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わたしを見て  作者: かわさきはっく


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第46話 侵食

 K大学病院の救急外来は、もはや医療の現場というよりは戦場の野営地に近かった。

 ストレッチャーの車輪が擦れる音、嘔吐する音、そして「見ないでくれ!」という絶叫が、白い壁に反響して渦巻いている。


「……高嶋先生! 3番ベッドの患者、鎮静剤が効きません! 拘束具を引きちぎって暴れています!」


「……先生! 待合室でまた一人が発症しました! 目が……目が溶けて……!」


 看護師たちの悲鳴のような報告が茜の鼓膜を叩く。


 茜は防護服の内側で荒い息を吐きながら、機械的に指示を出し続けていた。


「……3番にはジアゼパムを追加。量は倍でいいわ。……待合室の患者は空いている処置室へ。他の患者に見せないで」


 茜は自分でも驚くほど冷静だった。

 いや、それは冷静さではない。感情が摩耗し、現実感が麻痺しているだけだ。

 目の前で繰り広げられる惨劇が、どこか遠い世界の出来事のように思える。


 彼女は一人の若い男性患者の元へ走った。彼は両手で顔を覆い、ガタガタと震えていた。

 指の間から、ドロリとした赤い液体が糸を引いている。


「……落ち着いて。今、痛み止めを打ちますから」


 茜は男性の腕を取り、血管を探した。


「……先生、俺の顔……どうなってる?」


 男性がかすれた声で問いかけてくる。


「……痒いんだ。……皮膚の下に虫がいるみたいに……」


「……見ちゃだめ」


 茜は短く言った。


「……鏡も、スマホの画面も、窓ガラスも。……自分の顔が映るものは一切見ないで」


 それは医学的なアドバイスではなく、この呪いから少しでも長く正気を保つための、唯一の延命措置だった。


 男性はカクリとうなずき、やがて薬が効いてくると泥のように眠りについた。


 茜は深く息を吐き、額の汗を拭おうとした。その時――。

 防護手袋越しに触れた自分のこめかみに違和感を覚えた。


 グニリ。


 硬い骨の感触があるはずの場所に、熟れた果実のような嫌な柔らかさがあった。


 茜の動きが止まる。


(……まさか)


 彼女はゆっくりと手を離した。

 手袋の指先に、黄色い膿のようなものが付着している。

 鏡を見るまでもない。皮膚が崩れ始めている。


 恐怖よりも先にある記憶が脳裏をかすめた。

 心当たりなら、ある。いや、まさか。あんな些細なことで?


 以前、症例のレポートを作成するため、深夜の医局でネット上の情報を漁っていた時のことだ。

 検索結果の画像一覧の中に、それは紛れ込んでいた。

 『BlueLull(ブルー・ラル)』のサムネイル。


 クリックして開いたわけではない。無数に並ぶ検索結果の一つとして、数ミリ四方の小さな画像が、スクロールする視界の端をかすめただけだ。

 当時は気にも留めなかった。現にそのあと何も起こらなかったのだから。

 だが、種は蒔かれていたのだ。


(……潜伏期間があったというの? それとも……)


 茜の脳内で医師としての思考が高速回転する。

 あの時はサムネイル程度の情報量では発症に至らなかった。

 ウイルス量が足りていなかったのだ。

 しかし今、凪の怨念が都市全体を覆い、呪いの「濃度」が劇的に上昇した。

 それによって、茜の体内に眠っていた微量な呪いの因子が刺激され、一気に活性化したのではないか。

 パンデミックにおける感染力の変異と同じだ。


「……高嶋先生?」


 背後から看護師に声をかけられ、茜はビクリと肩を震わせた。


「……大丈夫ですか?」


「……ええ、平気よ」


 茜は振り返らずに答えた。声が震えないように腹に力を入れる。


「……ちょっと、休憩してくるわ。……五分だけ」


「あ、はい。……無理しないでくださいね」


 茜は逃げるようにその場を離れ、職員用のトイレに駆け込んだ。

 個室に入り、鍵をかける。

 狭い空間。

 ここだけが、喧噪から切り離されたシェルターだった。


 茜は便器の蓋に座り込み、ゴーグルを外した。

 途端に強烈な光が網膜を刺した。

 トイレの白い壁、天井の蛍光灯、ステンレスの配管。

 すべての「白」と「光」が鋭利な刃物となって目に突き刺さる。


「……う、ぐ……ッ」


 茜は(うめ)|き声を漏らし、両手で目を押さえた。


 痛い。

 眼球の奥が焼けつくようだ。

 そして、顔全体に広がる耐え難い痒み。

 掻きむしりたい。皮膚を全部剥がしてしまいたい。

 その衝動が波のように押し寄せる。


(……三上さんは、ずっとこんな痛みに耐えていたのね)


 茜は膝の上で拳を握りしめ、爪を食い込ませた。

 痛みで痒みをごまかす。

 三上悟という男の精神力に、改めて畏敬の念を抱いた。

 彼はこの地獄の中で、それでも「生きたい」と願い、真相を追っていたのだ。


 ふと、ポケットの中のスマートフォンが震えた。

 取り出してみと、画面には「不在着信:母」の文字があった。

 実家の母だ。きっとニュースを見て、心配してかけてきたのだろう。


 茜は画面を見つめたまま、通話ボタンを押さなかった。

 今、母の声を聞けば、きっと心が折れてしまう。

 「助けて」「怖い」と泣き叫んでしまう。

 そうなれば、もう医者としては立っていられない。


「……ごめんね、お母さん」


 茜はつぶやき、電源をオフにした。

 画面が暗くなり、黒いガラス面に、ぼんやりと自分の顔が映り込んだ。


「……ひッ」


 茜は短く息を飲んだ。

 暗い画面の中に映っていたのは、右目の周りが赤黒く爛れ、皮膚が垂れ下がった、化け物の顔だった。

 それは一瞬で終わった。

 茜はスマホを胸に抱き、ガタガタと震え出した。

 見てしまった。自分が「壊れていく」姿を。


 涙が溢れてきた。だが、その涙さえも成分が変質しているのか、頬を伝うたびに焼きごてを当てられたような激痛が走る。


(……まだよ)


 茜は唇を噛み締め、立ち上がった。まだ、足は動く。まだ、思考はクリアだ。

 三上たちが解決策を見つけるまで、ここで時間を稼ぐ。

 一秒でも長く、このパンデミックの防波堤になる。

 それが、自分に残された最後の役割であり、この苦しみを興味の対象として見ていたことへの贖罪だと思った。


 茜はゴーグルを装着し直し、大きく深呼吸をした。肺の奥から、腐ったような甘い臭いがした。

 カチャリ、と鍵を開ける。

 扉の向こうには、まだ救いを求める患者たちの絶叫が待っている。

 茜はもはや戻ることのない「日常」に背を向け、白く輝く地獄へと再び足を踏み出した。

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