二十一歳の私は、ようやく泣く事を覚えた
最近、泣いた事はありますか。少し大人になったのか、近頃の私は涙腺が弱いです。
泣きたい時に泣けるのって、きっと幸せな事です。流せるだけの涙を流したら、きっと次にいけるはず。
メリークリスマス。柔らかな一時を、あなたにも。
「表情がない、か」
午後三時を過ぎた大学の食堂は閑散として、普段より広く感じた。
大きなガラス窓からは横倒しになった陽の光が差し込んで来るが、その熱量はわずかなものだ。
昨今の就職戦線は厳しく、大学三年生の私も例外ではない。就職ガイダンスと個別面談を受け終わり、夜のアルバイトに備えて遅い昼食を取っていた。
自宅に帰る手もなくはないが、アルバイト先とは反対方向である。それに、この食堂は学生のお財布に優しい価格設定なのだ。
手頃な席に座り、かけうどんに手をつける。二五◯円。身体を温めようと、少し多めに七味唐辛子を振り掛ける。
十二月。壁際に設置されたテレビは、今年もクリスマス特集をしている。BGMにはお馴染みのクリスマスソング。家カフェ、家スイーツの次は、家パーティが流行らしい。
ミニスカサンタのレポーターが、家パーティの盛り上げグッズをこれでもかと紹介している。大げさな身振り手振りに、コロコロと変化する表情。入社試験の面接でも、あれぐらいやらないと勝ち上がっていけないのだろうか。
声が小さい、表現力がない、熱意がない、やる気が感じられない。うどんを食べる箸を休め、私は先ほどの面談で言われた事を思い返していた。
確かに、そういった要素を豊かに持ち合わせているとは思えないが、それだけが全てなのだろうか。社会は余程厳しいところなのだろうか。今の私には、その答えを導き出す手段すら思い当たらなかった。
華やいだ世界を切り取ったテレビの近くには、私の知らない女子学生が数人集まっていた。話し声が聞こえて来る。姦しいとは良く出来た漢字だと思う。
「ねーねー、昨日のドラマ見たー?」
「『抱かれて死にたい』の最終回だよね?」
「あれのラストシーン、ヤバイよねー」
「タイトル見てやっぱり死んじゃうのかなーってずっと思ってたんだけど、やっぱりそうだったんだねー」
「でもあんな最期ならアリじゃない?」
「断然アリだよー!」
「だよねー、アタシ超泣いちゃった」
「私もー。家族と一緒だったから恥ずかしかったし」
「マジ感動ー」
彼女達の声を振り切るように首を振り、止まっていた箸を持ち上げ、またうどんを食べ始めた。麺は少し伸びてしまったし、つゆは冷めてしまった。
私は、泣く事が出来ない。正確には、泣かなくなってしまった。
原因は、父だ。私には母親がいない。父の運転する車で事故に遭い、死んでしまった。
泣く事が出来ない。感情が薄い。表情に乏しい。あの事故さえなければ、私はこうはならなかっただろう。
テレビの音声が聞こえる。ようやくパーティ特集が終わったと思えば、次はイルミネーション特集だった。
ばかばかしい。私は太くなったうどんを手早く飲み込み、席を立った。
夜の帳が下りた、高速道路のサービスエリア。その広いトイレで、私はアルバイト前の身だしなみチェックをしていた。
十八時から二十四時まで、飲食店のアルバイト。父は帰りが遅くなる事を心配していたが、二十二時以降の時給アップは魅力だったし、家の近くまでバスも出ているからと、なんとか説得した。
比較的大きなサービスエリアなので、お客様も多くご来店される。店舗前にある、高さ十メートルのクリスマスツリーがその勢いを物語っている。
このツリーは車で出かけるカップルやファミリー向けに、写真の撮影スポットとして観光ガイド等に取り上げられている。写真が暗くなるのを防ぐスポットライトにタイマー式の備え付けデジタルカメラまで設置された、一種の名所として連日訪れる人が絶えない。
私は短く切りそろえた黒髪を軽く手櫛で直し、薄い唇にリップクリームを塗る。母が死んでからずっと父との二人暮らしだったため、料理は日常だ。そのため、この店でも接客ではなく調理を担っていた。
とは言え場合によっては接客に回る事もある。笑顔を作ってみた。引きつった、不自然な笑顔だった。二重の瞼に目やにを認めて取り覗く。作り笑顔を諦めて、力を抜く。
表情の暗さも相まって、お世辞にも美しいとは言えない。どこにでもある普通の顔だと思うが、父曰く私は母に似ているらしい。
