第二章 囲われた皇子
一.
数日後。童子は内裏にいた。前方で、ふくよかな体つきをした女房が歩いている。
――季節は春。
南殿の庭には桜が咲き誇り、風が吹く度に枝からひらひらと舞い散っている。童子達が通っている簾子縁の上にも、春風に乗って来たのか、薄紅色の花弁が一つ二つ落ちていた。
「はあ……」
童子は真新しい水干を見下ろし、がっくりと肩を落とした。
この水干は、いつも着ているものとは違い、不必要な飾りがたくさん付いている。その為、見た目は華やかだが大変動き辛いのだ。
初めての参内なのだからと椿樹と忠行に宥められて渋々《しぶしぶ》着たのだが、どうも気に入らなかった。何より、普段着用していない所為か、取ってつけた感じがしてならないのだ。
視線を、そろりと左隣に向ける。
賀茂保憲は、緑の衣冠に冠といった格好をしていた。
いつもは肩に垂らしている髪はきっちりと結われ、冠の中に隠れている。
童子と同じく普段着慣れていないはず筈なのに、何故か違和感を覚えない。否、寧ろ――。
「――似合っておるな」
「何がだ」
保憲が怪訝な顔で童子に訊ねた。
無意識のうちに、思っていたことを声に出していたらしい。
「……否、何でもない」
悔しくなって、童子はそっぽを向いた。
保憲は微かに眉を顰めたが、彼がそれ以上言及することはなかった。
沈黙が、二人を包み込む。
耐えきれなくなったのか、保憲が口を開いた。
「――童子、鳥の会話を聞いたというのは本当なのか。帝の病気について話していたらしいが」
「無論だ」
「しかしどうも信じられぬ」
「本当だとも。その証拠に、忠行殿は俺達をこうして使いに出したのではないか」
童子は諭すようにそう言うが、まだ保憲の表情は晴れない。
「それはそうだが……。万が一貴様の話が本当だとしても、もし祓いが成功しなければどうするのだ。 相手は幾ら幼いとはいえ帝だぞ。只では済むまい」
「まあ、その時はどうにかするさ」
童子は檜扇を口元に当て、不敵な笑みを浮かべた。
やがて南殿を抜け、清涼殿へと足を踏み入れた。正面の中庭――東庭には、木々こそ何もないものの、青々とした瑞々しい竹が二箇所に植えられていた。それらはさわさわと葉音を立てながら春風に揺られている。
「……綺麗だ」
童子が思わず呟いた、その時。
突然女房が足を止め、振り返った。
「此処が、帝が生活をなさっている場所でございます」
二.
御簾を上げて中に入り、仏間を抜けると、そこには四方に妻戸がある立派な塗籠があった。此処は夜御殿――帝の寝室である。塗籠の外には、幾重にも覆われた几帳があった。更に四方にある妻戸の向こうには、打毬の図が描かれた屏風四帖が寝床を囲っていた。
童子は辺りを見渡しつつ、密かにため息をついた。
――それにしても、住みにくそうな所だ。帝が病気になったのも、頷ける。
保憲も同じようなことを思っているのだろう。眉間の皺が、いつもの三割り増しは深く刻まれている。
ふと、帝が寝ている衾に伏してすすり泣いている女性が目についた。帝の母・藤原穏子であった。頬は扱け、身体は痩せ細り、なんとも哀れな姿である。 隠子は童子達に気づくと、妻戸を開き、几帳を倒すような勢いで保憲の足下に縋り付いてきた。
「どうか主上を治しておくれ! 保明と慶頼だけでなく、この子まで死んでしまったらわらわはどうすれば良いのじゃ……!」
すると傍らにいた男が慌てて、「宮、気を確かに」と、穏子を保憲から引き離した。
この男の名は、藤原忠平といった。天皇が幼少の為、政治の実権は現在摂政・関白である彼が握っている。
「安倍童子、とか申したな。もうそなたしか頼る者がおらぬ。どの薬師や祈祷師でも治すことができなかったのだ。何卒、宜しく頼むぞ」
「はい」
童子は縋るような視線を向けてくる忠平に小さく頷くと、塗籠へ足を進めた。
三.
