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わたしを見て  作者: かわさきはっく


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第5話 蒼月 凪(あおつき なぎ)

 佐々木健太は雑居ビルの冷たい非常階段を駆け足で下りていた。

 ガツン、ガツン、とコンクリートを蹴る音が自分の怒りを代弁しているかのようだった。

 外に出ると、いつの間にか降り出した冷たい雨が容赦なくアスファルトを叩いていた。

 十一月の空気はすでに冬の匂いを帯びており、薄いジャケット一枚の健太の体温を容赦なく奪っていく。


(臆病者……!)


 健太の頭の中は先ほどの三上の言葉でいっぱいだった。


『クビにする』『自殺志願者』『お前は病気だ』


 ――それは俺が三上さんに言った言葉か?

 いや、違う。

 三上さんが俺に言った言葉だったか?

 違う、そうじゃない――。

 思考がぐちゃぐちゃに絡まって熱を持っていた。


 三上には分からないんだ。

 あの人はオカルトを「ネタ」としか見ていない。

 心霊スポットも、呪いの古道具も、calm(カーム)の絵も、すべてが雑誌のページを埋めるための「消費物」でしかない。

 でも、calm(カーム)は違う。

 健太がここ数日、寝る間も惜しんで漁った古い掲示板のログが、その証拠だった。


nagi(ナギ)』というハンドルネームで活動していた頃の彼の言葉の断片。


『わたしの絵を分かってくれる人だけが見てくれればいい』

『光が眩しい。夜の海の、あの青だけが本当の色だ』

『誰も、本当のわたしを見てくれない』


 それは健太が大学で感じている疎外感と驚くほどよく似ていた。

 民俗学という、就職にも役立たない学問にのめり込み「オカルト好きの変人」と周囲から距離を置かれる感覚。

 自分が本気で信じている「見えない世界」の話を三上のように「ネタ」としてしか扱わない人間たちへの苛立ち。


(この人も、ずっと一人だったんだ)


 だからこそ、確かめなければならない。

 calm(カーム)が、その魂を削って遺した「呪い」とは何なのか。

 それは本当に人を破滅させるためだけの悪意なのか。

 それとも――「わたしを見て」という悲痛な叫びが形になったものではないのか。


(民俗学徒として、現場(フィールド)を見ずして何を語る)


 健太は自分にそう言い聞かせた。

 三上は「安全な岸辺から眺めろ」と言った。

 だが、伝承や呪いというものはいつだって「岸辺」で生まれるものじゃない。

 渦の中心、その「あっち側」にこそ本質があるはずだ。


 びしょ濡れになりながら、健太は神保町から電車で三十分の自分のアパートに帰り着いた。

 古い木造モルタルの部屋は冷え切っていた。

 電気もつけず、健太は床に散らばるコンビニの袋や脱ぎっぱなしの服をまたぎ、デスクの前に座った。

 バッグから乱暴にノートPCを取り出し、電源コードを壁のコンセントに突き刺す。


 ファンがうなりを上げ、PCが起動する。

 デスクトップ画面には多摩川のUMAに関する資料が開きっぱなしになっていた。

 こんなものはどうでもよかった。

 健太はブラウザを立ち上げた。

 お気に入りに登録しておいた『BlueLull(ブルー・ラル)』のURLをクリックする。


 暗い青の背景に、いくつかの作品が並ぶ静かなサイト。

 三上がいる編集部ではクリックを寸前で阻まれた。

 だが、ここは健太一人の城だ。誰も邪魔する者はいない。


 カーソルが『Untitled_Sea』のサムネイルの上を震えながら彷徨さまよう。


 一週間ほどで完全に失明する。

 幽霊の声が聞こえ始める。

 当人は笑いながら自殺する。


 噂が冷たい警告音のように頭の中で鳴り響く。

 本当に死ぬかもしれない。

 本当に戻れなくなるかもしれない。


 健太の指が一度止まった。

 だが、その時。彼はデスクの脇に積んだ資料の中から自分が殴り書きしたメモを見つけた。


nagi(ナギ) = 凪? BlueLull(ブルー・ラル) = 蒼い凪 = 蒼月 凪?』


 そうだ。 この人はもう名前すら奪われて、calm(カーム)という匿名の「呪い」のアイコンとして消費されている。

 三上も、ネットの連中も、みんなそうだ。

 誰も、この人が「蒼月凪」という一人の人間だった可能性に見向きもしない。


(俺が見てやる)


 健太は決意を固めた。

 これは自殺志願じゃない。学術的な探求であり、そして、孤独だった魂への唯一の「鎮魂」だ。


「『見る』よ、calm(カーム)さん……いや、蒼月凪さん」


 健太は震える指で、固く、マウスをクリックした。

 カチリ、という乾いた音が冷え切った六畳一間に響く。

 サムネイルが拡大され、モニターいっぱいに、どこまでも暗く、静かな海が広がった。

 インクを垂れ流したような深い青。

 健太はその画面に吸い込まれるように目を凝らした。

 息をすることさえ、忘れていた。

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