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ゼッキョウ倶楽部  作者: 歌川 くじら
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ゼッキョウ倶楽部への招待

ゼッキョウ倶楽部に行きましょう、とサガミさんと私はどちらからともなく言って連れ立って夜の町を歩いていた。腕時計は午後9時35分を過ぎた所で、このまま歩いて行けばちょうど良い時間に、到着できるだろう。目的の場所に近づくに連れて、2人とも口数が減りはじめた。やがて私達はあるビルの前で足を止めた。そうしてゼッキョウ倶楽部が入っているビルを見上げた。四階建ての建物だが、看板らしきものは一切無い。

周囲の雑居ビルにはスナックやBARの看板ばかりあがっていて酔客やホステス達の、舞い上がらんばかりの笑い声や歌声、それにそういった場所特有の酒気を孕んだ猥雑な空気が漂っている。

しかし、そんな中にあって私達が眼前にしているビルだけが違う世界にあるような、静寂をまとっていた。私達は黙って頷きあうとサガミさんを先頭に階段を登りはじめた。

中に入ると驚かれるだろう。なぜなら、階段は四階に上がるためだけにあるからだ。

一階から四階まで螺旋階段になっていて、円筒状の中心部を廻って四階の高さまで昇るのだ。

外観は他のビルと変わらない四角い箱型だが中は全く違う構造である。しかも窓が一切無いため、際限なく階段をのぼって行くような錯覚に囚われる事もしばしばある。息が詰まりそうだ。

少し息が切れはじめた頃に、サガミさんと私は四階に辿りついた。知る人ぞ知るゼッキョウ倶楽部の入り口である。


黒く四角い扉は、冷ややかな金属製で無駄な装飾は一切なく、ドアノブも深い黒色である。ドアノブを掴むと、つるりと滑らかで気味が悪いくらいに手に吸い付くような気がする。

サガミさんが私の肩を掴んで、首を横に振った。私はハッとドアノブから手を離して頭上を見上げた。

「駄目ですよ。まだ22時になっていませんから。」

そうだった。扉の上には煤けた色の樫の一枚板が重々しく掛けられていて、その板の中央をくり抜いて銀縁の丸い時計が埋め込まれていた。その短針はまだ12の手前、二分早い。

ゼッキョウ倶楽部には幾つか会則があり、22時より前に扉を開けてはならない、というものがあった。会則は絶対であり、破れば即、脱会である。いや、噂ではあるが身もよだつような恐ろしいペナルティが与えられるとか…

私は待ち遠しくて、頭上の時計をじっと眺めていた。

「待っていると、たかだか二分程度でも長いものですね。」

サガミさんは言葉とは裏腹に落ちついた低い声でいった。


私がゼッキョウ倶楽部を知ったのは半年前になる。その頃の私は暗い沼の底へと、まさに沈んでいく最中であった。絶望という底無しの沼は、ただそこに在って私達がうっかり足を滑らせ、あるいは誰かに突き飛ばされて落ちてくるのを待ち、後は淵深く呑み込むだけだ。あくまで私達が勝手に落ちるのだ。だがそれだけならば、まだ終わらない。何より厄介なのは、諦めてしまうことだ。絶望で人は死なない。絶望に絡め取られ、足掻くのを諦めた時、死は緩やかに訪れる。心が、死ぬのだ。


私は当時、借金まみれで様々な方面から金を借り、債務という鎖で幾重にも縛られて、首が回らないというあの慣用句を身を持って体験していた。なぜかと言えば、父の興した小さな町工場が不景気の津波に、あっという間に飲みこまれたからだ。なんとかしようと、方々を駆けずり回った父は身体を壊してしまい、当時、中小企業の営業をしていた私は母に懇願されて父に代わって社長になった。それがケチのつき始めであったのは間違いない。

そもそも、その時点でなんとかしようがなかったのだ。債権者や身内であるはずの従業員からも尻をつつかれ、慣れない経営に右往左往する暇も与えてくれない。私のスタートラインは、崖っぷちの寸前に引かれていたわけだ。後は転がり落ちるだけ、自殺志願者じゃないの。妻はそう皮肉った。

その通りだと思う。だが、病院のベッドで寝付いた父の姿に、気がつくと任せろ、と言葉が口をついていた。

そして、救いようのない日々が始まった。会う人会う人に頭を下げ、罵倒され、軽蔑の視線にさらされ、あらゆるものから絶えず袋叩きにされるような生活。それでも、現実は変わらない。

借金返済の目処は立たず、

身も心も擦り潰されて行く中で、私の支えであった妻は子供を連れて実家に帰ってしまった。


それからの私は、もうどうにでもなればいいと、自暴自棄になり会社を放り出して昼間から、強くもない酒を飲んで過ごした。

よろよろと千鳥足であてもなく歩き、後生大事にウィスキーの小瓶を抱えている。そんな自分が、ショーケースに写り込んだ時には、私は間違いなく自殺という言葉を意識し始めていたように思う。

そして何処かの路上で私は、倒れてしまい、喚き呻き、道行く人に醜態を晒して、避けられた。私は後悔と現実を罵倒しながら、意識を手放した。


気が付くと何処かの会社のオフィスらしき所で、ソファに寝かされていた。

「おや、気がつかれましたか。」

「あ、はぁ…」


私は訳が解らず、気の抜けた返事をした。声の主は、私と同じぐらいの年頃の四十男で、サガミと名乗った。背の高いスマートな印象のビジネスマンであった。このオフィスはサガミが経営する会社のものらしい。

