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わたしを見て  作者: かわさきはっく


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第8話 幻聴

 佐々木健太は編集部を二日続けて休んだ。

 一日目は『体調不良』というメッセージが来た。

 だが二日目である今日は何の連絡もなかった。無断欠勤だ。

 月刊「深淵」編集部。

 俺、三上悟はPCのモニターを睨みつけながら、苛立ち紛れに舌打ちをした。


(あの馬鹿、ふて腐れてやがるな)


 三日前、俺が『クビにする』とまで言って、あいつの暴走を止めた夜。

 あの時の健太の軽蔑するような目が脳裏に焼き付いて離れなかった。

 やりすぎたとは思っている。

 あいつの民俗学への情熱が危険な方向へ向かっているのを、もっとうまく軌道修正できなかったのか。

 だが、あのままcalm(カーム)の絵をクリックさせるわけにはいかなかった。


(……いや、待て)


 俺の脳裏に別の、もっと不吉な可能性が浮かび上がった。

 あの日、編集部で俺がPCを閉じた後。

 あいつがアパートに帰ってから、一人で『見た』としたら?

 そして、昨日の『体調不良』が呪いのせいだとしたら?


「……馬鹿な」


 俺は自分の想像を振り払うように首を振った。

 だが、一度芽生えた疑念はじわりと胸の中に広がっていく。

 あいつは俺に反発して意地になってクリックしたかもしれない。

 そして今、一人でアパートに閉じこもり、呪いに怯えているとしたら。


「三上さん、顔色悪いですよ。佐々木くんのこと、心配っスか?」


 隣のデスクの先輩記者がニヤニヤしながら声をかけてきた。


「うるせえよ。あいつ一人減ったところで、こっちの仕事には関係ねぇ」


 俺は悪態をつきながら上着を掴んで席を立った。


「……ちょっと野暮用だ。午後は戻らんかもしれん」


 編集長の制止も聞かず、俺は編集部を飛び出した。


 向かった先は健太のアパートだった。

 呪いの事も頭にあったが、連絡もなく休んだ健太の事が純粋に心配になったのだ。


 健太の住む、木造モルタルのアパート。

 その建物は薄曇りの空の下で、よどんだ空気を吸って湿っているように見える。

 俺は階段を駆け上がり、角部屋の「203」号室の前に立った。

 インターホンを押す。

 ピンポーン、と間の抜けた音が響くだけで、応答はない。

 ドアノブを回す。施錠されている。


「佐々木! いるんだろ! 開けろ! 三上だ!」


 俺はドアを拳で叩いた。

 ガタガタと安っぽい音を立てるが、やはり中からの反応はない。

 しかし、俺は確信していた。健太はこの中にいる。

 ドアポストの隙間から、濃密な「生活」の匂いが漏れ出ているのを感じるからだ。

 いや、それは生活というより……もっと、淀んだ何か。

 閉め切られた部屋の湿った空気の匂いだ。


 その時、俺は廊下に小さな黒いビニール袋が落ちているのに気づいた。

 近所のドラッグストアのロゴが入っている。

 中身が少し見えていた。

 それはビタミン剤の空き箱と大量の目薬のプラスチック容器だった。


 ぞわり、と全身の毛が逆立った。


「佐々木! おい、返事をしろ! 大丈夫か!」


  俺はドアが壊れるのも構わずにドアノブをガチャガチャと揺らしながら叫んだ。


 その時だった。

 ドアの内側から、ガタリ、と微かな物音がした。

 何かが床に落ちたような音。


「……!」


 俺は息を殺し、耳をドアに押し当てた。


「……かえって……ください……」


 蚊の鳴くような、か細い声が聞こえた。健太の声だ。


「佐々木! 生きてたか! 何してる、開けろ!」


「……むり、です……かえって……」


「馬鹿野郎! 三日前のことなら謝る! あんな言い方したのは悪かった! だから、とにかく出てこい! 話を聞く!」


 俺は必死に呼びかけた。


「……ちがう……そうじゃ、なくて……」


 健太の声はひどくくぐもっている。

 まるで毛布か何かを頭から被って喋っているかのようだ。


「……ひかりが……いたいんス……」


「光?」


「まぶしい……目が……目が痛い……から……あけられない……」


 俺は言葉を失った。


(まぶしいからドアを開けられない……? いや、言動がおかしい)


