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わたしを見て  作者: かわさきはっく


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第44話 パンデミックの報告

 スマートフォンのスピーカーから漏れ出る音は、この世の地獄を凝縮したようなノイズだった。

 怒号。悲鳴。何かが破壊される音。そして、絶え間なく鳴り響く医療機器のアラート音。

 それらが混然一体となって、静まり返った神社の離れ座敷に不協和音を撒き散らしている。


『……警察の応援はまだですか! もうスタッフだけじゃ抑えきれません!』


 高嶋茜の声は悲鳴に近かった。理知的な医師としてのトーンは消え失せ、極限状態の焦燥が剥き出しになっている。


「……落ち着け、高嶋」


 黒田刑事が低い声で諭すように言った。


「本庁には連絡した。機動隊が出るはずだ。……だが、道路が混んでる。少し時間がかかるかもしれん」


『時間がかかる……!? 待てません! 患者が……患者たちが、暴れて……!』


 ガシャン、とガラスが割れるような音が響き、茜が短く息を飲む音が聞こえた。

 俺は布団の中で身を硬くしていた。

 見えない目を見開き、その音声情報のすべてを聞き漏らすまいと耳を澄ませる。

 茜さんのいる場所――K大学病院の救急外来が、今どうなっているのか。想像するだけで背筋が凍る。


「……高嶋。状況を教えてくれ」


 黒田が冷静さを保とうと努めながら問う。


「暴動の原因は何だ。薬がないからか? それとも待ち時間が長いからか?」


『……違います』


 茜の声が、ふっと低くなった。


『……恐怖です』


「恐怖?」


『……来院する患者の症状は、全員同じです。……激しい目の痛み。顔面の皮膚の壊死。そして、光への異常な過敏反応』


 茜は震える声で続けた。


『……三上さんと全く同じです。……それが、数時間で爆発的に増えているんです』


 俺の心臓が早鐘を打った。

 やはり、そうか。

 俺の体の中で凪が沈黙したのは、彼女の呪いが個人の枠を超え、都市全体へと拡散したからだ。

 俺は「検体第1号」に過ぎなかったのだ。


『……患者たちは、自分の顔が崩れていく恐怖でパニックになっています。鏡を見て発狂する人、痛みに耐えかねて壁に頭を打ち付ける人……。鎮静剤も足りません。……それに、医療スタッフの中にも、発症者が出始めています』


 感染爆発。医療崩壊。その言葉が現実の重みを持ってのしかかる。


「……高嶋、お前は無事なのか」


 黒田が核心を突く質問をした。


 一瞬、沈黙があった。電話の向こうのノイズだけが、ザラザラと響く。


『……ええ』


 一拍置いて、茜が答えた。


『……私は、大丈夫です。防護服を着ていますし……今のところ、症状はありません』


 嘘だ。

 俺の直感が、そう告げていた。

 声のトーンが、わずかに上ずった。

 そして何より、今の彼女の声には、どこか「死」を予感させるような、乾いた響きが混じっている。

 俺と同じ匂い。

 呪いに侵された者特有の、あの甘ったるい腐臭が、電波越しに漂ってくるような錯覚を覚える。


「……茜さん」


 俺はかすれた声で呼びかけた。


「……本当に、大丈夫なんですか。……目が痛かったり、腕が痒かったり……しないんですか」


 俺の問いかけに、茜は息を詰まらせたようだった。だが、すぐに気丈な声が返ってきた。


『……三上さん。……心配しないでください。私は医者です。自分の管理くらいできます』


 拒絶。それは、彼女が患者ではなく治療者であり続けようとする最後の意地だったのかもしれない。

 あるいは、俺たちに余計な心配をかけまいとする配慮か。

 俺はそれ以上何も言えなかった。今の俺に彼女を問い詰める資格も、救う力もない。


『……黒田さん。……もう一つ、報告があります』


 茜が話題を変えた。


『……死亡者が出ています。……呪いによる直接死ではありません。……自殺です』


「……自殺だと?」


『……屋上から飛び降りたり、カッターで頸動脈を切ったり……。……自分の顔を見ることに耐えられなくて……絶望して……』


 茜の声が震え、嗚咽(おえつ)をこらえるように途切れた。


『……地獄です。ここは……もう、病院じゃありません』


 雨宮神主が、俺の枕元で深くため息をつき、念仏のように何かをつぶやいたのが聞こえた。

 地獄の蓋は完全に開いてしまった。

 蒼月凪の復讐は彼女を追い詰めた社会そのものを道連れに完了しようとしている。


『……もう、切ります。……次の患者が来ました』


 茜が早口で言った。


『……三上さんを頼みます。……それと、雨宮さんも、どうかご無事で』


「おい、高嶋! 無理するなよ! 逃げてもいいんだぞ!」


 黒田が叫んだが、通話はプツリと切れた。

 後に残ったのは、耳鳴りのような静寂だけだった。

 黒田はスマートフォンを畳に投げ出すと、乱暴に髪をかきむしった。


「……クソッ! 何もできねえのかよ! 俺たちは!」


 バン、と壁を殴る音がした。


 無力感。

 現場で戦う仲間を見殺しにしているような焦燥が、ベテラン刑事の理性を削り取っていく。


「……黒田刑事」


 雨宮が静かに声をかけた。


「……落ち着かれよ。……我々がここで取り乱しても、事態は好転しません」


「分かってる! 分かってるが……!」


「……茜殿は、戦っております。……ならば、我々も、我々の戦場へ戻らねばなりますまい」


 雨宮の声には先ほどの懺悔を経て、腹を括った者の凄みがあった。

 俺は闇の中でうなずいた。

 そうだ。病院へ行くことも、暴徒を鎮圧することもできない俺たちには、俺たちにしかできない役割があるはずだ。

 物理的な対処療法ではなく、この災厄の根源――呪いそのものを解体すること。


「……雨宮さん」


 俺は体を起こそうとした。まだ激痛が走るが、寝ている場合ではない。


「……文献を探しましょう。……凪がこの呪いを作り上げるために参考にしたもの、あるいは、この土地の『穢れ』を鎮めるための古い儀式……何かヒントがあるはずです」


 黒田が俺の方を見た気配がした。


「……そうだな。……警察の捜査も、医学の治療も、もう役に立たねえ。……残るは、オカルトだけだ」


 黒田は投げ出したスマートフォンを拾い上げ、ポケットにねじ込んだ。


「……やろう。徹底的にな」


 外からは、遠く、近く、幾重にも重なるサイレンの音が聞こえていた。

 街が死んでいく音がする。

 その音を聞きながら、俺たちは最後の悪あがきを始めることにした。

 茜さんがついた「大丈夫」という悲しい嘘を、本当のことにするために。

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