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第一章 醒めた月

SAKURA第二部が始動しました。

一段と成長した童子と保憲をご覧下さい(●´З`)ゝ


一.


挿絵(By みてみん)

「はあ、はあ」

 竹林の中を、一人の青年が走っていた。長い間全力で走ったらしく、息が乱れている。

 青年の名は、賀茂保憲かものやすのり。歴代随一の陰陽師おんみょうじ賀茂忠行ただゆきの息子である。今年で十六歳になった。

「ちぃっ」

 保憲は小さく舌打ちをし、後ろを見遣みやった。

 宙を泳ぐように飛んでいる二人の女の生首が、「魔羅まら! 魔羅!」とこの上なく下品な言

葉を吐きながら、保憲を追っていた。

「おうおう、あやかしにまでもてもてやのう。この色男」

 隣を走る群青の髪の青年は、にやつきながら保憲の肩を小突こづいた。

 保憲の式神――ひずみ

 方言混じりの妙な口調と性格、髪色を除けば、保憲と瓜二つである。

 保憲は歪を横目でにらんだ。

「人をからかう暇があれば、あ奴らをどうにかする方法を考えろ」

「そんなん簡単やないか。こないして逃げへんと、正面からじゅを唱えてとっとと滅却めっきゃくすりゃあええ話や」

「それが出来たら苦労せぬ」

「まあ、あの様子ですと、呪を唱えている間に保憲殿の貞操ていそうと大事な部分が奪われかねませぬからな」

 そう言ったのは、同じく保憲の式神である椿樹つばきという男だ。

 彼は蒼い瞳をゆるりとまばたかせた。

「恐らく、あの方たちはこの世に未練を残して亡くなった妖でしょう」

「未練やて?」

 歪が聞き返した刹那《、背後から女たちの叫びが聞こえた。

「あな、男の身体が恋しいやのう」

「ああ、そこの黄金こがね色の稀有けうな髪をした殿方。哀れな私達にその綺麗きれいな身体と貞操をくださらぬか」

「やっすん、ご指名やで」

 歪が再び保憲の肩を小突く。

「誰がやるか……っ!」

 保憲は顔面蒼白そうはくになりながらも、小さく呟いた。

「……あれを聞けば、何に未練を残しているのかおのずと分かりますが」

 椿樹が大げさに肩をすく竦め、深く息を吐いた。

「忠行殿はなにゆえ何故、保憲殿に彼女達のはらいを頼んだのでしょう?元服《 げんぷく》して初めての仕事だというのに」

「確か、これはやっすんに御誂おあつらえ向きやとか言うとったな」

「どこがだ」

 保憲は眉間をいつ何時もの倍以上に寄せてたず訊ねた。父に対するいらだ苛立ちが、胸の中でうずを巻く。

「もしや、その身体を犠牲ぎせいにしてでも祓いなさいということでしょうか?」

「何」

 保憲は信じられぬ思いで椿樹を見つめた。

「確かにやっすんは綺麗な顔してはるもんなあ。あの姉ちゃん達も喜んで食いつくんとちゃうか。さっきも態々《わざわざ》やっすんを指名しとったし」

「ならば、貴様が行け」

阿呆あほう! わては生きている女にしか興味ないんや! 妖の相手なんかまっぴら御免ごめんやで! 確かにわての顔はやっすん以上に美しいけど、それを利用するのは間違まちごうとる!」

