第54話 わたしを見て
俺、三上悟の意識が白く弾けた瞬間、現実世界の感覚が一気に流れ込んできた。
だが、その主導権を握っているのは俺ではない。
俺の肉体という器に、蒼月凪という巨大な哀しみが満ちている。
痛い。痒い。熱い。そして何より、怖い。
誰かに見られることが、皮膚を剥がされるように怖い。
「……あ、あ……」
俺の喉から少女の怯えた声が漏れた。
閉じていた瞼を恐る恐る開ける。
視界は白濁し、歪んでいたが、そこにある顔は認識できた。
姉さんだ。蒼月海琴が泣きそうな顔で、こちらを見ている。
「……ひっ!」
俺の体は反射的にのけぞり、部屋の隅へ逃げようとした。
見ないで。
今のわたしは本当の化け物だ。穢れて、臭くて、汚い。
姉さんにだけは、こんな姿を見られたくなかった。
「……待って! 凪!」
海琴が俺の腕を掴んで離さなかった。その手は震えていたが、力強かった。
「……離してよ……! 見ないでよ……!」
俺の口が勝手に叫ぶ。
それは三上の言葉ではなく、凪の魂の叫びだった。
「……姉さんも、笑うんでしょ……? わたしのこと、化け物だって……世界中に言いふらすんでしょ……?」
「……違う!」
海琴が叫び返した。
「……笑ったりしない! 私はあなたを……凪を、自慢したかっただけなの!」
「嘘つき!」
凪の感情が暴走する。
俺の体から黒い瘴気が噴き出しそうになるのを、俺自身の意志で必死に抑え込む。
(……聞け、凪! 姉さんの目を見ろ!)
俺は心の中で、同居している少女に怒鳴った。
(……逃げるな! お前が一番欲しかった答えが、今、目の前にあるんだぞ!)
海琴は俺の……いや、凪の爛れた顔を両手で包み込んだ。
腐臭が漂う顔だ。膿がついた包帯だ。
普通の人間なら目を背けたくなるような醜悪な姿。
だが、海琴の瞳は真っ直ぐにそれを見据えていた。
「……ごめんね、凪。……怖かったね。痛かったね」
海琴の目から涙が溢れ、俺の頬に落ちた。
その熱さが、凪の凍りついた心を溶かしていく。
「……私はあなたのこの顔が、嫌いだったことなんて一度もない。……一生懸命生きてる、大好きな妹の顔よ」
「……ねえ、さん……」
「……私が写真を載せたのは、あなたの寝顔があんまり綺麗だったから……。……みんなに、私の自慢の妹を見てほしかったの。……それだけだったの」
海琴は俺の額に自分の額を押し付けた。
「……見てるよ、凪。……私はあなたを見てる。……化け物なんかじゃない。……私の大切な妹」
その言葉が呪いの核心に触れた。
凪の中で凝り固まっていた拒絶への恐怖が、ガラガラと音を立てて崩れていく。
姉さんは私を見てくれている。醜い姿のままでも、愛してくれている。
「……う、うわあああああああ!」
俺の口から子供のような泣き声が溢れ出した。
それは怨嗟の叫びではなく、3年間ずっと堪えてきた、寂しさの爆発だった。
海琴は俺の体を――その中にいる妹を強く抱きしめた。
黒田はその様子を何も言わずに見守っていた。
どれくらいの時間が過ぎただろうか。
俺の中の嵐のような感情の奔流が、次第に穏やかな波へと変わっていくのを感じた。
憎しみという濁流が引き、後に残ったのは透明で静かな哀しみだけだった。
(……凪。……聞こえるか)
俺は心の中で、落ち着きを取り戻した少女に語りかけた。
(……誤解は解けたな。……お前の姉さんは、お前を裏切ってなんかいなかった)
『……うん……』
脳裏に響く凪の声は、憑き物が落ちたように透き通っていた。
(……なあ、凪。……一つだけ、聞かせてくれ)
俺はずっと疑問に思っていたことを問うた。
(……お前が俺を生かしていた理由だ)
他の被害者は皆、数日で死んだ。茜さんも、俺より早く命を落とした。なぜ、俺はまだ生きていられる?
(……俺が嘘をつかないことはもう分かるだろ? ……教えてくれ。なんで俺だったんだ)
しばらくの沈黙の後、凪がぽつり、ぽつりと語り始めた。
『……誰よりも、わたしを……見てくれそうだったから』
(……見てくれそう?)
『……おじさんは、これが死に向かう呪いだって分かってた。……怖がってた。……それでも、他人を助けるために、呪いを見ようとした』
凪の言葉が、俺の胸に染み渡る。
『……そんな人なら、わたしのことも、理解してくれるんじゃないかって……』
彼女は俺のオカルト記者としての、いや、人間としての足掻きを見ていたのだ。
健太を救えなかった後悔。健太が拡散した呪いを止められたなかった罪悪感。自身が呪われても、それでも逃げずに、真実を知ろうとした俺の姿勢を。
『……わたしね、あるの』
凪の声が恥ずかしそうに、でも少しだけ希望を含んだ響きに変わった。
『……わたしが、自分で撮った写真が』
(……写真?)
『……姉さんに撮ってもらったやつじゃなくて、わたしが自分で撮った、とっておきの写真。……それを見てもらいたかった』
それが、彼女の本当の未練。
復讐でも、道連れでもない。ただ、自分の作品を、自分の生きた証を、誰かに認めてもらいたかったのだ。
『……もし、わたしの夢が叶ったら……。誰かが、その写真をちゃんと見てくれたら……。ここから抜け出せるかもしれない、そんな風に思えたの』
ここから抜け出す。
それはこの泥のような呪いの底から、彼女自身が解放されるということだ。
(……そうか。……分かった)
俺は現実世界で、ゆっくりと目を開けた。
視界はまだ闇だ。だが、やるべきことははっきりと見えていた。
「……黒田さん」
俺は海琴の腕の中で、しわがれた声を出した。
「……パソコンを。……凪のパソコンを開いてください」
「……あ? ああ」
黒田がテーブルの上のPCを引き寄せた。
「……あの子が、見せたいものがあるそうです。……それを俺たちが見届ければ、この悪夢は終わる」
海琴が体を離し、涙を拭ってPCの前に座り直した。
彼女の手で、妹の遺した夢の扉が開かれようとしていた。




