第53話 深淵へのダイブ
海琴の部屋に落ちた沈黙は外から響き始めた風の音によって破られた。
ヒュオオオオ……。
窓ガラスがカタカタと震える。
それは単なる風ではなかった。雨宮が命を賭して作り出した凪の時間が終わり、再びK市に嵐が戻ってこようとしている合図だった。
「……時間がない」
俺、三上悟は膝の上で拳を握りしめた。
全身の皮膚が粟立つ。
呪いが活性化し、俺の肉体を内側から食い破ろうと蠢き始めているのが分かる。
「……海琴さん。やるなら、今しかありません」
「……止めるって、どうやって……」
海琴は蒼白な顔で俺を見た。
「……私が謝ればいいんですか? 許してくれって……」
「……違います」
俺は首を振った。
「……謝罪なんて彼女は求めていない。……凪が求めているのはもっと単純で、もっと難しいことです」
俺は見えない目で彼女の方角を見据えた。
「……『見る』ことです」
「……見る?」
「……あなたは3年前、彼女の爛れた顔写真をネットに晒してしまったことを悔やんでいる。……だから、今の呪いという現実からも目を逸らし続けてきた。……違いますか」
図星だったのだろう。海琴が息を呑む気配がした。
「……凪はそれが寂しかったんだと思います。……世界中が彼女を化け物扱いしても、姉さんだけは……あなただけは彼女を直視してほしかった」
俺は自分の爛れた腕をさすった。包帯の下の崩れた皮膚。今の俺はあの時の凪と同じ姿だ。
「……俺が凪を呼びます。……俺の意識を沈めて、奥底に隠れている彼女を引きずり出す。……そうしたら、彼女は俺の口を使って喋るでしょう」
「……!」
「……その時、俺の体は何をするか分からない。……あなたに向かって悪口雑言を叫ぶかもしれない」
俺は息を吸い、覚悟を告げた。
「……それでも、逃げないでください。……目を逸らさないで、抱きしめてやってください。……『見てるよ』って、伝えてやってください」
それが呪いを解く唯一の鍵だと感じた。
姉の愛ある視線だけが、彼女を人柱という孤独な座から降ろすことができる。
「……できるか? あんたに」
黒田が低い声で海琴に問うた。
「いや……やってもらうしかねえんだ。これ以上、死人を増やしたくはない」
海琴は震えていた。
だが、やがて顔を上げ、涙を拭った。その目には悲壮な決意が宿っていた。
「……やります。……私が始めたことなら、私が終わらせなきゃ」
彼女は立ち上がり、部屋の奥から一つの鞄を持ってきた。
中から出てきたのは、黒いノートパソコン。凪の遺品だ。
「……これがあった方が、いいかもしれない」
そのPCは凪が世界を呪い、そして世界と繋がっていた唯一の窓口だ。
黒田がPCをローテーブルに置き、電源を入れた。起動音が静かな部屋に響く。
「……三上。準備はいいか」
黒田が俺の背中に手を置いた。
「……ああ。……黒田さん、俺の体が暴れ出したら、押さえつけてください。……舌を噛まないように」
「……任せろ。骨が折れない程度にしてやる」
俺はPCの前に座り、キーボードの上に手を置いた。
冷たいプラスチックの感触。そこから、ビリビリとした電気のような怨念が伝わってくる。
「……海琴さん。俺の手を握ってください」
俺が右手を差し出すと、海琴の冷たく、湿った手がそれを握り返した。
「……いきます」
俺は深く息を吐き、意識のスイッチを切り替えた。
抵抗をやめる。
俺の中に巣食う黒い染みに身を委ねる。
(……潜るぞ)
フッ、と重力が消えた。
次の瞬間、俺の意識は海琴の部屋から消失し、あの泥の底へと垂直落下していった。
***
寒い。
暗い。
臭い。
そこは何度来ても慣れることのない絶望の集積地だった。
粘りつくような闇が俺の全身にまとわりつく。
耳元で無数の死者たちの囁きが聞こえる。
『……痛い』
『……苦しい』
『……寒い』
俺はそれらを振り払い、さらに深く潜った。
前回は夢の中で受動的に見せられた光景だった。だが今回は違う。俺自身の意志で、この底を目指している。
「……どこだ、凪」
俺は心の中で叫んだ。
「……出てこい。……姉さんが待ってるぞ」
反応はない。
ただ、泥の密度が増し、圧力が強くなるだけだ。
拒絶されている。来るな、放っておけという、凪の意志が壁となって立ちはだかる。
(……ふざけんなよ)
俺はいら立ちを覚え、闇を掻き分けた。
(……こっちはあんたのせいで散々な目に遭ってるんだ。……目も見えねえ、顔も崩れた。……おまけに大事な仲間まで殺された)
茜さんの顔が脳裏をよぎる。
雨宮さんの最期の姿が浮かぶ。
(……文句の一つも言わせろよ。……引きこもってないで出てこい!)
