第9話 混線
翌日、午前十時。
佐々木健太からの連絡は一切なかった。
月刊「深淵」編集部。俺、三上悟は一睡もせずに迎えた朝の、妙に冴えきった頭で、一つの決断を下していた。
編集長に「身内の不幸だ」と雑な嘘をついて早退届を出すと、俺は神保町を飛び出した。
電車の中で、昨日立ち寄った健太のアパートの大家に電話を入れる。
「昨日も様子を見に行ったんですが、どうにもおかしい。警察沙汰になる前に、一度安否確認をさせてほしい」
俺のただならぬ剣幕に大家もようやく重い腰を上げた。
アパートの「203」号室の前。
大家の持つマスターキーがカチャリと鍵穴に差し込まれる。
「佐々木さーん、大家ですよー。三上さんも一緒です。入りますよー」
ノブが回り、ドアがゆっくりと開かれた。
その瞬間、俺は息を詰めた。淀んだ空気の塊が鼻をついた。
汗の匂い、食料の腐った匂い、そして、カビと埃が混じり合った生命力の感じられない異臭。
部屋の中は真昼間だというのに深海のような完全な暗闇に沈んでいた。
「うわっ、臭……。こりゃひどい。佐々木さん!」
大家が廊下の明かりを頼りに壁のスイッチを探す。
「待って! 電気はつけないでください!」
俺は昨日の健太の言葉を思い出し、慌てて大家の手を制した。
「はあ? 暗くて何も……」
「あいつ、極度に光を怖がってる。……俺のスマホのライトで少しずつ照らしますから」
俺はスマートフォンを取り出し、ライト機能を起動した。
光量を一番弱く絞り、そろそろと部屋の中へ足を踏み入れた。
異臭はさらに強くなる。
床にはコンビニ弁当のゴミや脱ぎ散らかされた衣類が散乱していた。
まるで、この数日間、ここで獣でも暮らしていたかのようだ。
そして、光が届くべき窓はすべてガムテープと古い毛布で、まるで防空壕のように厳重に目張りされていた。
あいつは本気で光を拒絶している。
「佐々木! どこだ!」
俺はライトを床から壁へと滑らせた。
健太は、いた。
部屋の隅、デスクと本棚の隙間に、まるで巣でも作るかのように布団と毛布を丸めて引きずり込み、その中心で胎児のようにうずくまっていた。
「佐々木!」
俺は駆け寄った。
ライトが健太の顔を照らし出す。
この世のものとは思えない光景だった。
健太はこのわずか数日で、驚くほど痩せこけていた。
頬はこけ、唇は乾ききってひび割れている。
着ているスウェットは汗と何かで汚れ、異臭の発生源の一つになっていた。
そして、その目。
光を浴びた健太は「ヒッ」と短い悲鳴を上げ、両手で顔を覆った。
だが、その指の隙間から見えた瞳はもはや焦点が合っていなかった。
昨日までの「濁り」とは違う。
それは完全に光を失ったガラス玉のような虚な目だった。
「佐々木! 俺だ、三上だ! 分かるか!?」
俺は健太の肩を掴んだ。
骨張った肩が服の下で小刻みに震えている。
「……みかみ、さん……?」
健太が、かろうじて声を漏らした。
「そうだ! 大丈夫か!? 今、病院に……」
「……だめ……」
健太は弱々しく首を振った。
「……まぶしい……けして……。ひかり、が……いたい……」
「分かった、分かったから!」
俺はスマホのライトを床に向け、間接照明のように光を弱めた。
「佐々木。お前、いつから何も食ってない? 水は?」
「……わかんない……」
健太の返事はひどく曖昧だった。
「昨日、俺が来た時には話さなかったが……何かあったんだろう? いいから言ってみろ」
俺は確信を持って聞いた。
健太がこれほどまでに怯える理由。
光と、もう一つ。
健太は顔を覆ったまま、コクリと小さくうなずいた。
「……聞こえるんス……」
「何がだ」
「……こえ……。ずっと……さっきから、ずっと……」
「なんて言ってる」
「……『だれ』だって……。『だれか、きた』って……」
健太は俺ではない「誰か」と会話しているようだった。
「佐々木! 俺の声は聞こえるか!?」
俺は健太の耳元で叫んだ。
「……みかみさんのこえ……」
健太は虚ろな目で俺の背後にある暗闇を見つめた。
「……なんか……すごく、とおい……。みずの、なかに、いるみたいだ……」
(――まさか、本当に呪われたっていうのか?)
俺は健太の変わり果てた姿を見て、そう思わずにはいられない気持ちになっていた。
「でも……」
健太が、ふいに続けた。
「こっちの『こえ』は……すごく、ちかい……」
「こっちの?」
「……うん……。さっきから、ずっと……やさしいんスよ……」
「やさしい?」
俺は背筋が凍るのを感じた。
どう見ても苦しめられている健太が「やさしい」なんて言葉を発する、その気持ち悪さにだ。
「……みかみさん……」
健太が、ゆっくりと俺の方を見た。
いや、俺の肩越しの暗闇に焦点を合わせようとしている。
「……このひと……わかってくれるんス……」
「何をだ」
「……おれが……ずっと、ひとりだったこと……。だいがくでも……へんじんあつかいで……。みかみさんにも……『びょうき』だなんて、いわれて……」
俺は息を飲んだ。
それは俺が三日前に健太に突きつけた言葉だった。
「……でも、このひとはちがう……」
健太の虚ろな目に、わずかに熱が戻った。それは狂信の熱だった。
「『わたしも、おなじだった』って……。『だれも、みてくれなかった』って……。『きみだけは、わたしのこと、みてくれるね』って……!」
健太はまるで愛しい人に語りかけるように暗闇に向かって呟いた。
「やめろ、佐々木! そいつはダメだ! そいつの話を聞くな!」
俺は何故か嫌悪を感じ、健太の体を強く揺さぶった。
その瞬間。健太の表情が一変した。
虚ろな目は消え、鋭い憎悪が、その瞳に宿った。
「――うるさいッ!!」
健太は痩せこけた体からは想像もつかない力で俺の手を振り払った。
「邪魔するな! あんたに何が分かる!」
「佐々木……」
「この人だけなんだ! 俺のこと、分かってくれるのは! calmさん……凪さんだけが俺を『見て』くれてるんだ!」
「そいつはお前を殺そうとしている、呪いかもしれないんだぞ!」
「違うッ!」
健太は暗闇の中で叫んだ。
「あんたが、あんたたちが、この人を殺したんだろ! 『びょうき』だ『おくびょうもの』だってみんなで馬鹿にして! だから、この人は『みて』ほしいだけなんだ!」
ダメだ。もう俺の声は届いていない。健太の精神は完全に混乱している。
「佐々木! 病院に行くぞ! 今すぐだ!」
俺は健太の腕を掴み、無理やり立たせようとした。
だが健太は床に散らばっていた専門書を掴み、俺の頭に殴りかかってきた。
「来るな! 触るな! あんたは敵だ! 凪さんを、これ以上、苦しめるなぁっ!」
本が俺の肩に当たり、鈍い痛みが走る。
衰弱しきっていたはずの健太が火事場の馬鹿力か、あるいは呪いの力なのか、狂ったように暴れ始めた。
「大家さん! 救急車呼んでくれ! 早く!」
俺は暗闇の中で暴れる健太を押さえつけようとしながら、部屋の外で立ち尽くす大家に向かって叫んでいた。




