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わたしを見て  作者: かわさきはっく


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第43話 大人の後悔

 神社の離れ座敷には重苦しい沈黙が横たわっていた。


 俺、三上悟は、布団の中で身動き一つ取れずにいた。

 全身を苛む痛みと痒みは、もはや感覚の一部となり、意識の淵にこびりついている。


 視界は闇。

 頭の中の凪の声も、依然として沈黙したままだ。

 その静寂がかえって、これから訪れるであろう破滅の予兆のように感じられ、俺の神経をすり減らしていた。


 カチッ。


 ジッポライターを開く乾いた音が響いた。

 黒田刑事が、また煙草に火をつけたようだ。

 紫煙の匂いが、俺の腐臭と混じり合い、部屋に充満していく。


「……さて」


 黒田が低く、しわがれた声で口火を切った。


「三上も落ち着いたようだ。……雨宮さん、話してもらおうか」


 衣擦れの音がした。

 雨宮神主が居住まいを正した気配が伝わってくる。


「……あんた、さっき言ったな。『目を逸らし続けてきた』と」


 黒田の声には刑事特有の鋭さと、それとは裏腹な、どこか諦観めいた響きが同居していた。


「この土地の因習。蒼月家の業。……あんたは、それを知っていながら、なぜ今まで黙っていた?」


 雨宮の深い溜息が聞こえた。


「……黙っていたのではありません。……信じようとしなかったのです」


「信じない?」


「……わしはこの神社の家に生まれ、神職として育ちました。先代である父からは口伝で聞かされておりましたよ。舟倉の土地には『穢れ』が溜まる。それを海へ流すのが我らの役目であり、その依り代となるのが蒼月の一族である、と」


 雨宮の声は懺悔をする罪人のように震えていた。


「ですが……わしは、それを単なる『昔話』だと思っておりました。古い田舎によくある、根拠のない迷信だと」


「……まあ、普通はそう思うだろうな」


 黒田が短く相槌を打つ。


「時代は変わりました。科学が発達し、病気には病名がつき、薬で治る。……そんな時代に『穢れ』だの『人柱』だの、本気で信じる者はおりません」


 雨宮は自分に言い聞かせるように続けた。


「蒼月凪殿のことも知っておりました。……あの子が幼い頃から酷い皮膚病に苦しんでいることも、光を避けて暮らしていることも」


 俺は闇の中で、雨宮の言葉を聞いていた。

 地元の名士である神主。

 彼は孤立していた蒼月家を、一番近くで見ていた他人だったのだ。


「……あの子の姿を見るたび、わしは感じておりました。……あの子の背負っているものが、ただの病気ではないことを。……あの子の周りだけ空気が淀み、黒い何かが渦巻いているのを、この目で見てもいたのです」


「……見えていたのか」


「ええ。……ですが、わしはそれを否定しました。『気のせいだ』『あの子は重いアレルギーなのだ』と、自分に言い聞かせたのです」


 雨宮の声が苦渋に満ちたものに変わった。


「……もし、それが『業』であると認めてしまえば……わしは神職として、あの子を救わねばならなくなる。……ですが、人の身で『穢れ』そのものに立ち向かうなど恐ろしい。……関わりたくない。……そう思って目を逸らしたのです」


 保身。事なかれ主義。それは、現代社会を生きる大人なら、誰もが持っている防衛本能だ。


 「見なかったことにする」。


 その無関心の積み重ねが凪を孤立させ、絶望へと追いやった。


「……あの子が死んだと聞いた時、わしは……恥ずかしながら、安堵しました」


 雨宮の独白は続いた。


「これで終わった、と。……『人柱』がいなくなれば、この因習も終わるのだと。……あの子がネットで何をしていたかも知らず、ただ、厄介事が去ったと……」


 ドン、と畳を叩く音がした。


 雨宮が、床に拳を突き立てたのだ。


「……愚かでした。……わしが、もっと早く向き合っていれば。……あの子の話を聞き、その苦しみを『業』として認め、共に祈祷でもしていれば……。あの子は、あんな呪いのサイトなど作らずに済んだかもしれない。……わしが、殺したも同然です」


