第41話 感染の自覚
神社の離れ座敷は、一瞬にして地獄へと変貌した。
俺、三上悟の頭の中で、蒼月凪の絶叫が反響し続けている。
『……裏切り者!』
『……姉さんも、そいつらも、全員、許さない!』
それはこれまで聞いてきたどんな幻聴よりも鋭く、冷たく、そして重かった。
脳髄を直接、無数の針で刺されるような激痛。
俺は爛れた顔を畳にこすりつけ、のたうち回った。
「……ぐ、あ、あああああっ!」
喉から獣のような咆哮が漏れる。
痛い。熱い。全身の皮膚が内側から食い破られるように脈打っている。俺の体の中で呪いが暴走していた。
海琴の告白は凪にとって救いではなかった。唯一の味方だと思っていた姉が、あろうことか刑事や医者たちに、あの忌まわしい記憶を売り渡した。そう、誤解してしまったのだ。
「……三上! おい、しっかりしろ!」
黒田の怒鳴り声が遠くの水底から聞こえるように響く。
黒田が俺の上半身を羽交い締めにする。だが、今の俺は自分でも制御できない力で暴れていた。
「……凪……! 違う、姉さんは……!」
俺は必死に呼びかけようとした。だが、俺の声は届かない。
凪の意識はどす黒い憎悪の奔流となって俺の思考を塗り潰していく。
『……見世物にした。また、わたしを笑い者にした』
『……許さない。もう、誰も信じない』
部屋の空気が急激に冷え込んでいくのが分かった。11月の夜気とは違う、もっと根源的な死の冷気。
廃屋で感じたあの気配が、この神聖なはずの神社の敷地内を侵食し始めていた。
「……雨宮さん! これは……!」
茜の悲鳴のような声がした。
「……結界が軋んでおる……!」
雨宮神主の切迫した声。
「……これほどの怨念とは……! 海琴殿の言葉が逆鱗に触れたか!」
雨宮が俺の足を押さえつける。茜も俺の腕を必死に掴んだ。大人三人がかりで、のたうち回る俺を床に縫い付ける。
「……三上さん! 聞こえますか! 意識を保って!」
茜の叫び声。だが、俺の意識は白濁し、痛みと憎悪の渦の中に飲み込まれていく。
「……ぐ、うう……ッ!」
限界だった。
俺の体からふっと力が抜け、意識が完全に暗転した。
俺は気絶した。
***
「……なんとかなったか」
黒田が息を吐く。
雨宮も肩で息をしながら、三上の枕元で数珠を握り直した。
部屋の隅では、海琴が小さく震えていた。
「……ごめんなさい……。凪、ごめんなさい……」
彼女は両手で耳を塞ぎ、うわごとのように謝罪を繰り返している。
彼女の心は限界を超えていた。
勇気を振り絞って告白した真実が、妹を救うどころか、さらに深い地獄へと突き落としてしまったのだ。
その時。
ピリリリリ、ピリリリリ。
無機質な電子音が張り詰めた空気を切り裂いた。茜のスマートフォンだ。
「……はい、高嶋です」
茜は震える手で電話に出た。相手はK大学病院の当直医だった。
「……え? 急患?」
茜の声色が医師のものに変わる。
「……はい。……ええ。……そんなに?」
茜の表情が曇っていくのを黒田は見逃さなかった。
通話が続くにつれ、彼女の顔色は青ざめていった。
「……分かりました。すぐ戻ります」
茜は電話を切ると、黒田と雨宮に向き直った。
「……病院に戻らないといけません」
「何があった」
黒田が問う。
「……急患が急増しているそうです。眼科と皮膚科に……。原因不明の目の痛みと、皮膚の異常を訴える患者が、救急外来に殺到していると……」
黒田の眉がピクリと動いた。
始まったのだ。
凪の怨念の暴走と呼応するように、外の世界でも「壊貌病」の感染爆発が始まろうとしている。
「……行け」
黒田は短く言った。
「ここは俺と雨宮さんで何とかする。あんたは医者だ。現場が呼んでるなら行くべきだ」
「……はい。三上さんのことはお願いします。……海琴さんも」
茜は立ち上がろうとした。その瞬間――。グラリ、と視界が揺れた。
「……ッ!」
茜は思わず柱に手をついた。目眩か。いや、違う。目の奥がチカチカする。
蛍光灯の光が、いつもより少しだけ眩しく、刺さるように感じた。
(……疲れね。寝てないから)
茜は自分にそう言い聞かせ、頭を振った。
あの夜、医局で感じた、「少し眩しい」という感覚。
あれが再び、より強く彼女を襲っていたことに、彼女はまだ気づかないふりをしていた。
「……海琴殿」
雨宮が、うずくまる海琴に声をかけた。
「……あんたも、一度家に戻りなされ。今のあんたがここにいても、自分を責めるだけだ。……少し、頭を冷やすといい」
海琴は虚ろな目で雨宮を見上げ、やがて力なくうなずいた。彼女もまた、限界だった。
茜は海琴を伴って離れ座敷を出た。
外は夜明け前。神社の境内の砂利を踏む音が、冷たい空気に響く。
「……海琴さん。送ります」
茜の声に海琴は反応しなかった。
ただ促されるまま、糸が切れた操り人形のように助手席へ体を滑り込ませる。
シートに沈み込んだその横顔は深く沈んでいて、かけるべき言葉が見つからない。
ドアを閉めると、車内は窒息しそうなほどの重苦しい静寂に包まれた。
茜は震える指先を押し込むようにしてエンジンを始動させた。
ブルル、という機械的な振動と低い駆動音が、ひどく場違いに響く。
意を決してライトのスイッチをひねる。
瞬間、二条の光が神社の鬱蒼とした木々を白く、鋭く照らし出した。
「……っ」
茜は反射的に目を細め、小さく呻いた。
ただのヘッドライトだ。それなのに、網膜を直接焼き切るような鋭い痛みが走り、視界の奥で白い残像がチカチカと明滅する。
見慣れたはずの光が、今は凶器のように感じられた。
(……急がないと)
茜はこみ上げる恐怖をハンドルのグリップ力に変え、アクセルを踏み込んだ。
彼女はまだ知らない。
自分が向かっている場所が、患者を救うための医療現場ではなく、地獄の入り口であることを。
そして、自分の体の中で、すでに「それ」が芽吹き始めていることを。
離れ座敷には意識を失った三上と、それを見守る黒田と雨宮だけが残された。
長い夜が、明けようとしていた。
だが、それは希望の朝ではなく、K市全体を巻き込む悪夢の始まりだった。




