8,うっかり居眠りしたおじいさん
日曜日の午後、図書館での出来事だ。
金がないので暇なときは近所の県立図書館で本を読んで過ごすことが多い。
ネットの普及なんかで一時期図書館の利用者数はだいぶ下がったらしいが、人気回復におしゃれな喫茶店を入れたり、以前は専門書やお堅い文学全集みたいな蔵書ばっかりだったところに若者向けのヤングアダルトコーナーを設けたりして、おかげですっかり利用者も増えたようだ。わたしもその若者向けの娯楽小説を目当てに通っている。
うちの県は箱物にやたら予算を付ける伝統があって、この県立図書館もなかなか立派な物だ。
閲覧室は中央の円形カウンターから書架が放射状に配置され、外の湖を望む壁が全面ガラス張りになり、その前に椅子が並べられて本を読めるようになっている。
ガラスに面して肘掛け椅子が並んでいるのだが、わたしはどうもこの椅子は窮屈な感じがしていつもはその後ろの長椅子にゆったり座るのだが、この日はお天気がいいせいか混んでいて、長椅子にもぼちぼち先客が座っていた。間に座るのも嫌で、仕方なく一つだけ空いている肘掛け椅子に座ることにした。
やっぱり窮屈だなあと思いながら先週の続きを読み出した。
湖まで5メートルほどあって、ガラスの外は芝生が広がり、その外をぐるっと遊歩道が巡っている。本を読んでいると視界の上を散歩する人の影が横切り、そのたび集中力をそがれて困った。
困ったと言えば。
これまた人気回復策の一環で幼児ルームがある。絵本の読み聞かせイベントが定期的に行われているようだが、幼い子供に「し〜〜」と言ってもなかなか聞いてくれるものではなく、時折子供の騒ぐ声が聞こえてきたりする。
ま、子供はいい。子供というのは声を上げるもので、幼いうちから絵本に親しむのはいいだろう。
が、これが年寄りとなるとちょっと、うるさい。
司書官に求める本の問い合わせをする声もでかいが、ま、それも耳が遠くなっているんだろうから目をつぶろう。
ゲホゲホやたら咳をされるのも迷惑だが、ま、乾燥した所でせいぜい風邪をひかないように思う。
しかし、これはちょっとなと思ったのが、となりの椅子に座ったじいさんだ。
何やら不穏な音が聞こえてきて、おいおいと思っていたら、いびきをかきだした。
グガーーーー、グガガガガ……、グガーーーー、グガガガガ……、
と、うるさい。
そのうちガクンと姿勢を崩して慌てて目を覚ますかと思ったが、なかなか収まらないどころか、いびきはすっかり安定して、本格的な睡眠に入ってしまったようだ。
周りがサワサワしているのが分かる。わたしも『あちゃあ〜』と思いながら、間に彫刻の置物があるので体を前に倒して横を覗いてみた。
80に行っていそうな、黄色がかったあまりきれいとは言えないあごひげを伸ばした痩せたじいさんだ。
よほど読書家なのか足下の床に3冊ほど本を積んで、膝の上に1冊を開いて、肘掛けに肘を置いたすっかり安定した姿勢で顔を胸に埋めるように
「グガガガガ」
といびきをかいている。
午後のちょうどいい時間、眠くなる気持ちも分かるが、「図書館ではお静かに」だ。
まるっきり目を覚ます様子のないじいさんに、長椅子で本を読んでいた男性がとうとう我慢できずに立ってやってきた。30くらいのいかにも読書家らしい神経質そうな人だ。
「もしもし。起きてください。もしもし」
と、苛立ちを抑えた声で呼びかけ、肩を軽く揺すった。それでもなかなか
「グガーーーー」
といういびきは止まらない。
「もしもし」
つい男性の声も高くなり、肩を揺さぶる手も激しくなった。すると、
「んが!」
と驚いて、じいさんが立ち上がった。自分がどこで何をしているんだか辺りをきょろきょろして、さすがに恥ずかしかったのだろう、慌てて出口の方へ歩いていった。
周りにいる者たちは、わたしも、じいさんを起こしに来た男性も含めて、びっくりして、唖然としていた。
グガーーーー、グガガガガ……、
といういびきが、止まっていないのだ。
いびきの主は、相も変わらず、肘掛け椅子の中で居眠りを続けている。
いったいこれはどういうことだ?
たしかに、じいさんはびっくりして立ち上がり、慌てて歩み去っていった。
しかしじいさんはこうして居眠りを続けている。
こうしてここにいる以上、さっき歩いていったじいさんは、我々の幻覚だったのだろうか?
バンバン! とガラスが叩かれてびっくりして振り向いた。
わたしたちはまたも愕然とさせられた。
さっき出ていった?じいさんが、真っ赤に怒ったような顔をして、バンバンと両手でガラスの壁を叩いている。
起きろ! おい、起きないか!
と、じいさんはガラスの向こうで叫んでいる。その目の前には、グガーーーー、といびきをかいたまったく同じじいさんがいる。
二人は顔から服そうから、まったく同一人物としか見えない。
そもそも、男性に声をかけられ肩を揺さぶられたじいさんから、もう一人のじいさんが分離して立ち上がったように見えたのだ。
外でもう一人の自分に、起きろ! 起きろ! と、ガラスを叩いているじいさんは、なんなのだろう?
奇妙な現象が起きた。
バンバン叩いているガラスの、バンバンと鳴るタイミングが、じいさんの叩く手と、だんだんタイミングがずれ出したのだ。手が叩いて、半拍置いて、バンとガラスが鳴り、半拍が1拍になり、だんだんずれが大きくなっていく。最初ははっきりバンバン鳴っていた音も、次第に、風であおられるようなぼやけた音になり、バンバンというよりブルブル震えるようになった。
顔を赤くしたじいさんはひどく泡を食って焦っているようだった。
幽霊は足がないという。
外でガラスを叩くじいさんは足下から薄くなって、足が消え、膝上まで透明になって、全身が薄くなって、ガラスを叩く手が消えて、じいさんは泣きそうになり、ガラスを叩いた拍子に、スルッと、ガラスを突き抜けて頭からこちらに飛び込んできた。
見ているこっちもびっくりしたが、突き抜けたじいさんも目玉が飛び出そうにびっくりして、自分の体を見ていた。
じいさんは哀れにくしゃっと顔を歪め、すうっと、消えてしまった。
途端に、椅子で居眠りするじいさんのいびきが変わった。
それまでも大きな音でかなり迷惑だったが、今は
「グゴゴゴゴゴ、グゴゴゴゴゴゴゴゴ、」
と、地鳴りのような大声になっている。
後ろに立って引きつった顔をしていた男性が、
「あなた、大丈夫ですか? もしもし? もしもし?」
と呼びかけたが、地鳴りのようないびきはますますひどくなった。
明らかに異常だった。
異変に気づいた司書官がやってきて、これはいけないと判断して、さっそくカウンターに119番しに走っていった。
結果を言うと、老人は脳内出血で病院で亡くなったそうだ。
家族が駆けつけたが、残念ながら意識は回復しないままお亡くなりになったそうだ。
びっくりして自分の体から立ち上がってしまったもう一人の老人は、あれは、老人の魂だったのだろう。
文豪芥川龍之介が死ぬ前にもう一人の自分=ドッペルゲンガーを見たという話は有名だ。老人の読んでいたのが芥川だったか確かめなかったが、文豪と同じ体験を経て亡くなったというのは、読書家としては本望だったかも知れない。
終わり