第47話 澱(おり)の底
深い、深い、泥の中を沈んでいく感覚だった。
そこは水の中というよりはタールのように粘着質な闇の底だった。
息ができない苦しさはない。そもそも、ここには生という概念が存在しないからだ。あるのは終わることのない腐敗と、出口のない閉塞感だけ。
(……ここは、どこだ)
俺の問いかけに答える声はない。代わりに無数のさざめきが鼓膜を震わせた。
『……寒い』『……腹が減った』『……なぜ、わしが』『……あいつだけは許さん』
怨嗟。嫉妬。後悔。絶望。
人の形を失い、ドロドロに溶け合った負の感情の残滓が、俺の体を撫で回しながら通り過ぎていく。
俺は直感した。これは蒼月凪の記憶ではない。もっと古い、この舟倉という土地が飲み込んできた数百年分の死者の記憶だ。
雨宮神主の言葉が蘇る。 ――この土地は古くから『流し場』だった。
疫病で死んだ者。間引きされた赤子。殺された罪人。
街が綺麗であり続けるために排泄された汚物たちが川を流れ、この淀みに溜まり、層を成している。
その巨大な堆積物の最下層に彼女はいた。
蒼月凪。
体育座りで膝を抱え、泥の底にうずくまる小さな背中。
彼女の上には何百、何千という死者の霊が積み重なり、その重みで彼女を押し潰そうとしていた。
『……重い』
凪が小さくつぶやいた。
『……痛い。……苦しい。……もう、支えきれない』
彼女は泣いていた。
復讐鬼の顔ではない。理不尽な暴力と重圧に耐えかねる、ただの孤独な少女の顔だった。
俺は理解した。凪は呪いの支配者ではない。
彼女はこの土地のシステム――溢れそうになる穢れを塞き止めるための人柱として、あちら側に選ばれてしまったのだ。
彼女の激しい怨念が、最強の楔として機能してしまった皮肉。だが、その楔も限界を迎え、決壊したダムのように呪いが溢れ出した。それが今回のパンデミックの正体だ。
「……凪!」
俺は泥をかき分け、手を伸ばした。
届かない。
俺と彼女の間には透明で分厚い壁がある。生者と死者の絶対的な境界線。
『……おじさん』
凪がゆっくりと顔を上げた。その目には眼球がなかった。ぽっかりと空いた暗黒の穴から、赤黒い泥が涙のように溢れている。
『……代わって』
彼女は救いを求めるように、あるいは呪うように言った。
『……もう嫌だ。……誰か代わってよ』
その言葉が俺の心臓を鷲掴みにした。瞬間、強烈な引力が俺を襲った。泥の渦が俺を飲み込み、凪のいる底へと引きずり込もうとする。
「……ぐ、うううッ!」
俺は現実の世界で、喉の奥から呻|き声を漏らして跳ね起きた。
「……三上! 気がついたか!」
黒田の野太い声が響く。
俺は肩で息をしながら、周囲を見渡した。
神社の離れ座敷。古文書の山。そして、心配そうに俺を覗き込む黒田と雨宮の顔。
全身がびっしょりと冷や汗で濡れていた。
「……夢を、見ました」
俺はかすれた声で言った。
「……この土地の底です。……凪がそこにいました」
「……どんな様子でしたか」
雨宮が身を乗り出す。
「……潰されそうになっていました。……過去の無数の死者たちに。……彼女は栓をさせられているんです。この土地の穢れが溢れ出さないように」
雨宮はハッとしたように息を飲み、手元の古文書に視線を落とした。そして、震える指で一箇所を指差した。
「……符合します」
雨宮の声が重く響く。
「……ここに見つけました。『人柱の交代』に関する記述を」
「交代……?」
「……はい。強力な怨念を持つ者を人柱として淵に沈め、穢れを封じる。……しかし、人の魂は永遠ではありません。数十年、数百年と経てば魂は摩耗し、封印は緩む。……その時、どうするか」
雨宮は顔を上げ、俺を真っ直ぐに見据えた。
「……『新たな柱を立て、古き柱を解放すべし』。……つまり、今の柱である凪殿を救う――成仏させるためには、代わりとなる『生贄』を捧げるしかないのです」
部屋の空気が凍りついた。
黒田が噛み殺したような声で呻|く。
「……ふざけんな。……じゃあ何か。この騒ぎを収めるには誰か別の人間を殺して、あそこに沈めろって言うのか」
「……儀式の上ではそうなります」
雨宮は苦渋の表情でうなずいた。
「……しかも、誰でも良いわけではない。……凪殿と同等か、それ以上の『穢れ』を受け入れる器を持つ者でなければ……」
俺は自分の手を見つめた。爛れ、包帯が巻かれた醜い手。呪いに侵され、半分あちら側の住人となりかけている肉体。そして何より、凪の孤独と絶望を誰よりも深く理解してしまった精神。
(……代わって)
夢の中で聞いた凪の声がリフレインする。
あれはただの幻聴ではなかった。彼女からの正式な指名だったのだ。
「……俺ですね」
俺は静かにつぶやいた。
「おい、三上!」
黒田が血相を変えて俺の肩を掴む。
「馬鹿なことを言うな! お前が死んでどうする!」
「……死ぬんじゃないんです、黒田さん」
俺は黒田の手をゆっくりと解いた。
「……引き受けるんです。……今の俺なら凪の代わりになれる。……あの子をあの暗い底から解放してやれる」
それに、と俺は心の中で付け加えた。
そうすれば茜さんの助けになるかもしれない。呪いの根源である柱が安定すれば、暴走しているパンデミックは収束するはずだ。
「……雨宮さん。儀式のやり方を教えてください」
「……三上殿……」
雨宮は数珠を握りしめ、長い沈黙の後、覚悟を決めたように目を開いた。
「……一つだけ、死なずに済むかもしれない賭けがあります」
「賭け?」
「……生きながらにして柱となることです。……肉体は現世に残し、魂だけを彼岸へ送り込み、凪殿と入れ替わる。……成功すれば、あなたは植物状態のようになるでしょうが、命は助かる。……失敗すれば、魂ごと砕け散ります」
十分だ。何もしなければ全員が死ぬ。俺も、呪われている人々も。
「……やりましょう」
俺は迷わず言った。
窓の外では夜明けが近づいていた。だが、その空はどす黒い雲に覆われ、光は見えなかった。




