第4話 亀裂
「――見るしかないんだ。本気で」
佐々木健太の人差し指がマウスのクリックボタンに沈み込もうとした、その刹那。
バタン!
俺は考えるより先に健太のノートPCの液晶画面を力任せに閉じていた。
「……っ!」
プラスチックがきしむ鈍い音と共に、calmのサイトが放っていた青白い光は俺たちの前から強制的に姿を消した。
編集部の静寂に健太の荒い呼吸と、俺が叩きつけたPCの衝撃音だけが耳障りに残った。
「……な、何するんスか!!」
健太が椅子から跳ね起きて俺を睨みつけた。その目は昨日までの好奇心や興奮とは違う、純粋な怒りと憎悪に近い色を浮かべていた。
「何する、じゃねえよ。お前、自分が何しようとしてたか分かってんのか」
俺はノートPCの天板を押さえつけたまま低い声で言った。
「『呪いの絵』の噂を知ってて、それをクリックする。それはな、佐々木。取材でも、フィールドワークでもねえ。ただの自殺志願だ。それも、一番馬鹿げた類のな」
「自殺志願なんかじゃない!」
健太は叫んだ。その声は編集部の薄い壁に反響し、震えているように聞こえた。
「俺は確かめたいだけだ! なぜ、みんな『目がチカチカする』なんて言い出すのか! なぜ、このcalmって人が、こんな絵を描いたのか! それを知りたいだけだ! あんたみたいに最初から全部『嘘』だって決めつけて、何も見ようとしない臆病者とは違う!」
「臆病者?」
カチン、ときた。俺の中の冷静さを保っていた何かが音を立てて切れた。
「ああ、そうだよ。俺は臆病者だ。だから、こんなオカルト雑誌で安全な岸辺から『あっち側』を眺めてメシを食ってる。だがな、お前は違う。お前は自分から『あっち側』に飛び込もうとしてる。その先に何があるかも知らずにな!」
「知ろうとしてるんじゃないスか!」
「死ぬかもしれねえんだぞ!? 噂が本当なら、失明して、発狂して、自殺するんだぞ! それでもいいってのか!」
「……」
健太は言葉に詰まった。だが、その目はまだ死んでいない。
「……三上さんには分からないんですよ」
健太は絞り出すような声で言った。
「あんたはこの人の『苦しみ』が分からない。俺は……俺は昨日からnagi……たぶん、calmさんの過去ログをずっと読んでて……分かってきた気がするんだ」
「何がだ」
「この人も……ずっと一人だったんだ。誰にも理解されずに『光が苦手』で、暗い場所にずっといた。俺も……俺も分かるんスよ。田舎から出てきて、大学じゃオカルト好きの変人扱いで……」
(馬鹿か、こいつは)
健太が何を言っているのか、俺には理解が追いつかなかった。こいつはたかがネットで見つけた匿名の画家に自分を投影している。民俗学徒としての探究心はいつの間にか歪んだ自己憐憫と、危険な共感にすり替わっていた。
「佐々木。お前は病気だ。オカルトにのまれかけてる」
俺はできるだけ冷静に、しかし決定的な一言を突きつけた。
「……今日はもう帰れ。そして、頭を冷やせ。明日、もう一度話を聞く。それでもお前が『見る』だの『分かる』だの寝言を言うつもりなら、編集長に報告して、お前をクビにしてもらう。うちの編集部は自殺志願者を雇う余裕はねえ」
「……!」
健太は俺の言葉に絶句した。
その顔が怒りから、絶望、そして深い軽蔑へと変わっていくのを俺は真正面から見つめていた。
「……分かりました」
健太はやけに静かな声で言った。
「クビにすればいいじゃないスか。あんたみたいに何もかも馬鹿にして、分かろうともしない人の下で働くのはこっちから願い下げだ」
健太は電源の落ちたノートPCを乱暴にバッグに詰め込むと、UMAの資料も、書きかけのレポートもそのままに、俺の横を通り過ぎた。
ドアが閉まる直前、健太は一度だけ振り返った。
「あんたが臆病者だから見えないだけだ。俺はちゃんと『見る』から」
バタン、と重い防音ドアが閉まる。
一人残された編集部に再び静寂が戻った。いや、さっきまでの静寂とは違う。耳が痛くなるような冷え切った沈黙だった。
俺はその場に数分間、立ち尽くしていた。
(やりすぎたか……?)
だが、あのままクリックさせるわけにはいかなかった。あれは、もう「指導」の範疇を超えていた。
俺は健太が座っていた椅子に、どさりと腰を下ろした。
デスクの上には健太が読み漁っていた資料が散らかったままだ。
古い掲示板のログを印刷した紙。そこに健太の拙い字で無数の書き込みがされていた。
『nagi=凪?』
『光が苦手=病気?』
『なぜ「海」ばかり描くのか?』
『BlueLull=蒼い凪=蒼月 凪?』
「蒼月……凪?」
そこには俺がまだ知らない、具体的な「名前」が記されていた。
健太は俺が想像していたよりも、ずっと深く、その核心に近づいていたのかもしれない。
俺はそのメモ書きを睨みつけながら、先ほど健太が言い放った言葉を反芻していた。
(俺が臆病者だから、見えないだけ……?)
あの時、俺が健太を止めなければならなかった本当の理由はあいつの安全を心配したからだけだっただろうか。
――俺自身が、その呪いが「本物」である可能性を心のどこかで恐れ始めていたからではないのか。
俺はその問いから目をそらすように、乱暴に自分のデスクに戻った。