「……問題はそこじゃないでしょう。自分の式を犠牲にしようだなどと、陰陽師の風上かざかみにもおけませんな、保憲殿」

 椿樹はあき呆れ混じりに言った。

――貴様等も先程まで私を妖に差し出そうとしていたではないか。

 保憲は言い返そうと口を開き、そのまま固まった。

 肩まで垂らしている髪の結び目が、何かに引っ張られる感覚がしたのだ。

 振り向く。

 視界に広がったのは、女の顔。

 口には、保憲の髪束をくわえている。

「はっ!」

 咄嗟とっさに刀を抜き、首をりつける。

 女は軽々と斬撃ざんげきをかわし、空中に浮かび上がった。

 はらり。

 髪紐がほど解け、黄金の糸がなびく。地面に数本、毛が抜け落ちた。

「貴様……」

 保憲は怒りで顔をしかめ、女を見上げた。

「あら、良い表情かお

 女は嬉しそうに笑った。

「なれど、まだ足りぬ。貴方の苦痛でゆがんだ表情が、見たくてかなわぬ」

「ふん。良い趣味をしておるな、貴様」

 保憲は皮肉混じりの笑みを浮かべた。

「やっすん、後ろや!」

 背後から、歪の声が聞こえた。

 視線を後ろに向ける。

「ぐっ!」

 瞬間、左肩に鋭い痛みがはし奔り、保憲は小さなうめきをも漏らした。

 もう一人の女の生首が、保憲の肩に噛み付いていた。

 めりめりと、肩の骨がきしむ。それにともない、激痛が体中を駆けぬ抜けた。

「う、ああぁ……っ!」

「やっすん!」

「保憲殿!」

 悲鳴を上げた保憲の背後で、式神達が駆け寄って来るけはいがした。

「私達の邪魔をしないでくれぬか?」

 先程まで、目の前にいた女の声が聞こえた。見上げると、女の姿が忽然こつぜんと消えていた。

 どうやら、保憲を援護えんごしようとした式神達の前に立ちはだかったらしい。

「ほう、考え事とは余裕じゃな」

 肩に噛み付いた女が呟いた。途端とたんに、痛みが増す。

 生暖かい液体が、腕を伝うのを感じた。

「ぐうっ!」

 再度声を上げた保憲の視界を、刃が横切った。

 肩の痛みが消え、身体が宙に浮く。

 女が斬撃で吹き飛ばされたのだと理解したのは、地面に倒れた直後であった。

「っ……」

 身体を打ちつけた痛みに顔を顰めつつ、起き上がる。

「おん、まりしえい、そわか、おん、まりしえい、そわか」

 ふと、呪文のような奇妙な言葉が耳に入ってきた。

「これは……」

 保憲は大きく目を見開いた。

 目の前で、星型の記号が形成されていたのだ。その線は吸い込まれるような蒼色であった。呪文に合わせるかのごとく、ゆるゆるとその形を成してゆく。

 やがて、記号が完成した。

 すると、星から蒼い光が放たれ、辺りを包み込んだ。

「くっ!」

 保憲は瞬時しゅんじに袖で顔をおおった。

 近くで、二つの霊気れいきが消えたのが分かった。女の生首達のものであった。

 安堵あんどすると同時に、肩が再び痛み出した。

 保憲はそれを少しでも緩和かんわしようと静かにまぶたを閉じた。

 身体が段々かたむいてゆく。

 やがて、何も分からなくなった。



二.



