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わたしを見て  作者: かわさきはっく


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第51話 命の楔

 神社の離れ座敷には重苦しい静寂と古い墨の匂いが漂っていた。

 三上悟は泥のように深く眠っている。

 連日の極限状態による緊張と激痛、そして精神的な消耗が、彼の意識を強制的にシャットダウンさせたのだ。

 その不規則で重い寝息だけが、この部屋に残された唯一の生気だった。


 雨宮は三上の寝顔を一瞥し、静かにうなずいた。


(……ゆっくり休まれるがいい。……目が覚めた時、少しでも世界が静かになっていればよいが)


 雨宮は祭壇の前で古文書を広げた。

 そこに記された『鎮めの祈祷』――荒れ狂う穢れを一時的に封じ込めるための儀式。

 その対価は術者の命であると、墨文字は無慈悲に告げていた。


(……これまでは大袈裟な作り話だと笑い飛ばしておったがな)


 雨宮は自嘲気味に口元を緩めた。

 だが今、窓の外には黒い雲が渦巻き、K市の方角からは地鳴りのような怨嗟の声が届いている。

 現実がおとぎ話を追い越してしまった。

 今となってはこの古びた記録だけが、すがるべき唯一の現実的な対処法に見えた。


 雨宮は祭壇に新しい卒塔婆(そとば)を立て、筆を走らせた。

 そして、懐から一枚の和紙を取り出し、震える手で最後の言葉を書き残した。

 それを祭壇の脇に置く。


(……怖いか?)


 雨宮は自らの手を見つめた。

 死への恐怖はあった。だが、それ以上に彼を突き動かしていたのは、胸の奥で燻り続けていた強烈な自責の念だった。

 三年前、蒼月凪の苦しみを見て見ぬふりをした罪。

 そのツケが回り、高嶋茜という未来ある医師までもが犠牲になった。

 この事態の責任の一端は間違いなく自分にある。


「……参ろうか」


 雨宮は正座し、柏手を打った。

 乾いた音が、張り詰めた空気を震わせた。


 祝詞(のりと)が始まる。

 それは神を称える言葉ではなく、荒ぶる魂を慰め、自らの命を糧として差し出す契約の言葉だった。


 朗々と響く声に合わせて、祭壇の蝋燭が激しく揺らめいた。

 風がないはずの室内で、紙垂(しで)がざわめき、卒塔婆がカタカタと音を立てて震え出す。

 目に見えない重圧が雨宮の肩に、心臓にのしかかってきた。


(……来たか)


 雨宮は感じた。

 K市から流れ込んでくる膨大な穢れの奔流が、この神社へと向きを変え、一点に集中しようとしているのを。

 血管がきしむ。心臓が早鐘を打つ。内側から命が吸い取られていく感覚。


「……受け取れ! 我が命、我が魂!」


 雨宮はカッ目を見開き、叫んだ。

 口から血が溢れた。それでも祝詞を止めなかった。


 ドォォォォォォォン……!


 地響きのような音が境内に響き渡った。

 同時に、雨宮の体から力が抜け、視界が白く染まっていく。


 意識が途切れる寸前、彼は感じた。

 暴れ狂っていたK市の穢れの奔流が、急速に勢いを失っていくのを。

 呪いと化し、無差別に牙を剥いていた蒼月凪の怒りが、まるで母親に抱きしめられた赤子のように、ふっと静まり返るのを。


(……ああ、凪殿。……ようやく、話を聞いてくれたか……)