母が亡くなったのは、私がまだ三歳の頃だ。そのため、私の母に対するイメージはぼんやりとしている。ほとんど、写真でしか知らないようなものだ。
私が成長するにつれ、この顔立ちはだんだん母に近付いてきていると、父は教えてくれた。だからこそ、私の涙が辛いのだとも。
母の死因は、出血多量によるショック死だったそうだ。体中の裂傷から血液が流出し、内臓の各器官に流れなくなった事による機能停止。
薄れ行く意識の中で、母はただただ泣いていたと言う。死への恐怖、父の事、私の事、母の両親の事、友人の事。失う全てに対して、母は泣いていたと聞かされた。
父は自分の運転が母の命を奪った責任を強く感じ、ふさぎ込むようになったという。年月が経ち、小学生になった私が母に似るようになると、私の泣き顔が事故の記憶を強く呼び覚ますようになったらしく、私がふとしたことで泣き出すと、悲しそうな顔を浮かべて逃げるように別室へ行くようになってしまった。
幼かった私には父の行動が理解出来なかったが、それでも私が泣く事によって父が悲しくなる事は子供心に分かった。
私の表情が乏しくなったのはそれからだ。笑顔を貼り付け、明るく振る舞えるほど器用ではなかったため、感情を押し込むようになった。
他人とのコミュニケーションは取れたが、周りからは暗い子、怖い子だと思われていただろう。
その分勉強は最低限頑張るようにしていた。一人でやれる事だったし、何も出来ないでは困ると思っていた。
ふと、腕時計を見る。ベルトの細いこの腕時計は、父にもらった物だ。薄い桃色の針が、アルバイトの入り時間が迫っていると教えてくれた。
私は小さな化粧ポーチをカバンにしまうと、鏡の前を離れた。
アルバイトが終わり、私は最終バスに乗って帰宅した。星は見えない。明日は雨だろうか。
十二月の夜空は冷える。茶色いダッフルコートの襟元を寄せて、寒さから少しでも身を守ろうとした。
バス停から自宅への僅かな距離ですら、冬の冷たい空気は私を凍えさせる。
帰ったら暖かいココアでも作ろう。そんな事を思いながら階段を上り、マンションの二階にある自宅へとたどり着いた。
父は先に寝ていたが、部屋は暖かかった。冷蔵庫を覗くと、鍋に入ったカレーがきりりと冷えていた。
二人暮らし用の小さな冷蔵庫だが、いつもより食材が多く入っていて、鍋が窮屈そうに見える。
年の瀬で大掃除などばたつくため、早めに買い込んだのだろう。私は特に気にする事もなく、カレーをレンジで暖め、晩ご飯を食べた。
洗い物を片付け、私は自室に入ると手帳を開いた。明日は冬期休暇前の最後の講義。ここ一週間、学生も教授も締まりがない。
連休の前などいつもそうだ。早々に自主休講を決め、三連休を四連休や五連休にしてしまう学生もちらほら。
私も今まで真面目にこなして来たとは言え、やはり気の乗らないのはしょうがない。よりによって明日は朝から晩までぎっしりと授業が詰まっている。
小さくため息をつくと、私は床に付いた。
目覚まし時計が鳴るよりも早く、私は目が覚めた。雨音がする。冬の雨は、アスファルトに冷たく刺さる。
雪ならちょっとはマシなのに。ぼんやりとそんな事を思いながら、私は身体を起こした。
雨は苦手だ。癖のある髪がまとまらない。私の事を見ている人間は少ないだろうが、それでも失礼な程乱れていてはなんとなく申し訳ない。
父は既に家を出たようだ。私は食パンを焼き、インスタントコーヒーを作って、簡単な朝食を済ませた。
紺色の傘を持って、家を出る。部屋の中に居た時より、雨音が強く聞こえる。鍵を閉める手が、既に冷たい。
階段を下り、バス停へと向かう。マンションの前を通った車が、水たまりを盛大に弾き飛ばして行く。
どこかで水をかけられないよう、普段より周りに気を遣って歩く。ふと振り返った先には、見慣れた顔が有った。
「お、アヤじゃん。久しぶり」
声を掛けてきたのは、マコトだ。青い大きな傘をさしている。私と同じ二十一歳で、家の近い、いわゆる幼馴染み。
黒髪をシンプルに短く切った爽やかな外見は、いかにも今時で、女の子にモテそうな感じがする。
「久しぶりだね、マコト」
「浮かない顔してどうしたのさ」
「やっぱり?」
普段通りの顔をしていたつもりだったが、マコトには分かってしまうらしい。
「アヤは——これから大学?」
