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リマインダー

掲載日:2026/11/01


 雨は昼すぎにあがったが、下校時にはまた小雨になっていた。

 私の通学路は、用水路ぞいの農道を通る。

 舗装のない道で、轍に水たまりがいくつも残っていた。


 私は六年生で、その週は給食当番の白衣を入れた袋を持ち帰り、洗濯しなければならなかった。

 上履きの袋、図画工作の完成作品を入れた手提げ袋も両手にかかえ、とにかく早く帰りたくて仕方なかった。


「お姉ちゃん!」


 後ろから妹が走ってきた。

 妹は二年生で、ランドセルも長靴も雨合羽も、すべて私のおさがりだった。

 私は待たなかった。

 妹と帰ると、決まっていつもふらふら寄り道して収拾がつかなくなる。

 何かあると、叱られるのは私だった。

 妹の靴が泥だらけになったときも、妹の服が汚れたときも、妹の髪がひっつきむしだらけになったときも、お姉ちゃんなんだから、という理由で母に叱られるのはいつも私。

 道幅いっぱいの水たまりを、助走をつけて飛び越え、靴をぬらさずに渡った。


「すごいね!」


 妹は渡れなかった。

 水たまりのむこうで足ぶみをしていたが、やがてもぞもぞと雨合羽をひらいた。


「みてみて」


 雨合羽の中で、子猫を抱いていた。

 目やにのついた、やせた野良だった。

 私は驚愕して声を上げた。


「だめ。お母さんに叱られる。もとのところに置いてきなさい」


 妹は聞こえないふりをして、水たまりのふちに子猫を下ろすと、自分も並んでしゃがんだ。

 子猫は泥水に口をつけて、飲みはじめた。


「そこに置いて帰るよ。また雨が強くなってきた」


「わたし、大きくなったらお姉ちゃんみたいになるのが夢なの」


 妹は、あからさまに私の機嫌を取りはじめた。

 私の気も知らずに、能天気なやつ。

 無性に腹立たしくなり、引き返して、子猫を蹴り飛ばした。

 子猫は体育で蹴るボールよりも小さくて軽くて、用水路のほうへぽーんと飛んでいった。

 水の音が聞こえる前に、私は踵を返し、歩きだした。

 後ろで妹が何か騒いでいたが、私は構わずまっすぐ歩き、家までふりかえらなかった。


 *


 その晩から、私は熱を出した。

 二階の六畳に、母が敷いた布団が二組。

 そのうちの窓際のほうに横たわり、私は氷まくらをして、天井の木目を見ていた。

 あの子猫は、死んだのだろうか、と考えた。

 靴の先に、やわらかい感触がまだ残っていた。

 テレビの刑事が、逮捕状が出ているぞ、と紙を見せて犯人の家に踏み込むシーンが頭から離れなかった。

 外で男の人の声がするたび、玄関のチャイムが階下からかすかに聞こえるたび、私は怯えた。


 次の日も私の熱は下がらず、階下では一日じゅう、人が出たり入ったりしていた。

 便所に降りたときに、びしょ濡れの父が私をみとがめ、部屋にいなさい、と静かに言った。

 窓から裏庭を見おろすと、勝手口の敷石の上に、皿が出ていた。

 以前から妹がこっそり野良猫に水をやるのに使っている欠けた皿だった。

 雨がたまって、小さな水たまりになっていた。


「お姉ちゃん!」


 外から、窓越しに妹の声が響いた。

 私は思わず目を背け、声とは反対のほうを向いた。


「大丈夫だよ、元気を出して」


 相変わらず能天気な声に、無性に腹が立った。

 誰のせいでこうなったと思っているんだ。

 私は布団を頭までかぶると、妹を無視して目を閉じ、気がつくと眠っていた。


 *


 私は中学三年になり、高校受験まで、ひと月を切っていた。

 二階の六畳には、お揃いの勉強机が二つ並んでいる。

 私は窓際の机で、去年の入試問題を解いていた。

 石油ストーブの上でやかんが鳴り、窓ガラスは結露でまっ白だった。


 十一時ごろ、母が夜食を持って階段をぎし、ぎしと上がってきた。