 雨宮は満足げに微笑んだ。

 その体は祭壇の前でゆっくりと崩れ落ち、二度と動くことはなかった。


 ***


 意識の浮上は泥沼から顔を出すような重苦しいものだった。

 俺、三上悟は自分の荒い呼吸音で目を覚ました。


 視界は相変わらずの闇だ。だが、何かがおかしい。

 人の気配が全く感じられない。

 周囲にあるのは耳が痛くなるほどの静寂。聞こえるのは風が木々を揺らす音だけだ。


「……雨宮、さん……?」


 俺は布団から半身を起こし、声をかけた。

 喉が張り付いて、かすれた音しか出ない。

 体は鉛のように重いが、数時間眠ったおかげか指先は動く。


 返事はない。ただ、鼻をつく匂いがあった。


 俺自身の体から出る腐臭とは違う。もっと鋭い、大量の線香を一度に焚いたような煙の匂いと……鉄錆のような血の匂い。


「……おい、雨宮さん」


 嫌な予感が胃の腑を冷たく撫でた。

 俺は這うようにして、匂いの元――祭壇の方へと向かった。

 手探りで進む指先が、畳の編み目をあてもなく掻く。


 やがて俺の手は、それに触れた。

 布の感触。そして、その下にある硬直した肉体の感触。

 冷たかった。まるで、最初から物体であったかのように、体温というものが感じられない。


「……嘘だろ」


 俺は震える手で、その体をまさぐった。

 神主の装束だ。口元あたりが濡れて、固まっている。


「……雨宮さん……。おい、起きてくれよ……」


 俺は体を揺さぶった。だが、老神主はだらりと力を失ったまま、何も答えない。

 ただの肉の塊が、そこにあるだけだった。


「……なんでだよ……。あんた、俺を寝かしつけて……それで終わりかよ……」


 乾いた笑いが漏れそうになった。

 俺が寝ている間に何が起きた? この静寂はなんだ? まさか、このじいさん、たった一人で何かをやらかしたのか?


 バン! と離れ座敷の戸が荒々しく開けられた。

 外の冷気と共に土足の足音がドカドカと入り込んでくる。


「俺だ。今戻ったぞ」


 息を切らせた黒田の声だった。


「……黒田、さん……」


 俺は見えない目で、声のする方を見上げた。


「……雨宮さんが……動かねえんだ……」


 黒田が息を呑む気配がした。すぐに俺の横にひざまずき、雨宮さんの首筋に指を当てる。


「……クソッ……。心停止してやがる……」


 黒田の声が、悔しげに低く(うな)った。


「……外が急に静かになったんだ。……暴れてた発症者たちが、糸が切れたみたいにバタバタと倒れ込んで……。混乱の勢いも弱まった。……まさか、じいさんが一人で……」


「……一人でって、どういうことだ。何をしたんだ、この人は」


「……三上。これだ」


 紙が擦れる音がした。黒田が祭壇の脇にあった何かを拾い上げたようだ。


「……書き置き。……じいさんの字だ」


「……読んでくれ」


 俺は壁にもたれかかり、奥歯を噛み締めた。


「……『三上殿、黒田殿、勝手をお許しください』」


 黒田が震える声で読み上げ始めた。


「……『わしは、この土地の穢れを鎮めるため、自らの命を供物として捧げる儀式を決行いたします』」


「……!」


「……『これは三年前、凪殿を見捨てたわしの罪滅ぼし。……そして、未来ある若者たちに、これ以上の業を背負わせぬための、老いぼれの最後のわがままです』」


 ふざけるな。


 俺は心の中で毒づいた。

 俺たちで呪いに対抗しようって言っておいて。何でみんな勝手に逝くんだよ。

 茜さんも、雨宮さんまで。

 こんな俺が生き残って、何もできずに、ただここにいるなんて。


「……『この儀式で稼げる時間は、そう長くはないでしょう。……ですが、静寂が続いている間に、どうか本当の解決策を見つけてください。……後のことは頼みます』」


 黒田の声が詰まった。

 紙を持つ手が震えている音が聞こえるようだった。


「……馬鹿野郎が……。かっこつけやがって……」


 俺は雨宮さんの冷たい手を握りしめた。

 老人の手は骨と皮ばかりで、枯れ木のように軽かった。

 この手で、たった一人、K市を飲み込むほどの呪いと対峙したのか。


「……泣いてる場合じゃないな」


 俺は袖で顔を乱暴に拭った。爛れた皮膚が擦れて痛むが、どうでもよかった。


「……この静寂は雨宮さんの命そのものだ。……俺たちがのんびりしてたら、神主の死に損になる」


「……ああ、違いねえ」


 黒田も鼻をすすり、立ち上がる気配がした。


「……三上。お前、動けるか」


「……動くよ。這ってでも」


 俺は黒田の手を借りず、自力で立ち上がろうとして、よろめいた。

 だが、倒れなかった。

 雨宮さんが命を削って作ったこの時間を、一秒たりとも無駄にはできない。

 俺たちはまだ、凪の呪いを解いていない。ただ一時停止させただけだ。


 解決策を見つけなければならない。本当の終わらせ方を。


「……行くぞ、三上。弔い合戦だ」


 黒田の声にはもう迷いはなかった。


 俺は見えない闇の中で、雨宮さんの遺体に向かって深く頭を下げた。

 そして、前を向いた。

 嵐は過ぎ去っていない。

 目の前にあるのは、凪いでいるだけの底知れぬ地獄だ。

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