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わたしを見て  作者: かわさきはっく


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第42話 沈黙する怨念

 意識が泥の底から浮上するように、俺、三上悟は覚醒した。


 最初に感じたのは、畳のイグサの匂いと、自分自身の体から発せられる甘ったるい腐臭だった。

 そして、全身を焼くような痛み。

 皮膚の内側から食い破られるような激痛が、脈拍に合わせて波のように押し寄せてくる。


「……ぐ……」


 喉の奥から乾いた(うめ)き声が漏れた。


 まぶたを開けても、閉じていても、視界は変わらない。

 完全な闇。

 俺はまだ、あの悪夢の中にいた。いや、これこそが現実なのだ。


「……気がついたか」


 すぐ近くで、低く、太い声がした。黒田刑事だ。

 気配から察するに、俺の枕元で座り込んでいたらしい。

 俺は体を起こそうとしたが、腕に力が入らず、そのまま崩れ落ちた。


「無理をするな。……ひどく暴れていたからな。体力を使い果たしたんだろう」


 黒田の手が俺の肩を支え、布団に戻してくれた。

 その無骨な手の感触だけが、俺がまだ人間社会の縁に繋ぎ止められていることを教えてくれる。

 俺は記憶を手繰り寄せた。


 海琴の告白。

 凪の激昂。

 俺の体を使って叫んだ、あの怨嗟の声。

 そして、俺は大人三人に取り押さえられ、意識を飛ばしたのだった。


 ……茜さんは? 気配を探る。

 部屋には俺と黒田、そして少し離れた場所で静かに呼吸をする雨宮神主の気配しかなかった。


 ああ、そうだ。彼女は病院からの呼び出しを受けて出て行ったのだ。「急患が急増している」と言って。


「……水、飲むか」


 黒田が俺の口元に何かを当てた。ペットボトルの冷たい感触。


 俺は貪るように水を飲んだ。

 乾いた喉に水分が染み渡り、わずかに思考がクリアになる。

 その時、俺は「異変」に気づいた。


 静かだ。あまりにも、静かすぎる。

 神社の夜明け前の静寂のことではない。俺の「頭の中」のことだ。

 ここ数日、片時も休まることなく響いていた、あの声がない。


 蒼月凪の幻聴。

 俺を誘惑し、罵倒し、泣き叫んでいた、あの妹の怨念が、今は完全に沈黙している。


(……凪?)


 俺は心の中で呼びかけた。


 返事はない。


(……おい、聞こえてるんだろ。……怒ってるなら、怒鳴ればいい)


 反応がない。

 いつもなら、俺の思考の端々に絡みつき、感情を逆撫でするようなノイズが走るはずだった。

 だが、今は何もない。まるで、最初から何もいなかったかのような空虚な静寂。


 消えたのか?

 海琴の告白を聞いて成仏したのか?

 いや、そんなはずはない。あいつは最後に叫んでいた。


 『裏切り者』『全員、許さない』と。


 あの強烈な殺意がそう簡単に消え去るわけがない。

 俺は背筋が寒くなるのを感じた。

 これは「消失」ではない。もっと質の悪い、底知れない何かが起きている。


「……三上? どうした、顔色が悪いぞ」


 黒田が俺の異変を察知して声をかけてきた。


「……静かなんです」


 俺は掠れた声で答えた。


「静か? ああ、今は誰もいないからな。外も静まり返ってる」


「違うんです……。あいつの声が……凪の声が、しないんです」


 黒田が息を飲む気配がした。

 雨宮神主も、衣擦れの音をさせてこちらに近づいてきた。


「……成仏した、というわけではなさそうですな」


 雨宮の声は硬かった。


「この部屋に充満している『気』は、薄まるどころか、より重く、淀んでおる。……嵐の前の静けさ、というやつでしょう」


 俺は見えない目で天井の方角を見上げた。

 そこには何もない闇が広がっているだけだが、俺の感覚はその奥に潜む巨大な気配を捉えていた。


「……潜ったんだと思います」


 俺は直感したことを言葉にした。


「あいつは消えたんじゃない。もっと深いところに……俺の意識のずっと奥底に潜り込んで……何かを待っている」


「待っているだと? 何をだ」


「……分かりません。でも……」


 俺は自分の胸を押さえた。

 心臓の鼓動が自分のものだけではないような、奇妙な違和感があった。


「……力を溜めているような気がするんです。……次に浮上してきた時は、もう、俺の意識なんて吹き飛んでしまうくらいの、決定的な何かが起こる……そんな気がします」


 黒田が重い溜息をついた。


「……厄介だな。暴れてくれている方が、まだ対処のしようがあるってもんだ」


 見えない敵。

 聞こえない声。

 それは、これまでの対話の可能性すら断ち切られたことを意味していた。

 海琴の言葉も、俺の説得も、もう届かない場所に彼女は行ってしまったのかもしれない。

 ただ、純粋な『呪い』という機能だけを残して。


「……黒田さん。……茜さんからは?」


 俺は話題を変えた。

 この不気味な静寂に耐えきれなかったのもあるが、病院に戻った彼女のことが気がかりだった。


「……まだ連絡はない」


 黒田は短く答えた。


「だが、吉報は期待するな。……ここに来る直前、俺のスマホに入ったニュース速報じゃ、K市内の医療機関はどこもパンク状態だそうだ。暴動騒ぎも起きているらしい」


「……そんなに……」


「ああ。お前が寝ている間に世界は一変しちまったようだ」


 俺は包帯の下の爛れた皮膚がピリピリと粟立つのを感じた。

 俺の体の中で沈黙している凪。

 そして、外の世界で爆発的に広がる壊貌病(かいぼうびょう)

 この二つは間違いなくリンクしている。


 凪が沈黙しているのは、彼女の意識が俺という個体を超えて、K市全体、あるいはもっと広い範囲に拡散してしまったからではないのか。


 俺はただの「抜け殻」になったのか?

 いや、違う。「核」はまだここにある。

 俺の体の奥底で冷たい氷のように固く、重く、鎮座している。


「……雨宮さん」


 黒田が神主に向き直った気配がした。


「……こうなっちまった以上、俺たちにできることは限られてる。……あんた神主だろ。この土地の呪いについて、本当はもっと何か知ってるんじゃないか」


 黒田の声には刑事としての鋭い追及の響きがあった。


 雨宮はしばらく沈黙していた。

 離れ座敷の重苦しい空気が、さらに密度を増していく。


「……知らぬ存ぜぬで通せる段階は過ぎましたよ」


 黒田が畳み掛ける。


「三上はこうして呪いの器にされ、茜先生は地獄のような病院で戦ってる。……俺だって、部外者だが、ここまで首を突っ込んだ以上、引く気はねえ。……あんたが隠していること全部吐き出してくれ」


 雨宮の、長い溜息が聞こえた。

 それは諦めと、そして深い後悔が入り混じったような重い音だった。


「……隠していたわけではないのです」


 雨宮がぽつりと語り始めた。


「ただ……認めたくなかった。……わし自身が、この土地の『業』から、目を逸らし続けてきたことを」


 衣擦れの音がして、雨宮が俺の枕元に座り直したのが分かった。


「……話しましょう。わしが知っている、この舟倉の因習と……わしの後悔を」


 夜明けの光が差し込んでいるはずの時間だが、俺の視界は闇のままだ。

 その闇の中で、老人と刑事、そして呪われた男の、静かで重い対話が始まろうとしていた。

 凪の沈黙は、俺たちに与えられた最後の猶予なのかもしれない。

 俺は全身の激痛をこらえ、雨宮の言葉を一言も聞き漏らすまいと耳を澄ませた。

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