衾を捲ると、十歳ほどの幼い男子が眠っていた。彼こそが、現在平安京の頂点に立つ帝――朱雀天皇であった。
彼は、女かと見間違いそうな程、誠にかわいらしい容貌をしていた。
特異体質なのだろうか。御髪は綺麗な銀色である。肌は透き通るように白い。形の良い唇は紅を引いたように赤く、何処か扇情的だ。だが、全身から汗が噴出しており、顔は苦痛で歪んでいる。赤い唇からは、絶えず呻き声をも洩らしていて、非常に痛々しい。
「これはいかんな」
童子はそう呟くと、衾に手を入れ、中をごそごそと探った。と同時に、彼女の指先になにやら鱗の様な感触が伝わる。
――やはり、な。
童子は口元に微かな笑みを浮かべると、帝の衣服を剥ぎ取るようにして脱がせた。
その時、保憲が様子見に塗籠の中へ入ってきた。彼は帝の裸体を見た途端、小さく息を呑み、顔を背けた。
帝の身体中に、翡翠色をした蛇の鱗の様な、不気味な出来物があったのだ。 透明な体液で湿っているそれは、薄暗い部屋の中でぬらぬらと光っている。どう考えても普通の病とは思えない。
「化生のものか」
保憲が外の者に聞こえぬよう、声を低くして問う。
「否。鳥達が話していた通りだ。これは蛇の仕業だ」
「蛇?」
「ああ」
童子は立ち上がり、早足で東庭へと向かった。
童子は暫くの間、何やら東庭の中を歩き回っていたが、数分もしないうちに戻ってきた。 彼女は片手に檜扇を持っていた。檜扇の上には、蛇の死骸が乗せられていた。まだ小さな子供の蛇である。それは帝の皮膚にできた鱗と、同じ色をしていた。
すると、それまで不安気に様子を窺っていた忠平が、「これは、主上が以前飼っておられた……」と驚き、駆け寄ってきた。
「飼っておられた?」
童子がそう鸚鵡返しに訊ねると、忠平は大きく頷いた。
「ああ。主上には、夜中に屋敷を抜け出すという困った癖がおありになった。一月前――その時主上はまだ元気でいらしたのだが――何所からかその蛇を持ち帰って来たのだ。だが主上は生まれつき身体が弱く、病にもか懸かりやすい。もしかしたらそのえたいのしれぬ蛇が病の原因になるかもしれぬ。だから私が無理やり取り上げ、庭に逃がしたのだ」
それに対し童子は、「なるほど」と相槌を打った。
「ならば帝の病もこの蛇が原因でしょう。これは簾子縁の下で死んでおりました。恐らくまだ子蛇故、帝を親代わりにしていたに違いありません。その帝から引き離された蛇は、親もおらず食事を手にする手段もないこの地で、只死ぬのを待つしかなかったのでしょう。……蛇は帝と離れ離れになったことが酷く心残りだった。だからこうして帝と一体化して、帝の傍を離れまいとしたのではないでしょうか」
「ふむ……、それはすまないことをしたなあ」
そう言いつつ忠平は蛇の頭を優しく撫でた。彼の目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
童子はそれを見て密かに微笑むと、近くにいた女房に耳打ちをした。女房は頷くと、下郎に命じ、東庭の片隅に蛇の死骸を埋めさせた。
そして童子は、懐から一枚の薄い紙を取り出した。その紙には大きな文字で「花」と記してある。童子は何やら低い声で呪を唱えると、それを蛇が埋めてある土に翳した。すると、盛り上がった土から次々に芽が出始めた。
「まあ」
「なんと」
穏子と忠平は呆然としてその様子を眺めている。その間にも芽はどんどん成長し、あっという間に白く美しい花が咲いた。
更に童子は地面の石を拾い上げて、やはり何やら低く呪を呟いた。すると、地面の石は瞬時に石碑へと変わった。
「……」
「……」
もはや穏子と忠平は声も出ない。只、口を半開きにして童子と石碑を見比べるばかりである。
童子はそんな彼らを見つめ、「これで帝の容態は直に良くなるはず筈です」と、柔らかく笑みを浮かべた。
「うぅ……」
瞬間、大きな呻き声が聞こえた。帝の、声であった。その声に我に返った穏子が急いで帝に駆け寄り、「主上?」と声を掛けた。すると、帝が薄らと目を開いた。
それは、朱雀の如く鮮やかな色をした赤い瞳だった。