俺は怒りを推進力に変え、さらに奥へと突き進んだ。
その時。現実世界の肉体に激痛が走ったのが分かった。リンクしているのだ。
俺が深層へ近づけば近づくほど、地上の俺の体は呪いの反動を受けて壊れていく。
***
「……三上さん!?」
海琴が悲鳴を上げた。
目の前の三上の様子が急変した。白目を剥き、全身を弓なりに反らせ、ガクガクと激しく痙攣し始めたのだ。
包帯の隙間から、新たな血と膿が噴き出す。
口からは泡と共に動物のような唸り声が漏れている。
「……俺が抑える!」
黒田が三上の背後から羽交い締めにした。
だが、その力は凄まじかった。
大人の男が全力で押さえつけても、跳ね飛ばされそうになる。
「……う、ううううう……ッ!」
三上の喉から、彼のものではない声が混じり始めた。低く、怨嗟に満ちたあの声。
『……来ないで……! 入ってこないで……!』
凪の声だ。
PCの画面が勝手に明滅を始めた。
画面いっぱいにノイズ混じりの文字が走り出す。
『見ないで』『見ないで』『見ないで』
「……海琴さん! 手を離すなよ!」
黒田が叫んだ。
「……三上は今、あいつの首根っこを掴もうとしてる! あんたがアンカーだ! 離したら、三上は戻ってこれねえぞ!」
「……は、はい……!」
海琴は恐怖で泣き出しそうになりながらも、三上の右手だけは離さなかった。
その手は熱く脈動し、まるで別の生き物のように変質し始めていた。
***
見つけた。泥の最深部。
そこに小さな空間があった。
そこだけ時が止まったような青白い光に満ちた場所。
体育座りでうずくまる少女の背中。蒼月凪だ。
彼女はPCのモニターのような四角い窓を覗き込んでいた。
その窓には地上の惨状が映し出されている。
燃える街。逃げ惑う人々。そして、苦しむ俺の姿。
「……凪」
俺は声をかけた。
彼女の肩がビクリと震えた。
ゆっくりと、こちらを振り返る。
その顔には目も鼻も口もなかった。のっぺらぼうの顔に赤いノイズだけが走っている。
『……なんで、来たの』
声が直接脳に響く。
『……ほっといてよ。……もう、みんな壊れちゃえばいいのに』
「……そうはいかない」
俺は彼女に向かって歩き出した。
足が重い。一歩進むごとに電流が流れるような痛みが走る。
「……お前の姉さんが待ってる」
『……嘘つき』
凪の体から黒い棘のようなものが噴き出した。拒絶の意思だ。
『……姉さんは、わたしを売った。……裏切った』
「……違う!」
俺は棘に体を貫かれながらも、歩みを止めなかった。
精神体であるはずの俺の体から血が流れる。痛い。痛すぎる。
「……彼女はお前を守りたかっただけだ。……お前が彼女を守りたかったのと同じようにな!」
俺の言葉に凪の動きが止まった。
「……俺には分かるよ。……お前、姉さんに穢れがいかないように、自分で全部引き受けたんだろ? ……そんな健気なことしておいて、なんで最後だけ信じてやらないんだよ」
俺は凪の目の前までたどり着いた。そして、その顔のない顔に、自分の額を押し付けた。
「……一緒に来い。……自分の目と耳で確かめろ」
俺は全力で彼女の意識を掴んだ。
引きずり上げる。
泥の底から光のある場所へ。
「……ぐ、おおおおおおっ!」
現実世界の俺が咆哮した。俺という器に蒼月凪という巨大な異物が流れ込んでくる。
俺の意識が白く弾けた。
あとは頼む。黒田さん。海琴さん。




