9,翁の面
ある大会社の社長が奇病にかかった。
顔面神経痛で顔がしわだらけになったまま強張って元に戻らないのだ。
この社長は一代で大会社を築いた立志伝中の人であったが、その成功の裏では人の恨みを買うようなことも数々行ってきたらしい。
しわだらけになって固まった社長の顔は、ちょうど能の、これは女であるが、山姥の面のようなすさまじく痛みに満ちたものだった。
その面があまりにすさまじかったので、これも長年の因果の祟りだろうと、友人に勧められて格式高い神社でお祓いを受けることにした。
社殿で神主のお祓いを受けている最中、社長が苦しみだした。
「うおおおお、痛い、痛いぞ、痛くてたまらんぞ!」
そうして顔を力一杯押さえてもだえ苦しんでいると、突然、バカッと、顔の皮が剥がれ落ちた。
その場にいた者は皆わっと驚いたが、はあはあ肩で息をする社長は、汗だくの顔を上げると自分でも驚いたようにすっきりした調子で言った。
「痛みがなくなった。実にさわやかな、生まれ変わった気分がするぞ」
社長は80近い高齢だったが、皮の剥がれた顔は血色よく艶々して、本当に生まれ変わった、とまでは言わないまでも、ずいぶん若々しくなっていた。
社長は大いに喜び、神社に多額の寄進をした。
ところで剥がれ落ちた顔の皮だが、これが丸々顔面そのままの、本当に木を彫った能面のようで、社長はこれをそのまま神社に預けて保管してもらうことにした。
ところが。
しばらくするとまた顔面神経痛が社長を襲い、社長はまたも強張ってくる顔面の皮に苦しまねばならなかった。
今度もまた神社でお祓いを受けると、顔面の皮はパカッと剥がれ、社長の顔の痛みはぴったり収まった。
社長はまた神社に多額の寄進をして剥がれた能面状の皮を保管してもらったが、二度目となるとどうも腑に落ちないすっきりしない気持ちが残った。
しばらくするとまた顔面神経痛が社長を襲った。
もちろんまずは病院で診てもらったが、原因は分からず、薬も効かなかった。
痛みに筋肉が引きつけを起こして、出来たしわがそのまま固まり、またも社長の顔面は恐ろしい鬼婆ならぬ鬼爺になってしまった。
こうなっては業務にも差し障り、社長は心残りながらも社長職を退き、名誉職的な会長に納まった。
今回も神社でお祓いを受けると面の皮は剥がれ落ちて痛みは収まり、会長は神主に相談した。
これはもしや自分の社長職を狙う下の者どもが呪いを掛けているのではないか、と。
神主は困った顔で会長をいさめた。これまで預かった二つの面と今剥がれ落ちた面を並べて見せ。
「ご覧なさい、わずかずつではありますが、苦痛の相が薄れてきておりましょう?
失礼ながら聞けばあなたはこれまでずいぶん人の恨みを買ってきたそうで、これはやはりその恨みが膿となって表に出てきた物ではないでしょうか?
むやみと人を疑ったり蔑んだりすることをやめて、善行を積むよう心がければ、この現象も収まっていくのではないかと思いますよ?」
なるほどとうなずいた会長はそれならばといつもの十倍の寄進を申し出た。神主はそれを断り、
「いいえ。当方寄進は十分お受けしております。そのお金を恵まれない人のための福祉活動に使われてはいかがですか?」
と勧めた。
しばらくするとやはり顔面神経痛が再発した。
会長はあまり面白い心持ちではなかったが仕方なく福祉団体に多額の寄付をしてやり、結局また神社でお祓いを受けて醜い恨みの面を剥ぐ羽目になった。
神主は福祉団体への寄付の話を聞き、寄進は断り、一日も早く良くなりますようお祈りいたしましょうと、会長の面を丁重に預かった。
ブツブツ言いながらも、会長もいくらか痛みが収まってきているように感じていた。
福祉団体から多額の寄付のお礼を言われ、是非というので病院で長期の入院をしている子供たちを見舞ってやった。
会長は職員から自分の寄付がいかに彼らのためになっているか具体的に説明を受け、子供たちからも感謝の言葉を贈られたが、彼らの病気とその闘病生活というのは会長にとってかなりのショックだった。
そうか、世の中にはこんなに苦しんでいる人間がいるものなのかと、自分が顔面の奇病に苦しめられて我が事のように感じ入った。
それ以来会長は本腰を入れて福祉活動にいそしむようになった。
病院の子供たちの環境はずいぶん改善され、最初は大人に言われて形だけだった感謝の言葉も子供たちはニコニコ笑って会長にお礼を言った。
その間も会長は2度、神社で面を剥いでいたのだが。
一人の子供が会長のしわの顔を見て言った。
「会長さんのお顔はこぶ取り爺さんのいいお爺さんのお顔だね?」
しわが張り付いたのは相変わらずだったが、その表情は、鬼婆からすっかり好々爺に変わっていた。
七枚目の面を剥いで数日後、会長は自宅で就寝中に亡くなった。
心臓発作だったが、高齢で体力が弱っていたこともあって、一瞬で苦しまずに亡くなったらしい。
そのことは穏やかな死に顔が物語っていた。
会長の死に顔は老人にしては肌がつるんとして、実にきれいなものだった。
会長が亡くなったことを聞いた神主は七枚の面を並べて感慨深く思った。
おそらくは、自分の死期の近いことを思った会長が、これまでの因業な人生を振り返り、このまま死ぬのが恐ろしくなったのではないだろうか。
身に染みついた因業を、やはり膿のように絞り出したのが、これらの面ではないだろうか。
しかし、最初は苦痛に満ちていた面が、おしまいの一枚はすっかり柔らかな良い表情になっている。
身に染みついた因業をすっかり絞り出し、安心した、軽やかな気持ちで死んでいったのだろうと、神主は思ったのだった。
おわり