第36話 シーブリーズ
黒田の私用車は神社の森を抜け、K市の寂れたバイパスを走っていた。
運転席の黒田はタバコを噛み潰しそうな顔でフロントガラスを睨みつけている。
助手席で高嶋茜は自分の両手を固く握りしめていた。
彼女は昨夜、ビジネスホテルで目の当たりにした光景が網膜に焼き付いて離れなかった。
失明し、皮膚が爛れ、異臭を放ちながら、見えない「声」に苦しむ三上の姿。
あれが、呪いの末路。
あれが、自分の未来かもしれないという恐怖。
「……黒田さん」
茜がかろうじて声を絞り出した。
「……もし彼女が……蒼月海琴が何も知らなかったら。……あるいは話すことを拒否したら……」
「……その時はその時だ」
黒田は吐き捨てるように言った。
「法もクソもねえ。これは『戦争』だ。……だがな、あの言葉を聞いただろ」
『姉さんを見世物にするな』
三上の口を通して叫んだ凪の拒絶。
「……ええ」
茜はうなずいた。
「……凪の『聖域』を私たちが今から土足で踏みにじる……」
「……分かってるなら腹を括れ。俺たちはもう医者でも刑事でもねえ。……呪いとやらを前にした『当事者』だ」
黒田は車を急な坂道へと向かわせた。
三上の幻聴が示したヒント『港見の丘公園』。そこはK市の東側の高台にあった。
観光地というにはあまりにも手入れがされていなかった。
錆びついた手すり、色の剥げたベンチ。
だが、そこから見下ろす港の景色だけは息を飲むほどに美しく、そして冷たかった。
蒼月凪が愛したという、夜の青。
車を停めた黒田と茜はその景色の中心にぽつんと立つ、一つの建物に向かった。
古い平屋の喫茶店。
潮風で白くくすんだ看板には『シーブリーズ』と、かろうじて読める文字が残っていた。
駐車場に車を停めて、二人は入口のドアを開く。
カラン、と、ドアベルが鳴った。
店の中は狭く、薄暗かった。
カウンター席が数席と、窓際にテーブル席が三つ。
先客は二組。地元の老人らしき男性が一人と観光客らしい若いカップルが一組。
みな、窓の外の海をぼんやりと眺めている。
「……いらっしゃいませ」
カウンターの奥から、くぐもった声がした。
黒田と茜はその声の主を見た。
三十代にはまだ見えない。二十代後半だろうか。
地味なエプロンをつけた痩せた女性が、疲れた顔で、こちらを見ていた。
茜は息を飲んだ。
昨日、あの廃屋の二階で見た、色褪せたプリクラ。
内気そうに、しかし幸せそうに笑っていた、あの顔。
面影はある。
だが、目の前の女性はプリクラの中の彼女が持っていた、全ての「光」を失っていた。
まるで、妹の死と共に彼女の時間も止まってしまったかのように、ひどく虚ろな目をしていた。
蒼月海琴。
間違いない。
黒田は茜と目配せすると、カウンター席の一番端に音を立てて座った。
茜も、その隣に続く。
「……ご注文は」
海琴が水の入ったグラスを二人の前に置く。
「……コーヒーを二つ」
黒田が低い声で言った。
海琴は無言でうなずき、サイフォンの準備を始めた。
その背中はひどく小さく、脆く見えた。
黒田は他の客に目立たないよう、タイミングを計っていた。
都合の良い事にカップルが会計のために立ち上がり、店を出ていった。
残る客は窓際で居眠りを始めた老人一人。
今だ。
海琴が二つのカップをカウンターに置いた時だった。
黒田は立ち上がって彼女の方へ向かいながら、その挙動をじっと観察する。
「……蒼月海琴さん。……ですね?」
海琴のコーヒーサーバーを持つ手がピタリ、と止まった。
彼女の背中が一瞬で強張ったのが分かった。
ゆっくりと海琴が振り返る。
その目は怯えと、深い諦念に満ちていた。
「……人違いです」
彼女はか細い声で、そう言った。
「……何のご用ですか?」
「警察だ」
黒田は手帳は見せず、あえて、その一言だけを突きつけた。
海琴の顔から血の気が引いていく。
「……妹さんのことで、お話を伺いたい。……蒼月凪さんの件で」
その名前を口にした瞬間。海琴の表情が凍り付いた。
怯えが消え、代わりに硬い、氷のような「拒絶」が彼女の顔を覆った。
「……人違いです」
彼女はもう一度、今度は、はっきりとした声で言った。
「……私の妹は……もう亡くなっています」
茜が思わず口を開こうとする。
「待って、私たちは……!」
「お帰りください!」
海琴は茜の言葉を遮り、声を荒らげた。
その声に窓際の老人がビクリと目を覚ました。
「……妹は病気で死んだんです! もう、そっとしておいてください! これ以上、あの子を……私たちを見世物にするのはやめてください!」
彼女の目には涙が浮かんでいた。
だが、それは悲しみの涙ではなく、世界そのものを呪うような強い憎悪の涙だった。
黒田は黙って立ち上がった。
「……失礼した。コーヒー代だ」
黒田は千円札を二枚、カウンターに置くと、茜の腕を掴んだ。
「行くぞ」
「でも……!」
「今はダメだ」
二人は海琴の突き刺すような視線を背中に受けながら、カラン、とベルを鳴らし、カフェを後にした。
黒田は車のドアを開けると忌々しげにつぶやいた。
「……決まりだな。……あいつは知ってやがる。……全部だ」




