第37話 姉の壁
黒田の私用車はカフェ『シーブリーズ』の駐車場から少し離れた高台の木陰に停まっていた。
エンジンは切られている。
車内には重い沈黙と、黒田が燻らせるタバコの紫煙だけが満ちていた。
窓の外ではK市の港がゆっくりと夕闇に沈んでいく。
美しい風景だった。
だが、今の黒田たちには景色を眺めている余裕などなかった。
「……どうしますか、黒田さん」
助手席で、高嶋茜が絞り出すように言った。彼女の目は先ほどのカフェでの蒼月海琴の、あの氷のような「拒絶」の表情にまだ囚われている。
「……あんなに頑なだなんて……」
「……当たり前だ」
黒田はタバコの灰を携帯灰皿に落とした。
「あいつは妹の死の『秘密』を三年間、一人で守ってきたんだ。……それが、どんな『秘密』であれな。今さら俺たちみたいな、どこの馬の骨とも知れん連中に易々と話すわけがねえ」
「でも、時間がありません!」
茜の声がわずかにヒステリックになる。
「私たちがこうしている間にも、三上さんは……! それに全国で被害者が増え続けています!」
彼女の脳裏には神社の離れ座敷に残してきた三上の姿があった。
爛れた皮膚で、闇の中、幻聴に苦しむ、あの姿。
あれが呪いの現実だ。
「……分かってる」
黒田は短く言った。
「……だから、待つんだよ。あいつが、あの『シーブリーズ』という城から出てくるまでな」
黒田の目はカフェのドアだけを冷ややかに見据えていた。
張り込み。それが、この老練な刑事の唯一にして最強の武器だった。
ただ待ち続け、時間だけを浪費しているように見えるが、それは獲物を見極めるための確固とした仕事なのだ。
黒田と茜は車の中でその時を待った。
夜の港は虚しいほどに綺麗だ。
黒田が見据えていた場所。カフェの窓の明かりが消え、『CLOSED』の札が掛けられた。
午後七時。
裏口から蒼月海琴が疲れ果てた様子で出てきた。
彼女は駐車場に停めてあった古い軽自動車に乗り込もうとする。
その瞬間。
「……待ってもらおうか」
黒田がタイミングをはかったように、彼女の前に立ちはだかった。
茜も黒田の後について、海琴の側へ駆け寄っていた。
「……!」
海琴は闇の中に立つ黒田の巨体に驚き、悲鳴を上げそうになるのを必死で殺した。
彼女の目が怒りと恐怖で見開かれる。
「……あなたたち……! まだいたんですか!」
「話が終わっていないんでな」
「話すことなんてありません! 帰ってください! これ以上つきまとうなら警察を呼びますよ!」
「俺が警察だとはさっき言ったはずだが?」
黒田は動じなかった。
「……冗談じゃない……!」
海琴は震える手で車のドアノブを掴んだまま、二人を睨みつけた。
「……妹は死んだんです。もう、いないんです。……私からこれ以上、何を奪う気なんですか!」
「奪う? 逆だ」
黒田は一歩詰め寄った。
「……あんたの妹が今、奪っている」
「……え?」
「あんたが隠している妹の死の真相。……それが今、日本中で人を殺してるんだ」
「……!」
「俺たちはあんたが想像しているような、ただのゴシップを追ってるんじゃない」
黒田は懐から数枚の写真を撮り出した。
それは佐々木健太や高橋由紀が飛び降りた、あの凄惨な現場の写真だった。
「……佐々木健太。高橋由紀。佐藤……。三人だ。俺が知るだけでも、もう十人は超えてる。……全員、あんたの妹のサイトを見て、同じように窓から飛んだ」
海琴はその写真から目を逸らし、顔を青白くさせた。
「……なに、それ……。……集団自殺かなにか……? 私には……関係ない……」
「関係あるわ!」
今度は茜が叫んだ。彼女は黒田の横に進み出て、海琴に掴みかからんばかりの勢いで訴えた。
「……私たちの仲間が今、死にかけてるんです!」
「……!」
「三上さん……。彼も、あなたと同じように妹さんの真相を知ろうとして、あの絵を見た。……その結果、彼は視力を失い、そして……!」
茜は言葉に詰まった。ホテルでの、あの光景が蘇る。
「……彼の体はあの壊貌病で爛れています。妹さんの苦しみと全く同じ症状です。彼は蒼月凪に呪われているんです! 呪いを解く手がかりが必要なんです!」
「……かい……ぼうびょう……?」
海琴はその聞き慣れない単語をオウム返しにした。
「……嘘……。……呪い……? ……そんな馬鹿げたこと……」
口では否定したが、彼女の体がガタガタと震え始めた。
彼女は知っているのだ。妹が死の間際、何に傾倒していたのか。
そして「呪い」という言葉がただの比喩ではないことを。
だが、それでも。
彼女の心を縛る、もう一つの恐怖はそれよりも強かった。
妹が受けた、あの仕打ち。
あの「ネットリンチ」が、今、自分の身に振りかかるかもしれないという恐怖。
「……帰ってください」
海琴は最後の力を振り絞り、二人を拒絶した。
「……私は何も知りません。妹はただ病気で死んだだけです。……呪いだなんて、そんな非科学的なこと……」
彼女は黒田と茜を押し退けるようにして軽自動車のドアを開け、エンジンをかけた。
「お願いだから! もう、あの子をそっとしておいて!」
悲鳴のような叫びを残し、海琴の車は急発進して闇の中に消えていった。
駐車場に二人だけが残された。
「……クソッ……!」
黒田が地面を蹴った。
「……ダメだ。あいつは俺たちを『敵』だと思い込んでやがる」
「……どう、すれば……」
茜はその場に崩れ落ちそうになった。
唯一の手がかりだった姉との接触は最悪の形で失敗した。
黒田は深く、深くタバコの煙を吸い込んだ。
「……俺たちではダメか」
黒田は煙と共につぶやいた。
「……こうなれば、あいつに頼んでみる……か」
あいつ。
茜は黒田が言わんとしている人物を理解した。
神主の雨宮。
「現実」の最後の砦だった黒田が、ついに「オカルト」に頼ることを決意した瞬間だった。




