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わたしを見て  作者: かわさきはっく


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第7話 染み

 翌日、佐々木健太は編集部を休んだ。

 三上には『体調不良で一日休みます』と、スマートフォンのメッセージアプリで簡素な連絡を入れただけだった。

 だが、本当の理由は体調不良などという生易しいものではなかった。


 昨夜、編集部から帰宅した後。

 あのチカチカする違和感は明確な「形」を取り始めていた。

 最初は目の端にまつ毛でも入ったのかと思った。あるいは小さな糸くずが飛んでいるのかと。

 だが、それは消えなかった。

 瞬きをしても、目をこすっても、顔を洗っても。

 それは健太の右目の視界の右斜め下あたりに、常に「在り続けた」。


 インクの染みだ。


 乾いた紙に一滴だけ黒いインクを落としたような、じわりと輪郭がにじんだ小さな黒い染み。

 それは健太の視線と共に動き、しかし決して視界の中心に来ることはない。

 常に意識の端で、その存在を主張し続けていた。


「……うそだろ」


 健太はアパートの洗面所の鏡の前で自分の目を必死に見開いた。

 充血はしているが黒い染みなどどこにもない。

 当たり前だ。物理的に存在しているわけではないのだから。

 それは脳が、あるいは網膜が、calm(カーム)の絵によって「汚染」された証拠だった。

 昨夜の「落胆」は今や、本物の恐怖へと反転していた。


 ――これは「ごっこ遊び」じゃない。


 健太はその日、一睡もできなかった。

 夜が明けるのを待ち、震える手で近所の眼科クリニックを検索した。

 まだ理性が残っていた。

 まだ、これが何かの病気であってほしいという最後の望みにすがりたかった。


「はい、次、佐々木さーん」


 昼前のクリニックは高齢者で混み合っていた。場違いな若者である健太に看護師の無機質な声がかかる。

 暗室に導かれ、いくつかの検査を受けた。

 気球が映るレンズを覗き込み、目に風を当てられ、眼底の写真を撮られる。

 どの検査も、あのcalm(カーム)の絵とは比べ物にならないほど、(まぶ)しい光を伴った。

 健太はそのたびに「痛っ」と悲鳴を上げそうになるのを必死でこらえた。


 診察室。

 人の良さそうな初老の医師が健太の眼底写真とカルテを交互に見比べながら、小さく首を傾げた。

 健太の心臓が嫌な音を立てて跳ねる。


「うーん……佐々木さん。昨日今日で、何か変わったことしました?」


「……PC作業を、少し長く……」


「なるほどねえ。まあ、検査結果から言うと、眼球も網膜も、非常に綺麗ですよ。傷一つない。眼圧も正常値です」


「で、でも、先生! 染みが……黒い染みが見えるんです!」


 健太は必死に訴えた。


「ああ、飛蚊症(ひぶんしょう)のことかな。誰にでもあるんだけど、佐々木さんの年齢だとちょっと早いかなあ。でも、写真には特に何も……」


「飛蚊症なんかじゃない! 黒い、インクみたいな染みです!」


 健太の剣幕に医師は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに温和な笑みに戻った。


「まあ、落ち着いて。おそらく、極度の眼精疲労でしょう。寝不足だったり、強いストレスがかかったりすると、脳が視覚情報を誤認することもありますから。……ああ、大学のレポートか何かで徹夜でもしたかな?」


 医師は処方箋のPC入力画面に向き直った。


「ビタミンの目薬と、あとはそうだなあ……ブルーライトカットの眼鏡でも使ってみたらどうかな。お大事に」


 健太は待合室の硬い椅子に崩れるように座り込んだ。

 手には「眼精疲労」と書かれた診断書とビタミンの目薬。

 医師の言葉が頭の中で反響していた。

 『異常ありません』『非常に綺麗ですよ』『ストレス』『眼精疲労』


 違う。違う、違う、違う! これは病気じゃない。

 だから医者には見えないんだ。

 これは呪いだ。calm(カーム)の呪いが俺の目の中で確実に進行しているんだ。


 健太は震える手でスマートフォンを取り出した。

 三上に電話しようとした。

 だが、指が通話ボタンを押す直前で凍り付いた。

 三上に何と説明する? 『呪われました』と? 『眼科では異常なしでした』と?


 馬鹿にされるだけだ。

 『だから言わんこっちゃない』と、あの冷めきった目で見下されるだけだ。

 『クビにする』と言った三上の顔が脳裏に蘇る。


(……言えるわけない)


 二日前に、あれだけ啖呵(たんか)を切った手前、今さら「助けてください」とは健太のちっぽけなプライドが許さなかった。

 俺は三上とは違う。「見る」と決めたんだ。


 健太は編集部には寄らず、アパートに直帰した。

 処方されたビタミンの目薬を震える手で何度も差した。

 だが、黒い染みは消えるどころか、昨夜よりもわずかに、その輪郭を広げているようにさえ見えた。


 陽が傾き、部屋が薄暗くなっていく。

 健太は電気もつけず、ベッドの上にうずくまった。

 窓から差し込む西日が昨日までの光とはまったく違う、凶暴な「痛み」を伴って目を刺す。


 健太は耐えきれずに立ち上がり、窓の遮光カーテンを力任せに引き締めた。

 ガタン、と音を立てて、部屋は完全な闇に包まれた。

 光による「痛み」は消えた。

 だが暗闇の中で、健太の視界に浮かぶ「それ」は、より一層、くっきりとその存在を主張していた。


 黒い染み。

 まるで暗闇そのものよりも、さらに一段階深い「虚無」の色をしたそれが、健太の視界の隅で静かに呼吸しているかのように不気味に脈打っていた。


 健太は暗闇の中で独りだった。

 誰にも相談できない。医者にも、三上にも。

 呪いは確実に健太の精神を、その日常から切り離し、孤立させていった。

 噂が本当ならば、失明まではあと五日だ。

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