第50話 穢れの奔流
夜が明け、神社の障子越しに白々とした朝の気配が漂い始めていた。
だが、俺、三上悟の視界は変わらず漆黒の闇のままだ。
俺は震える手でスマートフォンのリダイヤルボタンを押し続けていた。
『……おかけになった電話は、電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないため……』
何度かけても同じだ。無機質なアナウンスが俺の焦燥を煽る。
「……出ない」
俺は布団の上で、祈るようにスマホを握りしめた。
昨夜の通話で、彼女は「大丈夫」だと言った。だが、その声の震えと、背後に聞こえた地獄のような騒音は俺の耳にこびりついて離れなかった。
「……三上。やめておけ」
離れ座敷の入り口で、黒田刑事が重い声を出した。
彼は夜明けと共に外へ出て、警察無線と携帯電話を駆使して情報を集めていたはずだ。
「……黒田さん。状況は」
「……最悪だ」
黒田がドサリとあぐらをかいて座る気配がした。衣擦れの音と共に、強いタバコの臭いが漂ってくる。
「……県警本部と連絡がついた。……K市は今朝未明、完全に封鎖された」
「封鎖……?」
「主要な幹線道路、鉄道、すべてストップだ。名目は『大規模な化学工場火災による有毒ガスの発生』だとよ。……だが、実態は違う」
黒田が吐き捨てるように言った。
「……パンデミックだ。壊貌病の発症者が爆発的に増え、暴徒化している。警察官や自衛隊員にまで感染が広がり、指揮系統が崩壊しかけてるらしい」
俺は息を呑んだ。凪の呪いは、ついに都市機能を麻痺させるまでに至ったのか。
「……それで、病院は! 茜さんは!」
「……今、確認した」
黒田の声が一気に低くなった。
ライターを弄ぶカチ、カチという音が、やけに神経に障る。
「……俺の同期が機動隊の指揮を執っててな。……無理を言って、K大学病院の災害対策本部に無線を繋いでもらった」
黒田はそこで言葉を切り、深く息を吸った。
「……高嶋茜は死亡した」
時が止まったようだった。
頭の中で何かが崩れ落ちる音がした。
「……え?」
「……昨夜未明。病院の中庭で発見されたそうだ。……死因は転落による全身打撲」
転落。飛び降り。
「……嘘だ……」
俺は干からびた声でつぶやいた。
「……あんなに気丈だったのに……。最後まで医者として戦うって……」
「……遺体の顔はひどく損傷していたらしいが……それでも、発症していたことは分かったそうだ」
黒田の声が怒りに震えていた。
「……あいつは自分が発症したことを俺たちに隠してやがったんだ。……これ以上、俺たちに余計な心配をかけまいとしてな」
ドン!
黒田が畳を拳で殴りつけた。
「……ふざけんな! 何が大丈夫だ! ……大噓つきが……!」
俺の目から見えない涙が溢れ出した。爛れた皮膚を塩分が焼き、激痛が走る。だが、胸の奥の空洞に比べれば、そんな痛みは何でもなかった。
殺された。
凪に。あの呪いに。俺たちの無力さに。
茜さんは盾になったのだ。俺たちがここで答えを見つけるまでの時間を稼ぐために、たった一人で地獄の最前線に立ち続け、そして折れた。
「……許せない」
俺は奥歯が砕けるほど噛み締めた。
凪の苦しみは分かる。同情もした。だが、これは違う。
これはただの虐殺だ。
「……三上殿」
それまで沈黙を守っていた雨宮神主が、静かに口を開いた。
「……三上殿がK市へ行っていれば、危なかったかもしれん」
「……え?」
「……K市は今、巨大な穢れの壺。……凪殿の怨念と、土地の古い因習が共鳴し、呪いがその強さを増している。……三上殿がそこへ行けば、肉体はもたなかったはず」
雨宮の言葉は慰めには聞こえなかった。
俺が生き残ったのは単に運が良かっただけだ。茜さんが最前線で散ったというのに、俺はここで寝ていただけだ。
「……行くぞ」
黒田が立ち上がった。
「……どこへ?」
「決まってんだろ。K市だ。……茜先生の亡骸を放っておけるか。それに、このまま指をくわえて見てるなんざ、俺の性に合わねえ」
ジャケットを羽織る音がした。
「……俺も行きます」
俺は布団を跳ね除けようとした。
「待たれよ」
雨宮が俺の肩を強く制した。老人の細腕とは思えない力だった。
「……三上殿。あなたはここに残るのです」
「離してくれ! 俺だけ安全な場所にいろって言うのか!?」