 指先に、何かが触れた。反射的ににぎめる。

 てのひらで包み込んだそれは、暖かくて心地よい。

 遠くから、くすくすと笑い声が聞こえた。幼い頃、常に耳にしていた声。大切な人だった、声。

 すると突然、声が遠ざかった。

――行くな。

 手に力を込め、引き寄せた。

 どこ何所へも行かぬよう、強く抱き締める。

「保憲、保憲……」

 名を、呼ばれる。

 懐かしさと切なさがぜとなって胸に染み込んだ。

「母上……」

 呟いた直後、頬に強い衝撃が加わった。



「――!」

 頬の鈍い痛みで、目を覚ました。

 見慣れた自分の寝屋の天井から視線を横にらすと、漆黒の髪が視界に映った。

 一つに結ばれ、背中に向かって流れるように下ろされている。

 十二歳になった、安倍童子あべどうじである。

「……童子」

 童子の頭が、保憲の声に反応して動いた。

「保憲、いい加減に離せ……さもなくばもう一発お見舞いするぞ」

 童子の怒気どきを含んだ声に少し驚き、まじまじと見つめる。

 保憲の腕の中に、童子が綺麗きれいに納まっていた。

――何処どこかで見た光景だな。

 首をかしげつつ、保憲は童子を解放した。

「全く、何を寝ぼけておるのだ。お陰で窒息ちっそくしかけたぞ」

 そう小言を言う童子の顔は、ほんのりと赤く色づいている。

――熱でもあるのだろうか。

 保憲は全く検討違いな心配をしながら、視線を下ろしてゆく。

 ふと、はかまに目をと留めた。

 袴の前から後ろにかけて、血液が付着している。特に後ろ側の出血が多い。

「――貴様、けがをしておるではないか。今すぐ薬師くすしに診てもらわねば」

 保憲は言うが早いか、童子を横抱きし、障子しょうじを開いた。

 颯爽さっそうと部屋を横切り、透廊すきろうを渡る。

 人とすれ違う度、痛い程の視線を浴びた。

「や、保憲、下ろせ! 自分で歩ける!」

 童子は恥ずかしいのか、顔を真っ赤にしてうった訴えた。

「大人しくしていろ。傷が広がったらどうする」

「しかし!」

「――童子」

 なお尚も食い下がる童子を、見下ろす。二年前とは違い、自分よりも低い位置にいる童子を未だに見慣れない。

 なんとなく恥ずかしくなった保憲は直ぐに目をらし、前方を見つめた。

「貴様がこれ以上けがをすると、私も辛い」

「……保憲」

「頼むから、大人しくしてくれぬか」

 童子はうつむき、保憲の胸に顔をうず埋めた。

「……貴様は、何故そうも平然とそのような言葉を吐けるのだ」

「何のことだ?」

 保憲は童子の言葉の意味が分からず、微かに眉を顰めた。

「……しかも無自覚、か。最悪だな」

 童子は呆れ混じりのため息を吐き、顔を上げた。

 先程の言動とは裏腹に、その蜜色の瞳はれたようにうるみ、普段は桃色に色づいた頬も紅に近い色に変わっている。

「!」

 突如とつじょ、心臓の脈数が跳ね上がった。体中の体温が上昇してゆくのが分かる。

――何だこれは。

 保憲は僅かな動揺どうようを隠すべく、走る速度を上げた。

 ……彼がこの現象の正体を知るのは、もう少し先の話である。



三.