 盆には、うどんの丼が二つ。

 母は一つを私の机に、もう一つをとなりの机に置くと、何も言わずに降りていった。

 私は自分のぶんを急いで食べて、また問題にもどった。


 表で、車のドアが閉まる音がした。

 鉛筆を持つ手が止まった。

 物音ひとつ立てないように気を配り、外の様子に神経を研ぎ澄ませた。

 こんな時間に誰だろう、と考えるより先に、刑事ドラマのワンシーンが頭に浮かんだ。

 やがて足音は、となりの家へ入っていった。

 ばかばかしい、と自分に言い聞かせたが、しばらく数式が頭に入らなかった。


 雲散霧消した集中力を取り戻そうと、必死に心を落ち着ける。

 窓の結露が垂れて、桟に小さな水たまりをつくっていた。

 雑巾を取りに立つのも面倒で、私はそれをぼんやり眺めていた。


「お姉ちゃん!」


 ああ。よりにもよって、いちばん集中したいときなのに。


「うるさい。あと三問なの」


 数学の、図形の問題だった。

 円の中に三角形が二つあって、角度をひとつ求める。

 十分ほどにらんで、補助線を一本引くと、するすると解けた。


「すごいね!」


「これくらい、ふつう」


 少しだけ気分がよかった。


「わたしには全然わからないや」


「あんたにはわかんなくていいの、静かにしてて」


 私は雑巾を取ってきて、桟を拭いた。

 妹はそれきり黙った。

 努力の甲斐あって、その春、私は念願だった町の高校に受かった。


 *


 その日、ぎりぎり終電に乗って帰ると、午前一時をまわっていた。

 会社は都心にあって、アパートは急行で四十分のところにあった。

 タクシーもつかまらず、雨の中を駅から歩いたので、足首どころかストッキングを伝った水分で、太ももまで冷たく湿っていた。


 階段の下の郵便受けをあけて、街灯の薄明かりの中で、一枚ずつ手に取る。

 電気料金の知らせと、ちらしが二枚、その下に、白い封筒。

 「 状」という一文字が目に入り、一瞬体が硬直するが「招待 」の二文字まで読んで、ようやく安堵する。

 なんてことはない、同級生の結婚式の招待状だった。

 ばかげた癖だと自分でも思う。


 部屋に入り、傘を戸口に立てかけて、ヒールをぬいだ。

 傘の先からしずくが落ちて、玄関のたたきに水たまりができていく。

 私はしゃがんでずぶ濡れのストッキングを脱ぎながら、それがひろがるのを無心で見つめていた。


「お姉ちゃん!」


「ああ、ただいま。起きてたのね」


 朗らかなよく通る声で、照明をつけるより先に、私のワンルームが明るくなった。

 その年、私は主任になり、部下と後輩の後始末が毎日のように回ってきた。

 当たり前のように連日のサービス残業。

 あしたも朝いちばんで、先方へあやまりにいく。

 私は何も悪くないのに、頭を下げ、怒鳴られるのはいつも私だった。


「今日は、とても疲れた。いっしょに何か食べる?」


「大丈夫だよ」


「そりゃそうか。こんな時間だもんね、私も寝よ」


「お姉ちゃん、みてみて」


「ごめん、あしたにして。六時に起きるの」


 私はたたきの水たまりに向けて雑巾を放り投げ、歯をみがいて、布団を敷いて、電気を消した。


 *


 私は会社を辞め、転職先の同僚と結婚し、二児の母となった。

 上の娘が七つ、下の娘が三つ。

 ある雨あがりの夕方、下の娘を保育園に迎えにいって、その足で三人で買い物をしていた。

 私は買い物袋を両手にさげ、おまけに保育園の荷物まで持ち、辟易していた。

 早く帰って、夕飯の支度をしたかった。


 少し先、坂の下の道に、水たまりができているようだった。

 水たまりのそばを歩かないよう、私は反対側の道路端に寄って歩いた。

 ところが、上の娘が走っていって、水たまりのふちにしゃがみこんだ。


「ママ、あめんぼ。なんで沈まないの」


「軽いからよ。それに足に細かい毛がはえていて、水をはじくの」