 健太の様子は明らかに異常だ。


「病院には行ったのか!? 眼科医には!?」


「……行った……いじょうないって……。だから、もう、ほっといてください……」


「異常が無いわけねえだろ! いいか、佐々木! 明日も出てこなかったら、大家さんに言って、マスターキーで開けさせるからな! 分かったな!」


 返事はなかった。

 ただ、ドアの向こう側で健太が息を殺している気配だけが、生々しく伝わってきた。

 俺は重い舌打ちを一つすると、ひとまずその場を離れるしかなかった。


 健太はアパートの玄関ドアに背中を預け、ずるずると床に座り込んでいた。

 三上の声が遠ざかっていく。

 階段を下りる足音が消え、世界は再び、完全な静寂と暗闇に包まれた。


 ***


(……行った)


 健太は安堵のため息を漏らした。

 三上の声が、どれほど怖かったことか。

 あのドアを開けられたら、廊下の薄暗い蛍光灯の光でさえ、今の健太の目には焼けた鉄の棒を突き刺されるのと同じ苦痛を与えただろう。

 この三日間で健太の視界は激変していた。

 右目の隅に現れた「染み」はもはや「染み」と呼べるような可愛らしいものではなくなっていた。

 それは視界の三分の一を覆い尽くす、巨大な「闇の塊」となっていた。

 右目で見る世界は右側がごっそりと欠け落ち、まるで日食でも見ているかのように、中心の光だけが歪んで見えた。

 左目も、すでに同じ症状が始まっている。


 光が痛い。

 蛍光灯も、スマートフォンの画面も、PCのモニターも、すべてが凶器だった。

 健太はこの部屋のありとあらゆる隙間をガムテープと古い毛布で塞ぎ、完全な暗闇を作り出していた。

 ここだけが唯一の安全な場所だった。


 だが安全ではなかった。

 物理的な光を遮断したことで、健太は別のものを「見て」しまっていた。

 暗闇に目が慣れると、視界を覆うあの「黒い塊」が、ただの黒ではないことが分かってきたのだ。

 それはまるで、生きて呼吸しているかのように、ゆっくりと脈打っていた。

 そして、その闇の奥に、無数の……何かが……(うごめ)いている。


(助けて……)


 三上の声が聞こえた時、そう叫びたかった。

 でも、言えなかった。

 この目をどう説明すればいい?

 三上はきっと俺を病院に連れて行くだろう。

 眩しい光の下に無理やり引きずり出すだろう。

 それが何よりも怖かった。


 静かだ。

 三上が去ったアパートは耳が痛くなるほど静かだった。

 健太はベッドまで這って戻り、布団の中に潜り込んだ。

 この暗闇と静寂だけが今の健太のすべてだった。


 その時だった。


(……キ……)


 耳鳴りだと思った。

 だが、それは耳鳴りのように金属的ではなかった。

 もっと有機的な……衣擦(きぬず)れのような、乾いた葉を踏むような、微かな音。

 健太は布団の中で息を止めた。


(……今の、なに……?)


 音は部屋の隅から聞こえてくる。

 ガムテープで目張りした窓の方角だ。

 三上が帰ったのはもう十分以上前のはずだ。

 風の音? いや、この古いアパートは隙間風はひどいが、こんな音はしない。


(……て……)


 今度ははっきりと聞こえた。


「え?」


 健太は思わず声を漏らした。

 暗闇の中、健太はゆっくりと首を巡らせた。

 視界の半分はすでに闇に侵食されている。

 音は変わらず部屋の隅から聞こえてくる。


『…………見て…………』


 それは声だった。

 男か、女か。幼いのか、老いているのか。それも分からない。

 まるで何枚もの湿った布を通して聞くような、くぐもった、かすれた声。


 健太は悲鳴を上げようとした。だが、喉が凍り付いて、音が出ない。


『…………わたしを……見て…………』


 声は確かに健太に語りかけていた。

 暗闇に閉じこもった健太の耳に呪いの第二段階が、ついに届いた瞬間だった。

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