「姫さん、大丈夫やろか」

 童子の寝屋ねやに面している障子しょうじの近くを行ったり来たりしながら、歪が呟いた。

 漆黒の瞳を移ろわせ、やがて保憲に視線を合わせる。

「かんにん堪忍な、やっすん。わてらが早く気付いとったら良かった」

「謝るな。貴様だけが悪い訳ではない」

 保憲は目をふ伏せ、俯いた。

「私にも責任がある」

「けっ、全くだ。大の男が三人もついていたのによお」

 そう皮肉混じりに言葉を発したのは、渡辺寿朗わたなべのとしろう。農民の出でありながら、陰陽寮おんみょうりょう直丁じきちょうの職をたまわった出世頭である。

 二年前は式神が見えなかった彼も、今では歪ともすっかり顔なじみだ。

いたかたありませぬよ、寿朗殿。私達はかく、保憲殿は妖に襲われてけがをしていたのですから」

 椿樹がにこやかに寿朗をなだめるかたわらで、歪が大きく頷いた。

「せや、せや。ま、こんな糞餓鬼くそがきに言うても理解できんやろうけど。やっすんよりも早く元服したくせ癖に、未だに雑用やもんなあ」

 歪の発言に、寿朗は顔を赤く染めて怒鳴どなった。

「ざ、雑用じゃない! 直丁だ!」

「はっ、似たようなものやんか」

「うは~、むかつく! 保憲様と同じ顔した式の癖に!」

「お、おんどりゃあ、言わせておけば好き勝手ぬかしおって! 大体わての方がやっすんよりも数倍ええ男や! 同じ顔やないわ!」

「どこがだよ! 鏡見て出直せ!」

「――あらら、また喧嘩けんかですか」

 取っ組み合いを始めた二人を、椿樹は呆れ顔で見つめた。

「貴様、止めないのか?」

 保憲がたずねると、椿樹はくすくすと笑みをこぼした。

「彼らの喧嘩はいつものことですから。それに、ああ見えて仲が良いみたいですし」

「……確かにな」

 保憲はふっと顔を緩め、視線を落とした。

 てのひらを見つめ、握り締める。童子の肌の温もりが、まだ残っていた。

「――椿樹」

 口から出てきた自分の声が思いのほか落ち込んでいるように聞こえ、保憲は密かに失笑した。

何故なにゆえ、先程私をかばった」

「え?」

 椿樹は怪訝けげんな顔で保憲を見つめた。

「けがをしていようが、童子が私を妖から助けた所為せいで傷を負ったことには変わりないだろう」

いな、まだそうと決まった訳では――」

「だが、私が童子に守られたのは明確な事実だ。あの星型の印から感じたのは、童子の霊力であった」

「あれは、童子殿が独自に開発した“五旁印ごぼういん”という印らしいです」

「……そうか」

 保憲は浅く息をは吐き、目をつむった。

「もしや、悔しいのですか?」

 椿樹のからかい混じりの声に、保憲は眉根を寄せた。

「不本意だがな。二年前に童子を守ると誓ったゆえ、自分が浅ましくてかなわぬ」

成程なるほど。なれど、それは童子殿の成長の証ではないでしょうか」

「何」

 保憲は思わず聞き返した。

「どういうことだ」

「童子殿は他人ひとを守る為に忠行殿に弟子入りを志願したそうです。無論、貴方も含めてですが」

 椿樹は続けた。

「保憲を童子殿がお守りした――そのことは童子殿にとって大きな一歩だと私は思いますが」

「……」

 保憲は沈黙し、再度息を吐いた。

「……そうだな」

「――寿朗、歪! いい加減騒ぐのをやめぬか! 童子の身体に響くじゃろう!」


 突然勢い良く開いた障子から、一人の男性の顔が其処そこから覗く。

 稀代きだいの陰陽師・賀茂忠行かものただゆきである。

「す、すみません」

「堪忍な、おっちゃん」

 忠行の怒鳴り声に、歪と寿朗は一斉に動きを止め、頭を下げた。

「忠行殿、童子殿の容態ようだいは」

 椿樹の問いに、忠行の瞳が微かにれる。

「いや、それが……薬師くすしによると、童子の出血はけがの所為ではないらしい」

「けがではない? では、何だというのです」

「うむう……」

 忠行は低くうなり、腕を組んだ。心なしか、顔が赤い。

「実はのう……、童子は月のものになってしまったらしい」

 部屋中に、重い沈黙が広がった。

「ま、まあ……姫さんも一応女の子やからな」

 ごほんと咳払いをしながら、歪が言う。

「いつかは来るであろうと覚悟はしていましたが、まさか今日だとは」

 椿樹は手で額を押さえ、左右に首を振った。

「た、忠行様、他の者には何とお伝えしますか?」

 寿朗は顔を赤くしつつ、忠行に訊ねた。忠行も益々《ますます》頬を紅潮こうちょうさせ、頷く。

「うむ……、急な体調不良とでも言っておこうかの」

 ぎこちなく会話を進める彼らをぼんやりと傍観ぼうかんしていた保憲は、一人首を傾げた。忠行が言った『月のもの』が何であるのか、分からないのだ。

「――悪いけどその質問は受けつけへんで、やっすん」

 疑問をそのまま口にしようとしていた保憲を、歪がすぐさま牽制けんせいした。

何故なぜだ。童子がなったものならば、私にもいずれは訪れるやもしれぬ。その前に少しでも知識を――」

「自分がなるか! ぼけるのもええ加減にせえ!」

「うっ」

 歪のこぶしが頭を直撃し、保憲は床に片膝をついた。

「私に拳骨げんこつをくらわせるとは……貴様、良い度胸をしておるな」

 保憲はじろりと歪をめた。怒りが冷たい冷気となって、あふれ出す。

やかましい! これは拳骨やのうて愛のむちという名のつっこみや!」

 ……歪の関西魂は、保憲の冷気を簡単に溶かしてしまったようだ。

「保憲殿。月のものは、女だけにしか訪れぬことなのですぞ」

 いつから聞いていたのか、椿樹が保憲に説明を始めた。

