第2話 1イルカショー その1
1 イルカショー
ロサンジェルスは穏やかな天気の朝を迎えた。
いつものように起きたケン・フリードマンは、しかし、いつもと違うことを思い出し、ベッドの上で左の頬を押さえた。
ふらふらと洗面に立ったケンはつぶやいた。
「なんてこった、残ってるよ」
ケンは左の頬にくっきりと残る赤い腫れを押さえてキッチンに入ると、冷蔵庫の製氷器から氷を受け取り、タオルに巻いて頬にあてた。
それから牛乳と食べかけのピザで朝食を済ませ、ソフアに横になる。
ケンは昨夜のパトリシアとの決定的な喧嘩を思い出してぶつぶつと文句を言った。
「パティーときたら、俺よりあんなプロデューサー野郎がいいだなんて。
俺があいつは離婚調停中なんだぞって忠告したのに、
逆切れしやがって、別れるだと?」
ケンはトマトケチャップの大きなチューブを手にすると「大砲をくらえ」と言って壁に投げつけた。それはぶつかり破裂すると、ハートみたいな赤い絵を壁に残した。
ケンは叫んだ。
「なんだ、ケチャップまでからかいやがって!」
それから頬を冷やしつつニュース番組を何本か聞き流し、ケンはおもむろに携帯に手を伸ばした。
まずは発声練習で「やあ、ナンシー、んんっ、やあ、ナンシー」と繰り返してから、会社に電話を入れる。
(おはようございます、エス・エス・シー・アドバータイズ社でございます)
(おはよう、ケイト。ケンだけど、ナンシーにつないでくれる?)
(あら、ケン、ちょっと待ってね……はい、どうぞ)
(やあ、ナンシー、今日のスケジュールどうなってる?)
(今日の最重要!スタータワーホテル会長とのランチミーティングよ、まさか忘れてないでしょうね?)
(この俺が、まさか、ご冗談でしょ、キャンセルでも出てたら困ると思ってさ)
そう言いながら、ケンはまだ腫れが引かない頬をさすった。
(実は今、プレゼンの補足資料を集めてるんだ。
わかるだろ、ゲームで言うとトドメの一撃になりそうなやつ。それを揃えていくから、もうちょっとかかる)
(オーケー、じゃ、相棒のベアリーにも遅刻の言い訳をどうぞ……
ハーイ、ケン)
電話口がナンシーから後輩のベアリーのこもった声に替わると、ケンは言う。
(ちょっと資料がな、俺の頬を叩いて痕がまだ消えなくて、遅くなる、よろしく頼む)
(はいはい、資料ですね、待ってますよ)
(お前はいいやつだ、じゃあ後で)
ケンはふぅーと溜め息を吐いた。
時計は十時半をまわったところだ。
信号が赤に変わるとケンは愛車のフォード・エクスプローラーを停めて、ふと横の旅行代理店のウィンドウに貼ってあるイルカの写真を眺めた。
それはイルカが空に向けてジャンプしている真っ青なポスターで、上にシーパークと白抜きのロゴが入っている。
「いいなあ、イルカは」
つぶやいて眺めるうち、後ろのドアを誰かがノックした。
ケンが振り返ると、そこにはかばんを持って、赤いベレー帽を被った小学校六年くらいの血の気の引いた白い顔の女の子が立っていた。
ケンは電動ウィンドウを下げて「どうした?」と聞く。
「緊急事態なの、乗せてくれない?」
「緊急事態って?」
「これが救急車でないのはわかるわ、けど私、心臓が……」
少女は辛そうに左胸の前を押さえた。
「そいつはいけない、早く乗って」
ケンは後ろのドアを開いてやり、少女は倒れるようにシートに入った。
「で、病院はいきつけある?それともERに行く?」
ケンは自分がヒーローになったように感じながら、自分の車にサイレンと回転灯がついてないのを悔やんだ。
「とりあえず南へまっすぐ」
「オーケー、早く青になれ!」
ケンはホイールスピンさせて、信号が青になるや車をスタートした。
後部座席に横たわる少女は、なぜかのんびりした声で聞いてくる。
「おじさん、さっきさ、イルカのポスター見てたよね?」
「ああ、あったな、そんな悠長な話はいいから、脈拍は?血圧は?大丈夫?」
「ええ、大丈夫。おじさん、イルカがうらやましいの?」
少女は透けるような真っ白い頬につぶらな瞳を見開き、笑みを見せて聞いた。
とっさに(たしかにその通りさ)という言葉がケンの脳裏をかすめたが、それどころじゃない。今、自分は瀕死の少女を救うヒーローなのだ。
待てよ、これがニュースになると、自分はロスで評判の営業マンになるぞ。
いかんいかん、人助けの最中に結果を考えるとは、なんてさもしいんだ。
「それより、病院だ」
ケンは前を向いたまま言うが、少女が聞いてくる。
「痛いの?」
少女の言葉にケンは聞き返した。
「痛いのは君だろ?」
「おじさん、頬が腫れて痛そうだよ」
少女がケンの頬を指差すので、ケンは慌てて言い訳を考える。
「こ、これはだな」
「隠さなくてもいいよ」
ケンは、パティーに振られたことがばれた気がして思わず声を上げた。
「違うって、その、ほら、昨日、夜の博物館特別招待企画で、暗闇で熊の剥製が手を広げてたのに気付かないでぶつけただけだ。
それより君の病状は?」
少女はニッと歯を見せた。
「もう治まったみたい。ありがとう、おじさん」
「治まったって仮病かよ?」
ケンはムッとして車を脇に寄せて停めた。
「俺はね、忙しいんだ、ガキんちょの仮病に付き合ってる暇はないの」
後ろのドアを開けてやる。