「うん。冬期休暇前だから皆やる気ないんだよね。私もだけど」
「そっか」
自身の大学時代を思い出すように、マコトは空を見上げた。
「まぁしょうがないよな。俺もそうだったし」
彼は短大を卒業し、今はスポーツインストラクターをしていると聞いていた。
「マコトは休み?」
「休みー。平日じゃないとなかなか休みが取れないんだよね」
「サービス業だとそうなるよね」
「うん——」
弾まない会話。しかし、マコトは何かを言いたげだった。
「何か、気にかかる事でもあるの?」
「うーんと、そのー、だな……」
マコトには珍しく、歯切れが悪い。
「どうしたの?」
言い淀んでいたマコトは、意を決したようにこちらを見ると、
「よし、これ持ってて」
と、カバンと傘を私に押し付けてきた。そして、ずぶぬれになりながら、雨の中をどこかへ駆けて行った。
戻ってきた時、彼は運転席に居た。雨の住宅街には少し眩しい、高級感のある白いセダンが滑り込んできた。
「親のだから、ちょっとカッコつかないけどね」
そう言うと彼は私から荷物を奪い、雨に濡れないように傘を持ちながら助手席のドアを開けてくれた。
「さあどうぞ、お嬢様」
どこかの執事様のように腰を折るマコト。少し上げた顔には、水滴の付いた黒髪といたずらっぽく緩む唇があった。
私はなんだかふわりと浮かんだ心地がして、その言葉に甘える事にした。
車の中は、静かだった。フロントガラスに叩き付ける雨も、少し遠のいて聞こえる。
「シートベルトはした? よし、じゃあ行くよ」
マコトはそう言うと滑らかにギアを変え、車を発進させた。
「勢いで学校サボらせちゃったけど、大丈夫だった?」
ちらりと、マコトがこちらを見てくる。
「いつも皆出席だったし、試験は先週終わってるから大丈夫」
「そっか。ならよかった」
「マコトこそ、私なんかにかまってていいの? 彼女さんとかいたりしない?」
「いないいない」
左手を大きく振り、私の言葉を打ち消すマコト。少し、意外だった。
「アヤこそ、大人な彼氏とかいるんじゃないの?」
「まさか」
どきり。予想外な言葉に戸惑う。普段、恋愛の話などする機会がない。幼馴染みとは言え異性とこんな話をした事など無いに等しい。
「それはそうと、仕事、ってどんな感じ?」
「仕事かー、まぁ普通だよ」
普通って何だろう。私は疑問を抱く。車は二車線の国道に乗った。天候が悪く、全体的に速度は遅い。
「昨日就職ガイダンスと個別面談を受けたんだけど、表情がない、表現が乏しい、そんなんじゃどこも取ってくれないって、散々に言われてね」
「おう、手厳しい先生だなぁ」
言いながらマコトはカーステレオを操作し、音楽を掛け始めた。ゆるく楽しげなリズムに、アコースティックなサウンド。
雨に湿った車内に、さっと広がる温かな風。
「この曲、なかなか良いだろ? 俺も職場の友達に勧められたんだけど、一発で気に入っちゃってさ」
ニッと口角を上げて、優しく笑うマコト。
「うん、いいね」
背もたれに身体を預け、私は腕を両脚の間に軽く伸ばした。車高の低い真っ赤なスポーツカーが、私たちを抜いて行く。
「俺はさ」
ふと、マコトが語り出した。
「うん」
「人より速く走る事しか出来る事が無くてさ。知っての通り、勉強はからっきし」
「そんなに悪かったっけ?」
「おうよ。で、担任にスポーツ推薦取ればいいって言われてさ。何かがダメでも、他の強み活かせばいいんだって」
強み。私に何かあるだろうか。他の事をカバー出来る何か。
「だからその先生の言葉を信じて、ひたすら練習して、高校も大学もスポーツ推薦で合格して、今のインストラクターの仕事もそれで取った」
確かに、そう聞いていた。しかし、羨ましいとは思わなかった。毎日校庭を走り込むマコトの姿を何度も見かけていたからだ。
「アヤはさ、どれもきっちりやろうとするじゃん?」
「きっちりって程じゃないけど、それなりには」
「じゃあそれなりでもいいや。でもバランスよく物事に取り組もうとしてる訳でさ、それはそれで武器だと思うんだよ」
私が持っているのは、どれをとっても一流とは呼べないものばかり。平均点しか持ち合わせていない。
「職場のジムの先輩で、経営学部から来てる人が居るんだよね。大学でも部活で運動してたらしいんだけど、凄い事が出来る訳じゃないの」