「と言っても、社員は私と事務員が一人の小さな会社です。」

そう柔らかくサガミは笑った。私はとにかく自分の今の姿が、恥ずかしくなり、しどろもどろに謝罪の言葉を口にした。

「いえいえ、貴方が倒れていたときは驚きましたが、だいぶ酔っておられたのでとりあえず、ここに。」

どうやら、私はサガミの会社の前で倒れていたらしい。

「いや…お恥ずかしい所をお見せして…。」

「ああ、いえいえ。人間、何をしても上手く行かないときもありますよ。」

「…そう仰るが、貴方は小さいながらも、こうして会社を立派に切り盛りされています。」

「立派か、どうかはともかく明日の食事をことかくことはありませんね。」

「そうでしょう。それに比べて私という人間は、駄目な奴です。落ちこぼれです。社会に出て十数年、安穏とサラリーマンをしてきました。その経験ばかりをもって、なんとかなるだろうと考えたのです。挙げ句の果てに妻も子供も私のもとから去ってしまいました。」

私は幾分、サガミという男に、お前に何が解る、という怒りを滲ませながら、これまでの出来事を熱に浮かされたように蕩々と語りだした。サガミもそんな私の胸の内に気づいていたのだろうが、ただただ親身に、私の言葉にいちいち頷きを返してくれた。やがて話を語り終えると、疼くような熱を孕んだ怒りは、すうっ、と冷めていった。私は急に申し訳無くなり、サガミに頭を下げて謝った。

「しかし、貴方に話したおかげか、なんだか少し気持ちが軽くなった気がします。」

「それは良かった。しかし貴方、今いっ時、楽になった所でまた明日から同じことの繰り返しではありませんか。」

「…そうでしょうね。でもどうしろというのです。何もしない訳にはいかない。」

私がそう言うと、サガミは薄っすらと笑みを浮かべた。

「確かに。今、貴方は私に何もかも話して楽になったと仰った。ですがそれは、血が流れ出した傷口を手で押さえたようなものです。すぐにおびただしい血が噴き出して、やがて死に至るでしょう。貴方は今、何もかも悪い状態で、どうした所でいずれ駄目になってしまいますよ。正しい方策を打たないといけない。」

「ですから、そんな方策があるなら知りたいものです。」

サガミの持って回った言い回しに、私は声を荒げて、吐き捨てた。

「それがあるのですよ。貴方のその怒り、苛立ち、貴方が抱いて溜め込んでいる負の感情の澱が運気を下げているんです。ヨクナイモノ、と私は呼んでいるのですが、そういった人間の恨みつらみに惹かれて、ヨクナイモノはやって来ます。そして、人は息をする度にソレらを吸いこみ、気付かない間に体の内がソレらで満たされる訳です。そうすると、なにをしても上手くいきません。ヨクナイモノはヨクナイモノを呼び、悪循環を引き起こします。」

私はぽかんとしてサガミの顔を見る。何を言い出すのか、馬鹿馬鹿しい。

「ちょっ、待って下さい。ヨクナイモノ?は、いや、貴方には介抱して頂いた恩ができましたが、そんな、貴方、妙な勧誘なら辞めて頂きたい。」

「あぁ、そう思われるのも仕方ないですね。私自身、この話を聞いた時は貴方と同じように言いました。実の所を言いますと、私もつい半年前は貴方と同じように八方塞がりの苦境にいたのです。」

「私と同じように?」

「いえ、もっと酷かったかも知れません。実際に私は自殺未遂をやらかしまして、これは調べてもらえば解るはずです。新聞の片隅ですが、記事になりましたから。ですが、ある場所でヨクナイモノとソレらへの対処方法を知ってからは、ぐるり、と百八十度、運気が良い方を向いた訳です。」

私は語るサガミの顔を凝視していた。からかわれているのではないか?だが、サガミは動じることなく穏やかに微笑んでいた。

「そうですね…貴方さえ良ければ、その場所にお連れしてもいいと思っているのですが。」

「…」

どうするべきか?そのときの私は、沈黙の中でひたすら考えていた。

常識で考えれば、こんな誘いに乗ることほど馬鹿馬鹿しいことは無い。妙な物を買わされ、利用され骨の髄までしゃぶられた例は枚挙にいとまない。

そして、そういった詐欺に嵌るのは、そのときの私のような四面楚歌で冷静さを無くした人間だ。それこそヨクナイモノにつけ込まれる余裕の無さから生まれる隙な訳だ。だが、しばらくの熟考の後、私は言った。

「もし…それが本当であるなら、助けて頂けますか?」

それが正しい選択であったと、今の私は考えているが、このときの私は

針のむしろのような、苦痛と声無き悲鳴を上げ続ける心の安寧を得るためであれば、どんなことでもしたに違いなかった。

そんな私をサガミは低く静かな声で、

「ではゼッキョウ倶楽部にお連れしましょう。」

そう言って右手を差し出してきた。私はおずおずと、差し出された手を握り返した。その手は暖かで穏やかなサガミの顔つきとは裏腹に、ひどく冷んやりとしていた。


こうして私はゼッキョウ倶楽部への招待を受けたのである。

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