 老人の啜り泣く声が、静寂に響いた。


 後悔。

 取り返しのつかない過去への、痛切な悔恨。

 それは、俺が健太に対して抱いている感情と同じだった。


 俺も、健太のSOSをオカルトネタとして消費し、真剣に向き合わなかった。

 雨宮もまた、凪の苦しみを迷信あるいは病気として処理し、見て見ぬふりをした。


 俺たちは共犯者だ。


 しばらくの沈黙の後、黒田が口を開いた。


「……責められんよ」


 その声は意外なほど優しかった。


「……俺だってそうだ。今の今まで……いや、三上のこの姿を見るまでは、呪いだの祟りだの、本気で信じる奴は頭がおかしいと思ってた」


 黒田は新しい煙草を取り出し、口に咥えた。


「……刑事なんて仕事をしてるとよ、毎日、死体や犯罪を見る。……その全てに合理的な理由をつけて、書類にまとめるのが俺たちの仕事だ。『怨恨』『金銭トラブル』『精神疾患』……。そうやってラベルを貼って整理して、忘れていく」


 カチッ、とライターの音がした。


「……そうしなきゃ、やってられねえからな。……いちいち死人の無念だの、目に見えない因縁だのに付き合ってたら、こっちの精神が持たねえ」


 黒田は深く煙を吐き出した。


「……現代人なんて、そんなもんだろ。……見たくないものは見ない。理解できないものは『異常』として切り捨てる。……俺も、あんたも、そして世間もな」


 俺は布団の中で、爛れた手を握りしめた。

 黒田の言う通りだ。

 蒼月凪が憎んだのは、その現代人の冷淡さ、そのものだった。

 顔写真を晒して笑った連中だけではない。それを見て見ぬふりをした連中。

 彼女の苦しみに気づきながら、関わり合いになるのを避けた連中。

 その全てが彼女にとっては敵だったのだ。


「……だがな、神主」


 黒田の声に、力が戻った。


「……今は、違う。……俺たちはもう見ちまった。……三上のこの姿を。……そして、この街で起きている異常事態を」


「……はい」


 雨宮が涙声で応えた。


「……後悔してる暇があるなら動くぞ。……これ以上、あの子に……凪に、罪を重ねさせちゃならねえ」


 黒田の言葉は自分自身に向けた誓いのようにも聞こえた。

 法で裁けないなら、刑事としての矜持で。

 科学で救えないなら、人間としての意地で。

 この理不尽な災厄に立ち向かうしかない。


 大人の後悔。それは若者を守れなかったという罪悪感だ。だが、その罪悪感こそが、今、バラバラになりかけた俺たちを、辛うじて繋ぎ止める鎖となっていた。


「……三上。起きてるか」


 黒田が俺に声をかけてきた。


「……ああ。聞いてたよ」


 俺はかすれた声で答えた。


「……俺も同じだ。……健太を見殺しにした。……だから、ここで終わるわけにはいかない」


「上等だ」


 黒田がニヤリと笑った気配がした。


「……俺たちは共犯者だ。最後まで付き合ってもらうぞ」


 その時だった。黒田の懐で、スマートフォンがけたたましく鳴り響いた。

 着信音ではない。緊急地震速報のような、不快な警告音。


 いや、違う。これは……。


「……高嶋か」


 黒田が画面を確認し、通話ボタンを押した。スピーカーモードにする。


『……黒田さん……! 聞こえますか……!』


 ノイズ混じりの、悲鳴に近い声。


 茜だ。だが、その声の背後からはもっと凄まじい音が聞こえてきた。


 怒号。悲鳴。ガラスが割れる音。何かが破壊される音。それは、この世の地獄の環境音だった。


『……病院が……! 救急外来が、パンクしました……!』


 茜が叫んでいる。


『……患者が……溢れかえって……! 暴動が起きています! 止められません!』


 俺たちの静寂は終わりを告げた。


 外の世界では、すでに決定的な崩壊が始まっていたのだ。

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