 プールに向かって、私と同じように手を動かしてね。

 まず左の手で腿を軽く叩いて、そして、手のひらを横にぃ伸ばしますうー」

 カノンが見よう見真似で手を動かすと、男のトレーナーが叫んだ。

「ほら、ジョンが来たよ」  

 カノンが視線を足元から上げると、目の前にブルーグレイの太い体が垂直に伸びてきた。

 カノンはさっとジョンの胸びれをつかまえ、握手した。

 水中に戻ったイルカに手を振ると、カノンは満面に笑みを浮かべてケンを振り向いた。

「握手したよ、イルカはすごく頭がいいね」

「よかったな」

「うん、ありがと」

「次はケンの番よ、さあ、左の手で腿を叩いて、手のひらを横に」

 ケンが言われるままに手でサインを送ると、すぐさまイルカが寄って来た。

「キティーだよ」

 男のトレーナーが叫ぶと、かなりの勢いでイルカが水面から頭を現した。

 ケンは思わず身を引きそうになる。 

 数瞬……イルカのキティーの胸びれはちょうどケンの腹の高さにあった。

 しかし、ケンは握手のことなどすっかり忘れてイルカにボーッと見とれてしまった。

「ほらっ、早く、早く!」

 カノンに言われてケンは急いで手を出したが、キティーの頭はすでに膝の下に沈みかけていた。

「おじさん、遅いよ」

 ケンが困った顔を上げると、ジュリは笑顔でフォローする。

「三割の人は最初は見逃しちゃいますから気にしないで大丈夫、もう一度チャレンジしましょう」 

 ジュリは再びキティーの近づいてくるのを見てまた手順を教える。 

「はい、叩いて、横に、さあ来ましたよ」

 水面から出てきたキティーの口がニヤッと笑いてたくさんの歯がのぞく。  

 ケンは伸び上がるキティーの胸びれをしっかりとつかまえた。

 胸びれは一見、濡れてて滑りそうだが、つかんだ感触は意外と固い。


 その瞬間、ケンの脳裏に、忘れていた感動の原型が甦った。 

 ケンも子供のころは新しいものを純粋な好奇心で追い求めていた。

 そして新しいものに出会うたびに、その感触や感想を、自分の頭の中の『世界の発見』に得意になって書き加えたものだ。

 ところが、いつの間にか一方的な義務やうわべだけのマナーや道徳が繰り返し、繰り返したたき込まれ、社会に出て打算や世間体がしみついてくるとと、いきいきした手作りの『世界の発見』は隅に追いやられ、いつしか埃にまみれ、存在すら忘れられてしまうのだ。 

 ケンは頭の中で長く埃をかぶっていた本を開き、新しいページに、興奮とともに書きしるした。  


 イルカ……曲芸の天才。ケケケと笑う。パティーに振られたことを笑われた。歯みがきが大変そうな歯並び。わりと固い胸びれ。自由主義か。遊びが仕事。人なつこい。 

 ケンには手から離れ水中に戻ったキティーが一瞬おじぎをしてくれたように見えた。 

「イルカと握手した感想はどうでした?」

 ジュリに聞かれたケンはにっこりして、

「子供に戻って、生き生きした感動が蘇った感じ」

「それはよかったです」

 そこへカノンが割り込んで言う。

「お姉さん、私、どうしても、あそこのイルカと握手したいの」

 カノンが指差す方向のイルカの影を見ると、ジュリはうなづいた。

「あ、マックスね」

「お前、そういうの図々しいって言うんだよ」

 ケンがたしなめるが、カノンは引かない。

「だってあのイルカ、特別なイルカなんだもん。

 ジュリ、お願い、私、あのイルカに会うために学校さぼって来たのよ」

 ジュリは微笑みながらうなづいた。  

「しかたないわね、大事なお客様にもう一回だけサービスしちゃいます。

 カノンちゃん、前にどうぞ」

「やったあ、」

 カノンは嬉しそうに手を挙げた。

 ジュリは小さな笛を鳴らしマックスを呼び寄せて言う。

「さあ、マックスはすぐそこまで来てるから、カノンちゃん、さっきの合図をしてみて」


 カノンは間髪を入れず手で合図を送る。

 水底の紺の影がすいすいと近寄り、次の瞬間、水面からマックスの上半身がとび出し、宙にとまった。

 カノンは目を大きく見開いてさっと手を伸ばす。  


 と、次の瞬間……こともあろうかマックスはカノンの手首に噛みついた。


 ケンは呆気に取られた。

 カノンは驚いて口をあんぐりと開いた。

 ジュリが鋭く叫ぶ。 

「マックス、やめ!」

 カノンはとにかくイルカの動きに逆らわず、イルカと万有引力に素直に従ってプールに落ちた。 


 観客席からも悲鳴が上がり、水しぶきと気泡が交錯するのを、カノンは案外と冷静な目で眺めていた。

 水中に入ったマックスはすぐに手首を放してくれた。

 そして謝るようにおじぎをひとつするとカノンの周囲をくるくる泳ぎまわる。

 カノンは笑顔になる。

 眉をゆがめたジュリの叫びが間抜けな感じで水中に届いてくる。 

 カノンは手足で水をかいて水上に顔を出し息をついた。

 マックスは視線をカノンに向けながら、カノンのまわりを廻り続ける。

 カノンの背中から男のトレーナーが泳いで近づいてきた。

「もう大丈夫だよ」

 カノンは水をかいて浮きながら「うん」と答えた。 

 プールサイドにカノンを引き上げてみると、マックスに噛まれて手首にできた傷は浅いすり傷だった。  

「カノンちゃん、ごめんね、怖い思いさせて」

「ううん、全然。怖くなかったの」

「本当にごめんね。こんなことになって」

「大丈夫だってば。

 昨日、夢の中で私を呼んだのはやっぱりあのマックスだったの。

 私、マックスとお話したの。ホントよ。

 それに、私ね、お医者さんからずっと水泳は禁止されてたから、それもすごく嬉しかったの。

 見た?私、初めてなのに、少し泳げたでしょ?」


「えっ!」

「まさか」

「な、なんだ、それ?」

 ジュリと男のトレーナー、そしてケンは思わず聞き返した。

「私、心臓が弱いから。けど、少しも怖くなかったの」

 ケンはショックで頭を押さえた。

「本当に心臓弱かったのか」

「タイラー、私、この子を今すぐ病院に連れてくわ」

「うん、救急車を呼んでくんる」

 タイラーと呼ばれた男のトレーナーは駆け出し、ケンはカノンをかかえ上げ、ジュリはカノンの腕をこすって暖めた。



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