「そうではない。……三上殿がK市へ入れば、呪いの進行を早めることになる」
雨宮は諭すように言った。
「……三上殿は今、新たな人柱候補として呪いと深くつながろうとしている。……震源地に近づけば、共鳴はさらに加速し、K市の崩壊を決定的なものにしてしまう。……それを防ぐためにも、ここで待機するのが賢明なのです」
俺は唇を噛み締め、黒田の方へ顔を向けた。
「……黒田さんは、それを……」
「……雨宮さんの言う通りだ。足手まといは連れて行けねえ」
黒田は短く言った。
「……俺が目になってきてやる。……地獄の底がどうなってるか、この目でしっかり見てきてやるよ」
黒田は足早に部屋を出て行った。
砂利を踏む音が遠ざかり、やがて車のエンジン音が響いて消えた。
***
数時間後。
俺のスマートフォンが鳴った。黒田からだ。
俺は震える手で通話ボタンを押し、スピーカーにした。
「……黒田さん。……どうですか」
『……ひどいもんだ』
スピーカー越しに聞こえる黒田の声は、乾ききっていた。
背後からは、絶え間ないサイレンの音と、何かが燃える爆発音、そして、人間ならざるモノたちの唸り声が聞こえてくる。
『……検問は強行突破した。……今、K市のメインストリートにいるが……ここはもう日本じゃねえ』
黒田が実況を始めた。
『……街中から黒煙が上がってる。……道路には乗り捨てられた車が山積みだ。……そして、そこら中に転がってる』
「……転がってるって、何が……」
『……人間だったモノだ』
黒田の声が微かに震えた。
『……顔の皮膚を全部剥ぎ取って、それでもまだ痒いのか、アスファルトに顔を擦り付けてる男がいる。……電柱に登って、「太陽が痛い」って叫びながら自分の両目をドライバーで突き刺してる女もいる』
想像を絶する光景だった。
地獄の釜の蓋が開いたのだ。
『……正常な奴らは家の中に隠れて息を潜めてるか……あるいは、発症者に引きずり出されて襲われてる。……まるでゾンビ映画だ』
バリバリバリ、と乾いた音が響いた。
「……黒田さん!?」
『……銃声だ。……機動隊が発砲してやがる。……暴徒化した発症者を止めるには、もう撃つしかねえって判断だろうよ』
殺し合い。
呪いは人を殺すだけでなく、人と人とを殺し合わせている。
『……三上。……K大学病院が見えた』
黒田の声が一段低くなった。
『……燃えてる。……全焼だ。……茜先生の遺体を探すどころじゃねえ』
俺は畳を握りしめた。爪が剥がれそうになるほど強く。
憤りが、血液のように全身を駆け巡った。
こんな理不尽が許されていいはずがない。
たった一人の少女の孤独と、ネットの悪意が生み出した呪いが、一つの都市を滅ぼそうとしている。
『……一度、戻る』
黒田が言った。
『……これ以上は車が進めねえ。……だが、状況は把握した。……戻ったら、これからのことを考えよう。俺たちがどう動くべきか』
電話が切れた。
俺は暗闇の中で、見えない目をカッと見開いた。
だが、怒りとは裏腹に、俺の体は限界を迎えていた。
茜の死を知ったショックと、黒田の実況が伝えた地獄の光景。
精神的な負荷が、衰弱した肉体のスイッチを強制的に切ろうとしていた。
「……三上殿」
雨宮が俺の枕元に水を置いた。
「……少し、お休みなさい。……黒田殿が戻られるまで、まだ時間があります」
「……寝てる場合じゃ……」
「……戦うには体力が必要。……今は体を休めるのも仕事です」
雨宮の静かな声には、逆らえない説得力があった。
俺は泥のように重い瞼を閉じた。
意識が急速に遠のいていく。
深い、深い闇の底へ。
俺の寝息が聞こえ始めると、雨宮は静かに立ち上がった。
そして、音を立てないように祭壇の方へと歩み寄る。
「……間に合うか」
雨宮は独りごちた。
彼の手には先ほどまで調べていた古文書が握られていた。
そこには『鎮めの儀』とは別の、もう一つの儀式について記されていた。
根本的な解決にはならない。だが、荒れ狂う穢れを一時的に沈静化させ、時間を稼ぐことはできるかもしれない。
雨宮は祭壇の引き出しから、数本の卒塔婆と墨を取り出した。
「……この惨劇が止まるならば……」
老神主は眠る三上に背を向け、たった一人で呪いへ対抗するための準備を始めた。
外ではK市を飲み込んだ嵐が、この神社へも近づきつつあった。