マコトの、ジムの先輩。経済も運動も、私からはほど遠い存在だと思う。それでも、私は頷いてみた。
「でもその分、いろんな事に対する知識とか経験持ってるから、俺達インストラクターと、データ処理や設備管理してる人、更にはお金関係の仕事してる人の架け橋になってるんだよね。」
架け橋。まんべんなく知っているからこそ、つながりを作る事の出来る仕事。
「アヤにそうなれとは言わないけど、こういう活かし方もあるんだよって例ね。うーん、少しは参考になった?」
小首をかしげて、マコトはまたこちらを見た。
「うん、なんとなくだけど。」
私は何と言っていいか分からなかったが、何かが掴めたような気がした。
「そっか。なら良かった」
そういうと、彼はカーステレオを操作した。今度はエイトビートの元気なポップロック。
弾けた女の子の声が、今にもスピーカーから飛び出してきそうだった。
交差点で曲がり、更に広い三車線のバイパスへ。
「少し、加速するよ」
そう言うとすぐに左車線へ寄り、緑色の看板をくぐった。
時速百キロの、次の世界へ。相変わらず雨は降り続いていたが、私の心には傘がさされているようだった。
車に乗って二時間程経っただろうか、雨が小降りになってきた。マコトがワイパーの稼働速度を落とす。
「雨の先に、晴れ間が見えるね」
左前方の雲の切れ間に、青い空が覗いている。海は、晴れているのだろうか。
「じゃあ、こんな曲聞いてもらおうかな」
大きな信号待ちで、マコトはカーステレオを操作する。流れてきたのは優しいギター、重なる音色、アルペジオ。
「『空の涙』って曲なんだ」
マコトはそう言うと、シートを一段階倒した。私は曇天の隙間から覗く僅かな青空を見ている。
柔らかな男声が、歌い出した。
(ちきゅうも ひとと おんなじ なんだ
わらったり おこったり ぐるぐる まわる
ちきゅうは とても おおきい けれど
こんなに きげんが かわるんだ
だから ぼくらも ないていい
だから ぼくらも わらっていい
だいすきな人と だきあえばいい)
あたたかなベースの音と、ころがるピアノの粒。そして、まるく芯のあるラテンパーカッション。
「良い曲だね」
「背中くらいなら、貸すよ」
「キザになったね」
「そりゃどうも」
「あとで、借りるね」
「いくらでもどうぞ」
車が、流れて行く。雨が、上がって行く。私は、どこへ行く。
「涙の溜め池に行こうか」
そう言うと、マコトはハンドルを右に切った。
浜辺に着いて、車から降りて、背中を借りた。
五秒、借りた。十秒、借りられた。
「背中合わせなんて、何年ぶりだろうな」
「うん」
「昔背比べした時より、広くなっただろ」
「うん」
北風が冷たい。人気のないコンクリートの防波堤に、枯れ葉が舞っていた。
「海は、涙だからしょっぱいんだって、ばあちゃんが言ってた」
「うん」
「地球がこんなに大泣きするんだから、アヤも泣いて良いんだよ」
「うん」
遠くで、海鳥が泣いた。
「じゃあ、もう少し背中貸すよ」
「うん」
手を握りたくて、見えないまま、まさぐった。固く引き締まった大きな手が、優しく包み込んでくれた。
「メリークリスマス。サンタに、会いに行こうか」」
マコトは、家の前まで私を送ってくれた。しんと静まり返った夜、星と月がふんわりと空に浮かんでいる。
わざわざ車から降りて、荷物を持たせてくれた。おやすみ、と言葉を交わすと、マコトはゆっくりと発進した。
玄関を開けると、赤い帽子を被った父が居た。普段色気のない廊下が、キラキラのモールで輝いている。
「嬉し涙は、苦手ですか」
「すまなかった」
七面鳥の丸焼きを抱えた私の家のサンタは、申し訳なさそうに俯いていた。
「いいの、ありがとう。食べよう、冷めちゃう」
父を促して、私はリビングへと向かった。テレビからは、ハンドベルによるクリスマスソングの演奏が流れていた。
マコトには、今度何かお礼をしよう。心優しきトナカイさんに。
メリークリスマス。
ー了ー
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
女性一人称の短編でしたが、いかがでしたでしょうか。
前作のポップさから一転、少し堅めの文体・テーマで描きました。
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