「簡単に言うと、とつぐ為の準備とでも言っておきましょうか」

「ま。要するに、姫さんはこれで大人の女になったっちゅうことや」

「な、に」

 式達の言葉に、思考が停止する。

 なんとも言えぬ不快感が、一気に押し寄せた。突然産まれた感情に、保憲は戸惑い、苛立った。

「……認めぬ」

 気がつくと、唇が拒絶を紡いでいた。

「やっすん? どないしたんや?」

 異変に逸早いちはやく気づいた歪が、顔を覗き込んできた。

 その眼差しや仕草すらも腹正しく思え、視界に入れたくないとばかりに目をらした。

「私は認めぬぞ!」

 保憲は呆然とする歪を押し退け、部屋を出た。

 早足で、自分の寝屋に向かう。

『簡単に言うと、嫁ぐ為の準備とでも言っておきましょうか』

 椿樹の言葉が、脳裏をよ過ぎる。

 苛立ちが増し、保憲は拳を握り締めた。

――どうしてしまったのだ、私は。

 子供が大人に成長する。女童だった者が女になる。人間として生きているならば、当たり前のことだ。

 無論、何所かの家に嫁ぐことも、貴族に生まれた者には避けられぬことだ。しかし、心の何処かがそれを拒絶していた。

「保憲!」

 突如、後ろから聞こえた声で我に返った。

 振り向く。

「童子」

 名前を呼ばれた少女はあんど安堵の息を吐いた。

ようやく止まってくれたか。貴様ときたら、先程から何度呼びかけても振り返りすらしない故、あせ焦ったぞ」

「すまぬ」

 保憲は謝罪の言葉を述べ、俯いた。今は、童子の顔をまともに見れそうになかった。

「――何時いつとつ嫁ぐのだ」

「……は?」

 保憲の問いに、童子はぱちりと目をしばたかせた。

「質問の意味が分からぬが」

とぼけるな。月のものが来た女は、何処どこかの家に嫁ぐのだろう」

 二人の間に沈黙が降りる。

「……貴様、そのような下らぬことで悩んでいたのか」

 そう呟く童子の声は、震えていた。

 ……必死に笑いをこらえているのだ。

「下らぬ、だと」

 保憲は顔を上げ、童子を睨んだ。途端に、堪え切れなくなったのだろう――童子が吹き出した。

「貴様」

「す、すまぬ。だが、あの保憲がかようなことで部屋を飛び出したのかと思うと……お、可笑おかしくて……っ」

 ――私にとっては取り乱すようなことでも、此奴こやつにとっては下らぬことなのか。

 口元を押さえて悶絶もんぜつする童子を見下ろし、切ない気持ちになった保憲は思わずため息を吐いた。それを見た童子は何を勘違いしたのか、慌てて笑うのをやめた。

「あ、案ずるな! 俺は男として育てられた身だ。嫁ぐつもりは毛頭もうとうないぞ。むしろ、一生賀茂家に居座いすわってやる! かような古い屋敷でもたくさん思い出があるからな」

「ほう。養子の癖に随分ずいぶんな言い分だな」

「う……」

 言葉を詰まらせる童子に、ふっ、と顔を緩める。

 童子が嫁ぐことはない。それが聞けただけでも、保憲には充分であった。

「――貴様の寝屋に戻るぞ」

 保憲は無意識のうちに童子の手を引き、再び歩き始めた。つないだ手の温もりが、心地よく肌に伝わる。

「や、保憲」

 童子のあせりを含んだ声が聞こえた。

「何だ」

 足を止め、問う。

「その、手は」

 何時になく小さな声で呟く童子を怪訝けげんに思いながら、手元に視線を下ろす。

 自分より一回り小さな手が、自分のそれに包まれていた。

「すまぬ」

 急いで手を離し、謝る。

 無意識ではあったが、自分から手を繋いでしまったのだ。多少決まりが悪くなり、童子とは別方向に顔をそむけた。

「貴様、謝ってばかりだな」

 ふいに童子が微かに笑う声が聞こえ、視線を戻す。

 優しげな顔をした童子と、目が合う。見たこともない表情であった。

 突然、胸が苦しくなるような心地がした。

――何故、そのような表情をするのだ。

 目をらそうとしたが、動けなかった。

「保憲?」

 保憲の変化に気づいたのか、童子が顔を近づけてきた。

 どくん、と心臓が跳ねる。身体中の熱が顔に一気に集中するのがわかった。

「……っ、かわやに行ってくる」

 居たたまれなくなった保憲は、童子の寝屋とは反対方向に駆けだした。

 角を曲がり、渡殿わたどのに差し掛かったところで立ち止まる。

「はあ、はあ、はあ」

 息を整え、吹き出た汗を袖で拭う。

 刹那、渡殿の手摺てすりの上に止まっていた小鳥が、空に飛び立った。

 


「……腹でも痛いのか?」

 童子は、保憲のうしろすがた後姿を見送りつつ、呟いた。

「あんなに急いでいたのだ。よほどの激痛だったのだな」

 童子は一人で頷きながら、自分の寝屋の方向に歩みを進めた。

 去る間際に保憲が見せた、切羽詰った表情を思い浮かべる。顔をかわいそうなほど赤くしていた。

――後で腹痛に利く薬でも持っていってやろう。

 検討違いなことを考えつつ、くすりと微笑む。

 賀茂家へ養子に来て以来、今日ほどくずれた顔の保憲は見たことはなかった。

――奴も、あのようなかお表情をするのだな。

 掌を空にかざ翳す。

 保憲と繋いだ手には、まだ温もりが残っている。驚きはしたものの、嫌ではなかった。寧ろ、もう一度繋ぎたいとさえ思えた。

「ふふ」

 込み上げる弾む気持ちに胸がおどり、自然と笑みが零れた。

 指と指の隙間すきまから、日の光が差し込む。

 鳥の鳴き声が、耳に響いた。


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