「どこに毛があるの。見えないよ」


「ここ。足の先」


 仕方なく、袋をさげたままかがんで、指さした。

 あめんぼの下に、空が映っていた。


「お姉ちゃん!」


 下の娘が、長靴をがぽがぽ鳴らして追いかけてきた。

 長靴と雨合羽は、上の娘のおさがりだったが、文句も言わず気に入ってくれた。

 下の娘は、姉のとなりに駆け寄ると、並んでしゃがんだ。


「わたしには全然わからないや」


 私は返事をしなかった。

 気がつくと、私は下の娘の腕をつかんで、強引に水たまりから引きはなしていた。

 強くつかみすぎて、びっくりした娘は火がついたように泣きだした。

 上の娘は、きょとんとして私を見ていた。

 私は二人の手を引いて、足早に坂をのぼった。

 その晩、お風呂で下の娘の腕に指のあとが赤く残っているのを見つけて、自分がいやになった。


 *


 七十歳目前にして見つかったガンは、末期と診断された。

 私は投薬治療をやめ、ホスピスの個室に引っ越し、窓際のベッドでまどろんでいた。

 娘たちは昼すぎに来て、夕方に帰った。

 上の娘がりんごをむいて、下の娘が孫の写真を枕もとに立てていった。

 この子も来年、中学生になると言っていたっけ。

 ちょうど、あの頃の私と同じ年だ。


 枕もとのテーブルの上に、飲み水の入ったガラス瓶から水滴がしたたり、水たまりをつくっていた。

 私ももう長くない、そろそろ向き合わなければ、と考え、ゆっくりと視線を向けた。


「お姉ちゃん!」


 歯切れのよい、よく通る声。

 私には、四つ下の妹がいた。


「みてみて」


 好奇心旺盛な性格に、次女にありがちな承認欲求。

 何でもかんでも私の真似をして、あとについてくるのが、心底鬱陶しかった。


「大丈夫だよ、元気を出して」


 母に似て気立てがよく、誰に対しても優しかった。

 四つも年下のくせに、いつも私の心配ばかりして、自分のことはまるでできていなかった。


「すごいね! わたしには全然わからないや」


 宿題もすぐ放り出して母に叱られていた。

 何を言われても飄々としていたが、唯一、そんなことじゃお姉ちゃんみたいになれませんよ、と言われると泣き出した。


「わたし、大きくなったらお姉ちゃんみたいになるのが夢なの」


 水たまりの中の妹はうれしそうに、行方不明になった小学生の姿のまま、私に向かって笑った。

 当時、警察と消防、それから親族や両親の知人友人が総出で、一週間かけて捜索したが、用水路から私のおさがりの長靴が見つかったきり、何も見つからなかった。

 結局、用水路に落ちてそのまま下流の川に流された、と結論づけられた。


 あの日、私は重い荷物を抱えて帰宅するなり、こんな雨の中、傘もささずに、と母に怒鳴られた。

 母は、妹がいっしょでないことに気づくとさらに腹を立て、すぐ迎えにいきなさい、と私に命じた。

 私は泣きながら用水路まで走って戻ったが、妹の姿はなかった。

 そのまま用水路沿いに下流へ歩くと、次第に流れが太くなり、コンクリートで護岸された川になっていく。


 その川岸に、裸足の妹が立っているのが見えた。

 びしょ濡れになった猫を抱えて、泣きじゃくっている。

 私に気づくと、お姉ちゃんなんか嫌いだ、お母さんに言いつけてやる、と涙ながらに叫び始めた。


 とんでもないことになった。

 ぜんぶ、こいつのせいだ。

 こんなやつ、いなくなればいいのに。

 私は猫ごと、妹を川に突き落とした。


「お姉ちゃん!」


 コンコン、とドアをノックする音が聞こえた。

 思わずびくっと身構え、ドアのほうへ顔を向け、神経を集中させる。

 この年になっても怯えている自分が可笑しかった。


「逮捕状の刑事さん、こなくてよかったね」


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