「さ、降りて」
「こんなところで降ろされたって困るよ」
見渡しても道路だけで店も家もない。
「ま、それはそうだな」
ケンは仕方なくドアを閉めた。
「ありがとう、ごめんなさい。
私ね、今日、学校、さぼるんだ。」
少女は天真爛漫に言ってのけ、ケンは慌てて叱った。
「こら、いけないぞ、まじめなコが学校をさぼっちゃ」
「どうしていけないの?」
「それは、子供のうちは学校行って、勉強するのが義務なんだよ」
「ギムって?」
少女はがっかりしたようにため息を吐いた。
「義務ってわからないかな」
「おじさん、そんなカタブツみたいなこと言ってると、うわべだけ繕って、中身はエゴイストの悪い人になっちゃうんじゃない」
朝の十時から小学生に説教されるなんて想像もしてみなかった事態に苦笑しながらも、ケンは負けじと言い返した。
「じゃあ、学校、さぼって何したいんだい?」
「大人は学校、学校って言うけど、学校だけが勉強じゃないでしょ」
「そりゃあ、まあそうだけど」
「だから、私は、今日はおじさんと、さっきのイルカショーに行くって決めたの」
少女はそう言ってケンの肩をさすった。
「いいでしょう、これからおじさんにシーパークに連れてってもらって、
イルカショーを見て、学校で出来ない勉強するの。ねっ、
決ーめた」
「おいおい、勝手なこと言うなよ。
それにもっと初対面の相手は警戒しないとだめだ。
俺が人攫いのスパイだったらどうするんだよ?」
「おじさんはいいひとだよ。
朝からイルカショーのポスターにボーと見とれる、いいひと。
但し、仕事はできないし、出世コースとは無関係で、昨日彼女に振られたってとこでしょ」
ケンはやっぱり小学生相手でも昨夜のことがばれてしまうと知り愕然とした。
急速に仕事へ行くモティベーションが下がってゆく。
「……たく、やなこと言うガキだね、こう見えても俺は秘密情報部のスパイだぞ」
「ウソだね、本当のスパイが自分はスパイだって言うわけないもん」
「たく、可愛くないな。こう見えてもスパイ大作戦、ミッションインポシブル、トゥエンティフォー、エイリアスは全部演技できるくらい見てるんだぞ。
それに大学時代は格闘技同好会で空手二級だ。
素直じゃないガキんちょは嫌いだよ」
そこへハイウェイパトロールの白バイがスピードを落として近づいてきた。
ケンは別にやましいところはないのだが、なんと説明しようかと考え込む。
白バイ警官はは無線でひとこと連絡して、白バイを降りた。
さりげなく拳銃のホルダーのカバーを外すのが目に入る。
「どうしました?故障?」
ケンはなぜか頬を手で隠して、
「いや、ただこの子とドライブの途中、地図を見ようと思って」
そこで少女も気を利かせて言う。
「これからシーパークに行ってイルカショーを見るの。」
少女の屈託ない声に警官は安堵したようだ。
「そう、この人はお嬢ちゃんの何になるのかな?」
「私は姪だから、親戚のおじさん」
「そう、じゃ気をつけて、楽しいイルカショーを」
警官は無線で連絡すると白バイにまたがり、走り去った。
少女はホッとしたケンにたたみかける。
「おじさんさ、なんだかんだ言って、イルカショーが嫌いなわけ?
それって人間じゃないって言うのと、ほぼ一緒だよ」
「そういう問題じゃないの」
「おじさんもその顔じゃ仕事にならないよ、会社さぼってしまおうよ」
「仕事できるって」
「地下鉄の線路のお掃除なら暗いからできるけど、
まさか、えーと、広告会社の営業さんが、そんな、昨日振られました丸出しのおかしな顔で出てきたら」
「こら、ひとのカバンを勝手に開くな」
ケンが言うのに、少女は手帳を勝手に開く。
「なになに、今日の予定はスタータワーホテルの会長か。
私が会長さんなら、おじさんの顔を指差して十五分は笑い続けるね。」
「……」
「そいでもって契約はしないな。
もしかしたら笑いすぎた会長さんの盲腸の古い傷口が開いて、損害賠償を請求されるかもよ。そしたら今日だけは仕事しない方が会社のためだよ。」
「不吉なこと言うなよ」
「契約はもう出来上がってて、今日はちょっとした挨拶だけでしょ?
変な顔で会わない方がいいに決まってる」
そう言われるとそうなのだ。ナンシーとベアリーだけでも十分用は足りる。
「ねえ、連れてってよ、お願いしますう、連れてってえ」
ケンは少女に腕を掴まれながら、イルカショーを思い浮かべた。
たしかに小学生に昨夜の出来事を言い当てられるような顔で営業の仕事するのは難しいかもしれない。
イルカショーで気分転換するってのも、神が与えた休息かもしれないな。
ケンはふうと息を吐いてうなずいた。
「わかった、わかった、連れてゆくから、もう手を放せって」
「おじさん、ありがとう、私はカノン・キャロライン」
「カノンて大砲のカノン?」
「バッカじゃない?
パッヘルベルのカノンからママがつけてくれたの」
「そうか。私はイーサン、現在使ってる仮の名はケン・フリードマンだ。
最初に言っておくが、足手まといになったら当局は一切君を助けてやれないから、そのつもりで。いいね?」
カノンは呆れながらケンの差し出した手に握手してやった。
「わかったわ。イーサン、行こう」
会社をさぼった男と学校をさぼった少女は一路シーパークに向かった。